6
早めの昼食を終えて、少女とハジメは食堂を出た。
うんと伸びをしながら、少女は隣のハジメに聞く。
「ハジメちゃん、ショーケンさんの家に戻るの?」
「ううん、ちょっとおさんぽする」
「お散歩かあ」
少女は黒い唇を曲げて、少し困ったような表情になる。
「変な人に話しかけられたら、すぐにダーッて逃げるんだよ。あと、あんまり薄暗い店とか細い道には入らないこと!」
学校の先生のような言葉に、ハジメは頷く。それを見ると少女はにっこりと笑って、ひらひらと手を振った。
「それじゃ!またねー」
人混みの中に消えていく少女の姿を見送る。
そういえば、学校はまだ昼休み前なのではないか。ハジメは首を傾げつつ、通りを歩く。
次の目的地も特に決めないまま、道なりに行く。少女の忠告は忘れていない。通りに面した古着屋や古書店を覗く。
良い香りのする扇子が並んだ店の前で、ふと気がつく。丸三日、風呂に入っていない。
あの長屋には多分、浴室もない。トイレのように風呂も共用なのだろうか。
お湯が出るといいな。
それだけが気がかりだった。
長い長い通りに果ては見えない。少し疲れて、ハジメは立ち止まる。
そろそろ戻ろう。
踵を返し、元来た道を戻る。
そういえば、編笠の男はいつ戻ってくるのだろうか。帰りの時間も聞くべきだったかもしれない。
何度も通った水路の道に差し掛かる。覗き込んで見ても、さっきの潜水服はどこにもいない。橋の欄干にもやはり、ほっかむりは座っていなかった。
誰もいない道を、ハジメは寂しく歩く。
暫く進むと、ちかちかと点滅する灯りの下に人影が見えた。二人の青年がしゃがみ込み、何事か会話を交わしている。
一人は尻尾が生えている。地上でもよく見かけた、狐のようだ。あまり地下には寄り付かないと聞いた事があったが、地上から離れた者もいるのだろう。
会釈をして、狐の背後を通ろうとする。
するりと頰を尻尾が撫でた。
「おーい、ちょっと待ってねー」
狐が立ち上がり、ハジメを阻む。背後でもう一人の男が来た道を塞ぐように動き、ハジメは不安になった。
「ポッケに入ってるの、出してくれないかなあ」
狐が掌を差し出す。
少女の言葉が脳裏をよぎる。
狐の横を走ってすり抜けようとして、襟首を捕まえられた。くん、と喉が絞まる。
「煙草臭え」
そう言って狐はハジメのポケットに手を突っ込み、がま口を奪った。
爪先立ちでハジメはもがく。
「おい、首絞まってる」
男が笑うと、ハジメを捉えていた手が緩む。濡れた地面に尻餅をついた。
「結構入ってるな」
「あの、お金、かえして」
けほけほと咳き込みながら、ハジメは狐の腕に手を伸ばす。がま口はさらに高く掲げられる。首が締まったせいか、突然の事態に混乱しているのか、ハジメの目尻が熱くなってくる。
肩に衝撃を受けて、ハジメは転がる。
「どうするよ」
「川にでも投げとけ」
「それ俺にも半分くれよ」
ハジメは起き上がり、再びがま口を取り返そうとする。せっかく貰ったお金とがま口なのだ。貰ったその日に無くしてしまうわけにはいかない。
「かえしてっ」
狐の袖を引く。細い目が釣り上がり、手を振り上げた。
破裂音がして、ハジメの頰が熱を持つ。声も上げられずに痛みに耐えていると、蹴転がされてしまった。
「うわ、かわいそー」
男がつまらなさそうにそう言った。しゃくりあげるハジメの前に狐がしゃがみ込む。
「鬱陶しいガキだな」
周囲に狐火が灯る。熱気を伴った火はゆっくりとハジメの顔に近付いてくる。思わず腕を顔に引き寄せる。以前、お母さんにコーヒーをかけられたことを思い出した。あの時は少し赤くなるだけで済んだ。でも、今目の前にあるのはきっとコーヒーよりも熱い、火だ。
羽ばたきが聞こえた。
熱が消えたのを感じて、腕の間からそっと辺りを伺う。
鳩がいた。
「うわっ」
狐が仰け反るように立ち上がる。いつのまにか、十羽ほどの鳩がハジメの周りに屯していた。ハジメと狐達を観察するように鳩は首を傾げたり、くるくると囀る。
地下にどうやって、これだけの数の鳩が入ってきたのだろうか。
周囲の変化に気圧され、立ち上がることもできないまま目の前の男を見上げる。
狐が一点を見つめ、ぶわりと尻尾の毛を逆立てた。
ハジメもまた、狐の視線の先へと目を向ける。
すぐ近くに架かる赤い橋の欄干に幾羽も鳩が止まっている。無感情な視線がハジメ達を見つめる。
その橋の上を、金属が擦れ合う音を立ててナニカが進む。
白装束を纏い、鳩を引き連れたソレは橋を渡り、此方へと歩いてくる。
不思議と、狐も男もソレを見つめるばかりで微動だにしなかった。
ソレが近付いてくるにつれ、異様な姿がはっきりとわかるようになった。裾を引く白装束に、白い頭巾を被り、白い布を垂らして顔を完全に覆い隠している。その姿をハジメは見上げ……恐ろしく身長が高い事に気付いた。
絶対に、人ではない。
ハジメは身動き一つできず、ソレの動向をただただ見つめる。
ハジメたちの側までやって来たソレは腰をゆっくりと曲げ、狐の顔を覗き込む。
小動物のような声を狐は漏らした。
「諍いか」
ソレが声を発した。男女どちらとも取れる、不思議な声質だった。
「それが原因のようだ」
長い袖を掲げてがま口を指し示す。袖が滑り、厳しい籠手が現れた。
「いえ、これは」
狐が上ずった声で弁解する。震える手からがま口が落ちた。即座にハジメはそれを拾い上げる。
「諍いでないなら用は無い。まだ道を塞ぐか」
そう白装束が告げた途端、狐が姿を変えた。本来の姿に戻り、狐は男を置いて走り去る。
「ま、待ってくれ」
男が追いかける。二体の姿が角を曲がったのを見届けて、白装束はゆっくりと腰を伸ばした。
鳩が何羽か飛び立ち、白装束の肩や頭に止まる。白装束はハジメには興味が無いようで、鳩達を連れて道なりに進んで行った。
「あの、ありがとうございます」
急いで立ち上がり、白装束の後ろ姿に頭を下げる。切れた唇が痛いけど、早口で礼を言った。
白装束は振り返ることもなく、静々と去っていった。ハジメを助けたつもりなんて無いのかもしれない。それでも、ハジメはもう一度礼を言った。
鳩を連れた姿が見えなくなった後、財布を確認して、ハジメはほっとする。これであの男にも怒られないで済む。
蹴転がされた時についた汚れを払って、ハジメは再び帰路についた。
長屋に辿り着き、ひと心地つく。家ですら「安全な場所」ではなかったハジメにとって、狭い長屋も立派なシェルターだ。男が投げてよこした半纏に包まって、狐に蹴られた痛みに耐える。少し横になったら、和らぐだろう。畳の上で丸まって、目を閉じる。
微かな喧騒。
機械が動くような振動。
今まで気がつかなかったものが気になりだして、ハジメは何度も寝返りをうつ。
掠れた音を立てて、引き戸が開いた。
半纏に包まったまま、目だけを入り口に向けると、編笠の男がそこに立っていた。
「また寝てるのか」
履物を脱ぎ、男は畳に上がる。煙草盆の横にどっかりと座り、笠の下から紫煙を零した。
「おい、顔どうした」
そう問われて、思わず半纏の袖で顔を隠す。
男は大きな手を伸ばして、ハジメの顔を鷲掴んだ。
「この何時間かでどうやって怪我を作るんだ」
呆れたようにそう呟く男は、空いた手で煙草盆の引き出しを探る。塗り薬の瓶が出てきて、ハジメは竦む。
「それいたいの?」
「今のままの方が痛いだろ。動くな」
体を引く間も無くぐりぐりと薬を塗りこまれて、ハジメは小さく悲痛な声を出す。
「いたい」
「もう終わった」
男は塗り薬の蓋を閉め、元の場所に戻す。煙草盆を人差し指で軽く叩き、
「薬はここだ」
「はい……」
そうしてしばらく紫煙を燻らせる。ハジメは男から距離をとって、再び半纏にくるまった。
「昨日より小汚いな」
唐突に男が言葉を漏らす。
汚れた服のことだろうか。ハジメが小さくなっていると、男は立ち上がった。
「風呂行くぞ」
「おふろ」
「銭湯だ」
だから早く動け、と乱暴な口調で促す。ハジメは半纏を畳んで、部屋の隅に置いた。
「まだ金は残ってるか」
貰ったがま口のことを思い出して、男に見せる。笠の庇をつまみ、男は何が気に障ったのか鼻を鳴らした。
「買ったのか」
「がらくた屋のひとから、もらいました」
「なら、いい」
草履を突っかけ、男は長屋の外に出る。ハジメも後を追う。
先程よりも人通りが多い長屋通りを、二人は行く。男との距離を縮めるためせかせかと歩いていると、視界を袖で覆われた。
「これ掴んどけ」
袖を握り込み、人混みを進む。細い筋道を三回ほど曲がったところで、男が立ち止まった。
「そういえば替えの服が無いな」
男の言葉に、ハジメも今更ながら気がつく。投げてよこしてもらった半纏を除けば、衣服は今着ているものしかない。踵を返した男の袖に引かれ、路地の奥へと向かう。
樟脳の香りが漂う店先に到る。戸口に吊るされた和洋様々な衣服を暖簾のように掻き分け、男は問う。
「おい。ここ、小さい服はあるのか」
ハジメも吊るされた袴の合間から店内を覗く。入り口と同様に無雑作に衣服か吊るされた店内、その隅に位置する小高い帳場で千鳥格子の半纏が蠢いた。
「その図体で小さい服が要り用かい」
「こいつが要り用だ」
ぐいと袖が引かれ、ハジメは帳場の前に立たされる。半纏で頭を覆い、大福のように丸まったナニカはハジメに向かって袖を伸ばす。細い腕が袖からこぼれ落ち、ぺたりと床に手をつく。
「……ぴったりは無いよ」
「多少大きくても、はしょればいい」
「何言ってんだ。今は古着も洋装が主流だ」
右腕が店の奥へと伸びていく。逡巡するように手先が蠢き、縮むように戻ってきた。
「ワンピースを何着かと、上下を一着ずつでいいかい」
「はい」
質問に答えると、腕は再び伸びていく。衣擦れの音がして、ハンガーにかかったワンピースが三着、腕を伝って来た。
「こんなもんかね」
ハジメの身長を測っていた腕がひらひらとしたワンピースをハジメの胴体に押し付けた。
「ちょっと派手だね」
続いて、厚手のシャツワンピースを押し当てる。子供服というよりも、大人用のワイシャツのように思えた。
「寝間着ぐらいにはなるよ」
次に黒いワンピースを合わせる。これはちゃんと子供用で、丈もハジメが着るには申し分なかった。
「うん、この二着だね」
続いて、半纏はシャツとズボンを何枚か伝い下ろす。
「紐でくくるか、ゴムの方が良さそうだね」
そう言って、ワンピースと同じようにズボンをハジメに合わせていく。黒いズボンとスカートと悩んでいるのか、何度も両方を突きつけてる。しばらくして、スカートを棚に戻した。
シャツはすぐに決まった。ハジメに合うサイズのブラウスが一着しか無かったのだ。
何回かの服の往来の後、計四着の服が、半纏の右腕に残った。
「こんなもんかね」
「ほら。金だ」
とん、と男はハジメの肩を叩く。がま口のことを思い出して、急いで取り出す。
「五百」
短く半纏が言い放つ。少し大きめの硬貨を差し出すと、細い指がつまみ上げた。
「まいどあり」
半纏はワンピースを折り畳む。どこからか風呂敷を取り出すと、それに包んで渡してくれた。
「銭湯行くんだろ。おまけに色々つけてやろう」
「ありがとうございます」
包みを抱えて礼を言う。細い腕が半纏の中に戻っていくのを見届けて、二人は店を後にした。
大通りに出て、しばらく男について歩く。少し熱気のこもった場所に差し掛かる。
「銭湯はここだ」
重厚な構えの店を眺める。難しい字が並ぶ中、「湯」という字だけはなんとか読み取れた。
「道は覚えたか」
「えっと……」
「帰りで覚えろ」
男が店に足を踏み入れる。草履を脱ぎ下駄箱に入れたため、ハジメもそれにならう。
「どっちだ」
二つの暖簾を指差して、男が問う。暖簾の色と文字を見て片方を指差すと、男はハジメが差さなかった方へ向かった。
「先に出たらここで待っとけ。勝手にどこかに行くんじゃないぞ」
「はい」
男に釘を刺された後、ハジメも暖簾をくぐる。辺りを見回し、棚に並んだ籠の一つに風呂敷包を入れる。隣の女性がそうしたように、服を脱いで小さなタオルを持って次の部屋に進む。
湯気が視界を覆った。
広い浴場の中で、ハジメは少し立ち尽くす。
とん、と肩に冷たいものが当たった。
「あら、ごめんなさい」
顔の無い女性がぺこりと頭を下げる。突っ立っていたハジメが悪い。小さく謝ると、女性は頭を撫でて浴室の奥へ進んだ。
たっぷりとお湯を湛えたプールのような浴槽を見て、ハジメは少しわくわくした。
手近な椅子に座って、カランをひねる。少し冷たいシャワーにしばらく当たっていると、だんだん水温が上がってきた。
溶けかけた固形石鹸を泡立てる。周囲を見た限り、この石鹸は自由に使っていいようだ。泡だらけの手で髪の毛を洗う。少し髪が指に引っかかってもつれるけど、いつもの事だ。目に沁みないうちに洗い流す。
ちゃんと泡が無くなるまで身体中に水をかけて、ハジメは浴槽に向かった。つま先を浸けて温度を確認する。ちょっと熱いかもしれない。でも好奇心の方が優って、ハジメはお湯に入る。
縁に手をかけ、揺蕩う。浮力でお尻が浮いてきた。
あったかい。
家では冷たいシャワーで体を流したり、絞ったタオルで妹の体を拭うのが「お風呂」だった。ここでは昔みたいに、温かいお風呂に入ることが出来る。
ハジメは遠い昔にそうしていたように、肩までお湯に沈んだ。
火の粉が舞い、猛火が渦巻く。
「あら、ちょっと強火だったかしら」
振袖の女は首をかしげる。ぷすぷすと燃える追っ手だったものを見下ろし、肉塊の方を向いた。
「これなら、よく火が通っているからバッチくないわ」
女がそう言い終える前に、肉塊は炭に齧り付く。一心不乱に食事をする肉塊を見て、龍の少年は溜息をついた。
「折角の人質だったのに……」
「これは雑兵でしょう。取引には使えません」
足元に転がった炭のかけらを拾い上げ、肋骨服の男は軽く握った。炭は砕けてさらさらと地に落ちる。
その様を見て、バケツ頭は困ったような唸り声を出した。
「うーん、やっぱり場所がばれてるね」
「千里眼というやつか」
「地下の方が見えにくいかもしれないけど、逆に僕らもあれがわからないからなあ」
かたん、とバケツの取っ手が揺れる。
炭を食べ終えた肉塊は、皆がどこか一点を見つめていることに気づいた。
電信柱とビルの向こう、雲に覆われた空に聳え立つ礎。
その天辺でちかちかと、何かが光を反射している。
硬質な煌めきが、何かを肉塊に思い出させた。
「あ」
だが生憎、肉塊にはそれを誰かに伝える言葉がない。
「あー」
「どうした」
少年が肉塊の庇を覗き込む。喃語をくちゃくちゃと発する肉塊の目の前で、少年は眉をひそめた。
「もうちと、考えておる事がわかれば良いのに」
「赤ちゃんが伝えたいことなんて、空腹と眠気くらいでしょう?だから、そのどちらかよ」
女の言葉に少年は、ほおと相槌を打つ。
「なら先程食事はしたから、次は眠りたいのか。お腹いっぱいになったのだろう!」
「満腹するという事が、あるのでしょうか。このような子に」
肋骨服が小さく述べる。女は少し悲しげな表情をして、溜息をついた。
「もっと愛があれば、この子のお腹を満たせたのに……」
女の言葉にバケツ頭は朗らかな笑い声を返した。
「お腹が空いてても、眠くなるものだよ。僕らも少し休もう。他の方法を考える時間も必要だし」
そう言って、むにむにと肉塊のシワや手を握った。
その間も肉塊は、高みの煌めきを見つめている。何だか懐かしくて、心惹かれて、目が離せないのだ。
「あれが気になるかい」
バケツ頭が肉塊に聞いた。
言葉の意味はわからないが、触れられた場所がこそばゆくて肉塊はぱたぱたと疣のような手を動かす。
「あそこにはね、世界を見つめているモノがいるんだ。今もほら、僕らを観ている」
バケツ頭は礎を指差す。
輝きが一瞬収縮した。
瞬きのようなその動きが少し怖くなって、肉塊は地べたにうずくまった。
「此処で眠るな」
ぐい、と少年がボンネットを引っ張る。肉塊が尻尾を振ると、少年は不満げに鼻を鳴らした。
「こんな寒いところで寝ることはないじゃろう。ほれ、起きろ芋虫」
少年が喚く。堪り兼ねて、肉塊はのそりと起き上がった。
「こっちだ。ちゃんとついてくるのだぞ」
先程とは打って変わって、少年は静かな声で肉塊を招いた。他の者は既に、暗がりに溶け込んだように姿が見えなくなっている。
宙を飛ぶ少年の後を追い、肉塊は蠕動する。
ふと、気になって後ろを振り向いた。
相変わらず空にある輝きを窺い見て、肉塊はおずおずと闇に消えていった。




