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第一話:家畜の檻とふたつの記憶

あの日、私を突き動かしていたのは、胸を焼き尽くすような途方もない絶望だけだった。

 校舎の屋上、アスファルトを見下ろす境界線。震える足で一歩を踏み出した瞬間、冷たい風が頬を叩き、視界が恐ろしい速度で反転した。

(……ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい……っ)

 学校で無視され、菌のように扱われ、尊厳をズタズタに引き裂かれていた前世の私。

 泥のように疲れて帰る私を、毎晩、玄関で引きつった笑顔で迎えてくれた母の姿が浮かぶ。

「何かあったの?」「ご飯、食べる?」

 私の傷に触れないよう、怯えるように声をかけてくれていた。傷つく私を、母は自分の身を削って守ろうとしてくれていたのだ。

 それなのに私は、遺書の一枚すら遺さず、母の温かな愛も心配もすべて踏みにじって、自分勝手に命を投げ捨ててしまった。

『──自ら命の糸を断ち切った哀れな魂よ』

 暗闇と静寂の中で響いたのは、背後に無数の命の灯火を背負う、尊大で冷酷な存在──『命神』の声だった。

『お前が生きていた世界において、命とは不可侵の尊厳であった。それを自ら捨て、残された者を永遠の激痛へと突き落としたお前に、無の安らぎなど与えるものか。別なる世界へ往くが良い』

「嫌……っ! 嫌だ、もう痛いのは嫌……っ!」

『そこは、お前が捨てた“命”と“人権”、“名”のすべてが、国家のシステムによって徹底的に奪われる凄惨な地獄だ。……抗いなさい、エリシア。泥を啜り、家畜と貶められようとも……最後まで泥に這い、己の名と尊厳を取り戻してみせよ』

 神の呪詛のような導きによって与えられた、二度目の生。

 落ちていく暗闇の先で目覚めた瞬間、私の中でふたつの人生が荒々しく混ざり合い、ひとつの魂として融解していった。

 現代日本で惨めな死を選んだ記憶と、研ぎ澄まされた理系的な分析思考。

 そして、この世界でエルフの第一王女『エリシア』として愛され、慈しまれて育った温かな記憶。

 溢れんばかりの緑、同胞たちの澄んだ歌声、母上(女王)の甘い香りと抱きしめられた胸の温もり。

 前世で母を裏切った激しい後悔を抱える私を、異世界の母上は全身全霊の愛で包み込んでくれた。

『エリシア、私の愛しい娘。あなたが生まれてきてくれて、お母様は本当に幸せよ』

 けれど、その奇跡のような幸福も、人間の帝国の惨虐な踏みにじりによって一瞬で血に染まった。

 燃えさかる王城、焼き殺される同胞たちの悲鳴、生きたまま肉を削がれる将兵たち。

 母上は全身を肉片に変えられながら私を庇い、血を吐きながら私の耳元で叫んだのだ。

『生きなさい、エリシア……! どんな泥を舐めても、生き抜きなさい……!』

 前世で母の愛から逃げ出した無念と、今世の母上がその命をすべて撒き散らして繋いでくれた愛。

 ふたつの激痛と愛が重なり合い、私の肉体の中でどろどろとした殺意と執念の血となって駆け巡っていた。

 その壮絶な記憶の渦から引き戻されるように、頭頂部から氷のような冷水が乱暴にぶっかけられ、私は鼻から水が入って激しく咳き込んだ。

「おい、起きろ『704号』! 搾乳と繁殖適性検査の時間だ! 立て、汚ねえ家畜め!」

 荒い呼吸とともに目を開けると、そこは凝固した血の腐臭と、腐敗した藁の臭いが充満する、暗湿な檻の中だった。

「けっ、相変わらず血反吐を吐きそうな目をしてやがる。元姫様だか何だか知らねえが、人間の精液を孕むためだけの『生きたお肉』がよ」

 ドスッ、と重鈍い音が室内に響く。

 粗悪な棘付きの革鞭が容赦なく振り下ろされ、私の薄い背中の肉を抉り取った。

 王族の衣服も秘宝もすべて剥ぎ取られ、泥と膿に塗れた薄布一枚の皮膚に、焼夷弾のような激痛が走る。

 悲鳴を上げれば舌を抜かれる。私は血の味がする唇を噛みちぎりながら、ガタガタと震える身体で耐えた。

 本名も、王女としての尊厳も消し去られ、帝国台帳に焼印のように刻まれたのは『個体番号704号』という無機質な屠殺ラベル。

 労働力として扱われる人間の奴隷とはわけが違う。エルフは『繁殖用・魔力資源』という畜産管理区分に分類されていた。

 血統台帳に王族の遺伝子情報が登録され、本人の意思や自我など万分の一も考慮されず、帝国の計画繁殖のために人間たちの種を受け入れさせられ、死ぬまで体液を搾り取られるだけの生ける肉塊。

「おい、その汚い肉を台に縛り付けろ。古代兵器の解呪コードを吐くまで、今日もじっくり肉を刻んでやる」

 ズリズリと両腕を引っ張られ、辿り着いたのは乾いた返り血で黒く変色した石造りの搾乳拷問室だった。

 冷酷な金属の枷で四肢を怪力任せに固定され、胸元が無造作に引き裂かれる。

 そこに装着されたのは、気味の悪い肉脈のような紫光を明滅させる魔導搾乳器具だった。

「くっ……! やめ……ろ……! 触るな……っ!」

「ハハハ! エルフの過敏な体に特効の『魔導感応薬』だ。胸の奥の神経が直接火で炙られ、引きちぎられる感覚はどうだ?」

 ピチョン、と冷たい液体が喉に注ぎ込まれた瞬間、胸の奥で爆発的な熱量が弾けた。

 皮膚の下で太い血管と魔力神経がミミズのように暴れ狂い、内臓が裏返るような激痛が全身を襲う。

 ズチュッ、ズチュッ、と汚らし烈しい吸引音が室内に不気味に響き渡った。

 器具から吸い上げられていくのは、透きとおるような白濁液──エルフの生命力そのものだ。

 人間の老貴族どもが「若返りの霊薬」として群がり、一杯で金貨数百枚が飛ぶという、私の身体から搾り取られる体液。

 薬物によって強引に暴走させられた魔力回路が、肉体を内側からナイフで刻み続ける。

 それだけに留まらず、尋問官はニヤついた笑みを浮かべながら、爪と肉の生々しい隙間へ、魔力を直接焼き切る『霊銀の生針』をじわじわと突き刺してきた。

「あああああっ……!! あ、っ……、ぁああッ……!!」

 激痛。激痛。全身の細胞が狂ったように悲鳴を上げる。

 尊厳を完膚なきまでに踏みにじられる、あまりにも凄絶な屈辱。

 檻の向こうでは、同じように捕らえられた幼いエルフの少女たちが、自分の未来の姿を見せつけられ、泡を吹いて泣き叫んでいた。

「見ろ、お前たちが崇めていた気高き姫様の無様な姿を! 泣き叫び、体液を撒き散らすだけの肉だ! 反抗すれば、明日からはお前たちがこの台でこうして生きて地獄を味わうんだよ!」

(くっ……! あ……ァッ!!)

 視界が血と涙で赤く染まり、意識が激痛の波に呑まれそうになる。

 ──だが。

 脳床を焼き尽くす激痛の渦中で、私の核にある理系的な分析思考と、二つの人生の憎悪が、凍てつくほど冷徹に覚醒していた。

(……耐えろ。……思考を渡すな。死んでも意識を手放すな……!)

 奴らは私を屈辱と痛みで壊し、肉の塊へと変え果てたつもりでいる。

 だが──この搾乳器具と拷問針が体内の魔力回路を狂おしく過熱・暴走させているこの一瞬こそ。

 首元に食い込む『魔導封印の首輪』の術式プロトコルに、致命的な過充電(オーバーロード)が負荷される唯一の隙だった。

(感応薬による魔力の逆流速度、秒速四〇〇パルス。搾乳器具の吸入圧力、限界値突破……! 内部の封印術式と外部からの入力が交差する、わずか0.0三秒のシステム穴……!)

「どうだ704号! 声を出して鳴けよ家畜が!」

 下品に嗤い、顔を近づけてくる尋問官。

 私は垂れ下がった血濡れの銀髪の影で、裂けた唇を歪め、死肉のような笑みを浮かべた。

(前世のお母さん……逃げてごめんなさい。そして異世界の母上……私を愛してくれて、命をくれてありがとう)

 かつての私は、痛みに怯えて命を捨てた弱虫だった。

 けれど、二人の母が血と涙で私に繋いでくれたこの命を、こんな虫ケラどもに奪われてたまるか。

 命神が突きつけた過酷な泥の中……私は絶対に、絶対に諦めない。

(私は……704号じゃない。……私の名は、エリシア・ド・シルヴァニアだ……!)

 拷問針から狂ったように注ぎ込まれる殺戮の魔力を、首輪のセキュリティを内部から破砕するための『致死性マルウェア』として体内の回路へ極限まで溜め込んでいく。

 首に嵌められた頑強な首輪が、過剰な負荷に耐えかねてチリチリと凶暴な火花を散らし始めていた。

(明日はいよいよ、世界の富豪が集まる特別オークション……。私を『上等な繁殖豚』として買い取ったつもりの奴らと一緒に、この汚らわしい施設ごと、影も残さず吹き飛ばしてあげよう)

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