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ルベライト  作者: Paracoccidioidomicosisproctitiss
一章

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7/18

みほよの出勤


 電子的な信号が、脳の深層を叩く。

 設定された起床時間。

 意識が泥のような眠りの底から浮上し、現世へと接続される。

 呉内みほよの一日は、瞼の裏に残る残響のような倦怠感と共に幕を開けた。

 あくび。

 涙ぐむ目をこすり、ゆっくりと開く。

 視界は白濁した霧の中にあるかのように不明瞭だ。強度の近視と乱視が、世界を色彩のシミへと還元している。彼女は手探りで枕元の『視覚補助端末(スマート・グラス)』(この時代のメガネ)を探り当て、装着した。

 瞬間、世界が輪郭を取り戻す。

 みほよは重力制御によって床から離れ空中浮遊するベッドから這い出し、伸びをした。

 窓の外を見る。

 そこには、地獄が同居していた。

 硝子一枚隔てた向こう側では、全長六十メートルを超える巨人のごとき人型生物が、摩天楼を粉砕しながら闊歩している。それに対し、国連軍の最新鋭無人戦闘機がレーザーとミサイルの雨を浴びせ、爆炎の花を咲かせていた。

 しかし、音はない。振動もない。

 そもそも、この光景は「外」のものではない。

 彼女の住むこの居住区画は、ニューヨークの座標軸から切り離された『亜空間』に係留された浮遊アパートメントである。本来の窓外は虚無の霧が漂うのみだが、居住者の精神衛生を保つため、高度な空間魔術によって「外の景色」が投影されているのだ。

 手元のコンソールを操作すれば、ブラジルの熱帯雨林、中国の山水画のごとき絶景、あるいは故郷である日本の桜並木へと、背景は瞬時に切り替わる。

 これは、組織のボスであるルビアズ・ジャスパーによる福利厚生の一環だ。

 『ルキフェル』に所属する非戦闘員、あるいはみほよのように、特殊な技能はあれど肉体的には脆弱な「ただの人間」を守るための聖域。

 外壁には多重構造の防護結界が展開されており、核攻撃すら防ぐ強度を誇る。

 とはいえ、絶対ではない。

 上位の『エグジスト』や、理外の魔術師であれば、この空間に潜り込み、結界を紙のように引き裂いて侵入することもあり得る。

 富裕層ですら手が出ないほどの豪奢で安全な住まいだが、枕を高くして眠れる保証はどこにもない。それが、魔都ニューヨークの日常である。

 みほよは洗面所へ向かい、温水で顔を洗う。

 自動歯ブラシを咥えながら、鏡の前で寝癖のついた茶髪を梳かし、慣れた手つきで左右のお下げ髪を結い上げた。仕上げに、トレードマークであるピンク色のハート型髪飾りを留める。

 朝食は、いつもの『ブッタボウル』だ。

 キヌア、アボカド、ひよこ豆、そして合成タンパク質のローストを深皿に盛り、未来技術で開発された完全栄養ドレッシングを回しかける。美味しいだけじゃなく、効率的で腹持ちが良い。

 食後、汚れた食器を『自動洗浄機(オート・ウォッシャー)』へと放り込む。分子レベルでの分解洗浄により、数秒で新品同様の輝きを取り戻す家電だ。

 パジャマを脱ぎ、洗濯機へ放り込むと、彼女は「仕事着」へと袖を通した。

 一見すると青色のスタイリッシュなセットアップスーツだが、その素材は軍事用のナノ・ファイバーで編まれている。対衝撃、対熱、対毒ガス機能を備えた『環境適応装甲服(エンバイロ・スーツ)』。

 鏡の前で襟を正す。

 今日もまた、死と隣り合わせの業務が始まる。

 ふと、昨夜の狂騒が脳裏をよぎった。



 昨日の夕刻、ピメリー・バルドーの討伐任務が完了した後、『ルキフェル』事務所での出来事だ。みほよは夕刻過ぎ、ネムネムの顔で空中浮揚するベットから這い出た。

 最初に帰還したのは、ポンウィパ・ヴィータ。

 しかし、その姿は惨憺たるものだった。

 彼女の自慢のナノ・スーツは、ブルックリンの地下水道に充満したスライム状の瘴気────既に浄化済みだが────の液でベトベトに汚れ、鼻が曲がるほどの悪臭を放っていた。

「あーもう! 最悪です! ルビアズさん、これ経費で新しいの買っていいですよね!? 浄化機能が目詰まりして動かないんですけど!」

 ポンウィパは髪についた粘液を払いながら、ヒステリックに叫んでいた。

 その直後。

 空間が歪み、ポータルが開く。

 アマゾン川への出張から戻ったクルクス・ノイベルグが、陽気に手を振りながら現れた。

「ただいまー」

 その姿に、みほよは息を呑んだ。

 クルクスの右眼球は消失し、ぽっかりと暗い空洞が覗いている。さらに左腕は肩口から根こそぎ食いちぎられていた。出血は既に止まっているが、常人ならば即死レベルの重傷だ。

 だが、みほよ含め、事務所の誰も動揺しない。

 彼女は『上位存在(ベータ)』級の『エグジスト』。『変異型(ミュー)』のような高速再生能力(クイック・リバース)はなくとも、数時間もあれば肉体は元通りに復元される。現に、空虚な眼窩の奥では、赤いゼリー状の肉芽が蠢き、眼球の再構築が始まっていた。

 それよりも注目を集めたのは、彼女が残った右手で引きずってきた、巨大な強化ビニール袋────『高分子保存袋(ポリマー・パック)』だった。

 ドサリ。

 重量感のある音が響く。

「いやぁ、参ったよ。まさか『殺人魚(メガ・ピラニア)』の群れの中に、『エグジスト』化した個体が混ざってるなんてね。しかも『上位存在(ベータ)』級。結構手こずったよ」

 クルクスはあっけらかんと笑う。

 『エグジスト』という現象は、人間にのみ起こるものではない。

 犬、猫、虫、魚。あらゆる生命が、ダークマターの影響や突然変異により、その種の限界を超えた『個』として覚醒しうる。

 特に、元々の生物としてのポテンシャルが高い猛獣が『エグジスト』化した場合、純粋な身体能力においては人間ベースの個体を遥かに凌駕する脅威となる。もちろん、能力もそのまま顕現する。知性が伴わない分、暴走する自然災害そのものだ。

「でも、お土産持ってきたよ」

 クルクスが袋を開ける。

 そこには、瞬時冷凍された巨大なピラニアと、太さがドラム缶ほどもある大蛇の輪切りが詰め込まれていた。

「えっ……クルクスさん、なんすかこれ。マジできっしょいんすけど」

 ポンウィパが顔をしかめる。

「おーん? かわいいじゃん、ピラニアちゃん。脂乗ってるよー? どっちも『ルキフェル』のみんなで食べようと思ってさ」

「……腹、壊さないっすかね?」

「多分平気でしょ」

「大丈夫じゃないっすよ!? 『エグジスト』のクルクスさんはまだしも、私人間っすよ!?」

「何言ってんの、ポンちゃんも立派な『魔法使い(ウィッチ)』だし、胃袋くらい強化してるでしょ」

「な訳あるか! 去年、どっかのボケ魔術サークルが面白半分で召喚した古代大蛇(ティタノボア)の肉食わされた時、腹壊して一週間寝込んだんですからね!?」

「あれは生焼けだったじゃん。ポンちゃんの『炎熱魔術(アグニスーリヤ)』の火力、足りなかったんじゃない?」

「ぐ、それは……」

 漫才のようなやり取り。

 そこへ、ルビアズがタバコを吹かしながら割って入った。

「いいな。おい、ポンウィパ。今からみんなで打ち上げでBBQにでも行こうと思ってたところだ。もちろん来るよな? そのピラニアと蛇肉も持ってって食っちまうか」

「行く!! 経費で食べる高級肉!!」

 彼女は即答する。

「ピラニアと大蛇は?」

 クルクスが尋ねる。

「いらないっす!」

「えー」

 彼女は残念そうに頬を膨らませた。

「とりあえずシャワー浴びてくるっす! 臭いんで!」

 魔法使いが脱兎のごとく浴室へ消える。

 残された真紅の大女が、クルクスの再生中の顔と腕を見て鼻を鳴らした。

「クルクス、酷いざまだな。あと、悪いな。烏賊女は余裕で始末しちまったわ。お前の一万ドルは海の藻屑と消えたわけだが」

「んだとこの野郎! 配信見たぞ、わざと捕まって触手プレイしてたくせにっ! あれは八百長だっ」

「誤解を招く発言するな。お前だけBBQ置いてくぞ」

「それはダメだっ! 肉食わせろっ」

 子供のような喧嘩。

 みほよは、やれやれと肩をすくめた。

「あのー、皆さん。早く行きましょうよ。お腹空きました」



 その後、一行はポータルを使用して中国大陸へと移動した。

 時差により、現地は深夜から早朝にかかる時間帯だったが、『ルキフェル』の現地協力員が手配した海岸沿いのプライベートビーチで、夜勤明けの中国支部のメンツも加わり、気付けば盛大なBBQになっていた。

 用意されたのは、最高級ブランド牛『雪龍黒牛(シュエロン・ヘイニウ)』や『紐瀾地黒牛ニュージーランド・ブラック』。口の中でとろけるような肉の旨みに、みほよは舌鼓を打った。そして、恐る恐る口にした『メガ・ピラニア』と『メガ・パイソン』の肉も、ポンウィパの魔術的な火加減による調理のおかげか、白身魚のような淡白さと鶏肉のような弾力を併せ持ち、驚くほど美味だった。本人は食べるのを断固拒否していたが。

 宴もたけなわとなった頃、事件は起きた。

 ズズズズズン……。

 地響きと共に、夜空を覆い尽くすほどの巨体が飛来したのだ。

 数日前から中国全土を騒がせていた未確認生物。全長五百メートルを超える、フューシャピンクに発光するアメーバ状の天体生物────宇宙に生息する『天龍(テンロン)』の一種が、宴会場のすぐそばに墜落してきたのだ。

 現地の軍隊が出動し、大パニックとなる中、『ルキフェル』のメンバーは動じなかった。現地構成員の中に、人外の言語を解する『意思疎通特化型』のエグジストがいたからだ。対話を試みた結果、判明した事実は拍子抜けするものだった。

『宇宙を旅してたら、寝方ミスって重力圏に落っこちちゃった。ここどこ? お腹すいた』

 どうやら、中国政府による苛烈なミサイル攻撃も、彼(性別はオスのようだ)にとっては「なんか当たってるな」程度の認識であり、地上を蹂躙したのも悪意はなく、ただ困惑してのた打ち回っていただけらしい。地球の重力に捕まり、自力では宇宙へ戻れずに困り果てていたという。

 『ルキフェル』は正義の味方ではない。

 だが、悪意のない、ただ困っているだけの迷子なら、それが五百メートルの宇宙生物だろうと、中国各地区に壊滅的な被害を与えたものであろうと、見捨てる理由はなかった。

 即座に魔術師班がその『エグジスト』の能力を媒介とし、『思念翻訳機マインド・トランスレーター』を開発。該当人物の言語に合わせ、自動翻訳をかける高度な魔術装置だ。

 天龍は宴に加わり、その巨体を海へ浸からせ、遠方から触手を伸ばして翻訳機に接続すると、壮大な宇宙の旅の土産話を語り始め、これが大いに盛り上がった。  

 しかし問題は、彼の空腹だった。ここにある食料じゃとてもじゃないが足りない。

 そこでクルクスが提案したのが、アマゾン川に残された大量の『メガ・ピラニア』と『メガ・パイソン』の死骸処理だ。

 現地の生態系保護官に連絡を取ると、中国政府への外交問題になりかけていた厄介者を処理してくれるならと、二つ返事で許可が下りた。

 天龍の巨体はあまりに目立つため、一旦『ルキフェル』が管理する亜空間倉庫へと転移させ、そこで満腹になるまで食事を与え、後日宇宙へ射出する計画が決まった。

 宴の最後、クルクスが「ほらルビアズ、この烏賊の丸焼き美味しいよ!」と、ねっとりと焼かれた触手────現地で先程討伐されたクラーケンの丸焼きをルビアズの口にねじ込もうとして、「二度と烏賊は見たくない」と本気で拒絶されていたのも、今となっては良い思い出だ。



 みほよは、厚底のコンバットブーツの紐を締め直し、玄関へと向かった。ドアを開けると、そこはアパートの廊下ではなく、青白く発光するポータルの渦だ。

 足を踏み入れる。

 転送先はランダム設定。ニューヨーク市内で比較的治安が安定している『安全地帯(スカイブルー・ゾーン)』の、人目のつかない路地裏やビルの屋上へ飛ばされる仕組みになっている。

 『ルキフェル』への通勤ルートが固定されれば、敵対組織に狙われるリスクが高まるからだ。

 シュンッ。

 軽いめまいと共に、みほよは冷たい風の吹くビルの屋上へと転移した。

 すかさず『デバイズ』を起動し、ホログラム・ウィンドウを展開する。政治の腐敗、スラムの暴動、異常気象。憂鬱なニュースをスワイプして飛ばし、必要な情報だけをピックアップする。

 本日の地区死亡予測。

「……クイーンズ区の地下鉄死亡率、十パーセント。バス移動は……二十五パーセント。うーん、ダメだな、これ」

 みほよは深い溜息をついた。

 これで「安全地帯」だというのだから、笑えない。ただの人間である彼女にとって、通勤とは文字通りの命懸けのミッションなのだ。

 視線を上へ向ける。

 空域死亡率、四パーセント。

「これにしよう」

 彼女はポケットから、ビー玉ほどの大きさの球体────『圧縮宝珠(マーブル・ケース)』を取り出し、放り投げた。ポンッ、という音と共に白煙が上がり、空中に流線型のマシンが出現する。

 『ルキフェル』から支給された、最新鋭の小型飛行ユニットだ。ステルス機能と、自動迎撃システムを搭載している。キャノピーが開き、コックピットに滑り込む。

 シートベルトを締め、「自動操縦、迎撃モード起動」と音声コマンドを入力。ユニットは音もなく浮上し、摩天楼の谷間を縫うようにして空へ溶け込んだ。

 途中、ステルス迷彩を見破って襲来した翼長三メートルの怪鳥(ワイバーン)の群れを、搭載されたマイクロ・ミサイルが自動的に粉砕する。

 数十分後。

 スタッテン島の外れにある、廃墟と化したショッピングモール。その屋上へ着地し、ユニットを再び『圧縮宝珠』へと収納する。

 崩れかけた三階のフロア、かつてファッションコーナーだった場所へ。そこには、埃を被った巨大な姿見が残されていた。一見するとただの鏡だが、裏側には百ポンドを超える巨大な岩盤が設置されている。

 みほよはナノ・スーツの身体強化機能により、その鏡を軽々と押し開いた。

 現れたのは、無機質なコンクリートの壁。

 そこに体を寄せる。

 網膜スキャン、DNA認証、脳波パターン解析。高度に偽装された多重生体認証が、コンマ一秒で彼女を「味方」と識別する。

 さらに、思念入力によるパスワード。一秒ごとに乱数表に基づいて変更される暗号を、脳内で詠唱する。

 壁が波紋のように揺らぎ、みほよの体を受け入れた。ぬるりとした感覚と共に壁を通り抜けると、そこには全く別の物理法則が支配する空間が広がっていた。

 『ルキフェル』ニューヨーク支部、エントランス。フラクタル構造を描く幾何学的な天井、無限に続くかのような回廊。

 すれ違う構成員たちが、人型、異形を問わず、「ハロー」「モーニン」と気さくに手を挙げる。みほよも笑顔で挨拶を返しながら、奥へと進む。この空間には、世界各地の支部へと繋がるポータルが無数に点在している。

 広場の一角で、見知った背中を見つけた。

「あ、クルクスさん!」

 声をかけると、長身の女が振り返った。薄紅色のショートヘアに、いつもの葉脈を模した髪飾りと、ラフなスウェットの格好。

 クルクスだ。彼女の身長は、五フィート十インチ(約百七十九センチ)。対するみほよは日本的に見ても小柄だ。四フィート九インチ(約百四十五センチ)。厚底ブーツを履いていても、彼女を見上げる形になる。彼女の豊満な胸が嫌でも目に入り、思わず自分の慎ましいそれと比べてしまう。

 みほよのメガネの奥の、茶色の瞳。

 目の前の長身女性。

 顔を見る。

 彼女の眼球も左腕も、既に完全に再生しており、傷跡一つない。右斜めに歪に歪んだ黄金色の瞳が、みほよを見つめた。

「おっはよー、みほよちゃん。ねえ聞いてよ、またポータルの位置変わってるんだけど! 昨日の私の嫌がらせのせいかな?」

「自業自得ですよ。行きましょう」

 ぶーたれるクルクスを促し、二人は今日のポータル────巨大な水槽……昨日彼女が捕まえたであろうメガ・ピラニアが何故か複数飼われている、その裏に隠された入り口────を潜った。

 視界が開ける。

 そこは、いつもの事務所。

 既にルビアズとポンウィパが出社していた。

「おはようございます、ルビさん、ポンちゃん!」

「おう、おはよう」

「おざーす……」

 ルビアズは既に煙草を吹かしながらモニターを睨んでおり、ポンウィパは二日酔いなのか、机に突っ伏して死んだ魚のような目をしている。

 今日もまた、『ルキフェル』の一日が始まる。

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