思惟
喧噪と狂乱の都市、ニューヨーク。
数日前に人々を震撼させたピメリー・バルドーによる殺戮劇など、この街の住人にとっては既に過去の遺物、あるいは消費され尽くした三面記事の掃き溜めに過ぎない。
現在、市民の視線を一身に集めているのは、あの騒動の最中に飛来し、そのまま摩天楼の上空に居座ることを決めた巨大な訪問者。
空中鯨。
遺伝子工学の汚染と突然変異の果てに生まれた、全長百メートル級の空飛ぶ海獣。
ピメリーが衝突事故を起こしたその巨体は、今や悠然と大気を泳ぎ、その圧倒的な質量と神秘性で空の王者として君臨している。
だが、光ある場所には必ず影が落ちる。
鯨の周囲には、その膨大な生命エネルギーに引き寄せられたのか、あるいはその巨体を新たな宿主と定めようとするのか、おびただしい数の「有象無象」が群がっていた。
悪霊、怨霊、呪詛の集合体。
実体を持たぬ、概念としての捕食者たち。
死と暴力が日常茶飯事であるこの世界において、行き場を失った魂の残滓は、澱のように溜まり、やがて禍々しい呪霊となって生者に牙を剥く。
それらを迎撃すべく、空を飛び交う影があった。
カース・ユーザーたち。
ルキフェルとは異なる理念、世界の霊的均衡を保つことを生業とする組織の構成員たち。彼らは空中に魔法陣を展開し、あるいは式神を駆使して、湧き出る呪いの群れと激しい攻防を繰り広げていた。
基本的に、エグジストは呪霊に対して無力。
いかにエグジストが物理法則を無視した超常の力を振るおうとも、その本質は「物理的破壊力」や「肉体変異」に特化している場合が大半だ。対して、呪霊には実体がない。
筋肉で幽霊を殴れないのと同様に、純粋な物理エネルギーは彼らを透過し、何ら干渉することは叶わないのだ。もちろん、彼らがエグジストに敵うかと言ったら、それは容易い事ではないのだが。
彼らを祓う、または封印等するには、呪力が込められた特殊な呪具を用いるか、あるいは専門家である呪術師に依頼するほかない。
例外として、ルビアズの能力葬花の彼岸花のように、次元や概念そのものを切断対象とするごく一部の特異能力だけが、実体なき彼らを屠ることを許されている。
♥
ルキフェルニューヨーク支部、事務所。
この組織の福利厚生は、死と隣り合わせの業務内容を鑑みても、異常なほどに充実している。
年間休日は一般企業の倍近く設定されており、突発的な緊急事態であっても、現地のエージェントや、手の空いている他支部、あるいは提携関係にある外部組織へと委託することで、構成員の休息は、基本的に絶対的に保証される。もちろん、世界を揺るがすレベルでの現象や災害が起きたりした場合は別とするが。彼女の、命を賭して日々業務に励んでくれている構成員たちへの配慮である。
本日のシフト状況は閑散としていた。
クルクスは「カレーのスパイスの真髄を知る」とかいうふざけた名目でインドの秘境へ有給旅行中。
みほよは、先日までの激務と精神的疲労を考慮され、特別連休が付与されている。
日勤夜勤を含めた完全シフト制であるため、ルビアズが鎮座するこのメインオフィスに全員が顔を揃えること自体が、稀有な事象なのだ。
静寂に包まれた室内。
ルビアズは、深紅の革張りの椅子に深く身を沈めていた。
その指先には、高級葉巻DAVIDOFF。
紫煙をくゆらせながら、彼女は空中に投影されたホログラム・モニターを眺めている。
エア・パージが静かに稼働し、葉巻の煙を吐き出すと同時に、甘酸っぱいラズベリーの香りを室内に循環させていた。
「よし、行け。そこだ、やれっ」
ルビアズが短く呟く。
その視線の先にあるのは、現在進行系で行われている呪術師対呪霊の空中戦だ。
彼らは無差別に破壊を撒き散らすテロリストではない。市民生活への被害を最小限に抑えつつ、保護対象である空中鯨や、行き交うエア・カーや、無害な空中生命体を守りながら戦う、いわば空の清掃人。
だが、ルビアズにとってそれは、単なるエンターテインメントでしかなかった。画面の端には、非合法の賭けサイトのオッズが表示されている。現在、カメラが捉えているのは、A・クラスに指定された凶悪な呪霊だ。不定形の黒い霧から無数の赤ん坊の手足が生えた、生理的嫌悪を催すその怪物は、迎撃に出た呪術師たちの防壁を紙屑のように引き裂き、蹂躙していた。
当然のように、この惨劇は裏社会でイベント化されており、ルビアズもまた、暇つぶし程度の少額をベットし、その行方を楽しんでいた。
ふう、と。
ルビアズは細く、長く、煙を吐き出す。クール・スモーキング。温度を上げすぎず、葉の香りを最大限に楽しむ吸い方だ。
「あっ、くそ。あの呪術師、死にやがった。結構高位の術式使いだと思ったのに、所詮は人間か」
モニターの中で、彼女が勝ちを賭けていた呪術師の一人が、A級呪霊の無数の腕に掴まれ、雑巾のように絞り上げられて肉塊と化した。
鮮血が空に散る。
流れ弾や呪いの余波により、地上の市民にも多数の死傷者が出ているようだが、そんな数字はルビアズの意識に微塵も引っかからない。
彼女はエグジスト。
知人でもない、ただ消費して排泄するだけの人間どもの命など、路傍の石ころや羽虫と何ら変わりない。死ねば掃除されるだけのことだ。
賭けには負けたが、彼女の機嫌は損なわれていなかった。むしろ、ここ数年で最高潮と言っていいほどに晴れやかだった。
理由はいくつかある。
まず一つ。
数日前のBBQにて、悪ノリしたクルクスに危うくゲテモノ──あの件の後に、わざとらしく現地で討伐された神話生物を食わされそうになった件への、ささやかな報復が完了したからだ。
その次の日、事務所に出勤しようとしたルビアズは、フラクタル空間のエントランスにある巨大水槽──その中に、我が物顔で泳ぎ回る複数匹のメガ・ピラニアを発見した。十中八九、クルクスがアマゾン川から連れ帰り、勝手に放流したに違いない。優雅な熱帯魚の楽園が、殺伐とした肉食魚の生簀と化している様に、ルビアズは額に青筋を浮かべた。即座に、事務所へと繋がるポータルの位置を変更した。
新たな出入り口は、その巨大水槽の裏側、メンテナンス用の狭い足場の奥。クルクスが出社した際、ピラニアの群れに睨まれながら、狭い隙間を蟹歩きで進まねばならない配置にしてやったのだ。他のメンバーには申し訳ないが、そこは致し方ない。
その嫌がらせを終え、一番乗りで椅子にふんぞり返っている優越感。
そして、もう一つ。
これが最大の理由だ。
あのピメリーの件の翌日、手元の専用スマホ端末に、一件のメッセージが受信していた。
差出人は、モリス・ジョーンズ。
文面を開く。
『やぁ、こちらモリス・ジョーンズだ。映像を確認させてもらったよ。素晴らしい! 実に素晴らしいエンディングだった!あの女が必死に命乞いをし、自身の不幸を喚き散らしながら、惨めに肉塊となって消え去る様……。まさに喜劇だ、極上のコメディだったよ! これほど胸のすく思いをしたのは久しぶりだ。約束通り、報酬金は闇市、ノックス経由で支払わせてもらおう。額が額だ、セキュリティの都合上、一括送金とはいかないが、数回に分けて振り込む手はずになっている。既に第一弾は送金済みだ、確認してくれたまえ。また、例の別荘の件だが、足がつかないようダミー会社を用意する必要があるため、登記には少々時間を要する。だが、遅くとも今月中には鍵を渡せるだろう。ともかく、君たちに依頼して正解だった。グッドラック! 今後も君たちの健闘を祈っているよ』
文面から滲み出る、傲慢で俗物的な人間の臭い。
エグジストをただの道具、あるいは見世物としてしか見ていないその態度に、ルビアズは一瞬だけ眉をひそめた。
同族が人間ごときに侮辱される不快感。
だが、次の瞬間。
彼女がデバイズで自身の裏口座残高を確認したとき、そんな些細な苛立ちは、朝霧のように消え去った。
表示された桁数。
この前の連邦超常現象対策局による赤字など、端数にも満たないほどの莫大な利益。
しかも、これはまだ「一部」だという。
葉巻を灰皿に置き、ルビアズは口角を吊り上げた。
現金なものだ、と自分でも思う。だが、これが資本主義の、そしてプロフェッショナルの在り方だ。
「よかったじゃないか、ピメリー・バルドー」
独り言ちる声は、どこか楽しげですらあった。
「お前の命の値段は、お前を侮辱した人間どもより、何億倍も価値があったということだ」
それは、彼女なりの手向けであり、歪んだ敬意の表明だった。死してなお、莫大な富をもたらした「獲物」への感謝。
普段ならば、プライドを刺激されて数日間は不機嫌を引きずるところだが、今の彼女の心は、ニューヨークの空よりも高く、晴れ晴れとしていた。
そんなことを思い出し、再び葉巻を手に取り、深く紫煙を吸い込む。ラズベリーの香りと混ざり合い、勝利の味が肺を満たした。
瞬間。
「うわっ、今朝ニュースで見たカースの大量発生、まだ続いてたんすか」
事務所の扉──巨大水槽の裏にあるポータルをこじ開け、辟易した顔で入ってきたのはポンウィパ・ヴィータだった。
彼女の特徴である黄緑色の長髪が、空調の風を受けてふわりと揺れる。
平日、本来大学であるはずの彼女がルキフェルに来ている理由。マンハッタン島上空、エンパイア・ステート・ビルの頂上付近に居座るスカイ・ホエール周辺の騒動が原因ではない。地上で起きていた、もう一つの馬鹿げた暴動のことだ。
コロンビア・ネオ・アーツ大学。
魔術師や呪術師を志す学生たちが通う、この街でも有数のオカルト系総合大学。
そこで今朝、未曾有の抗争が勃発した。
原因は、至極下らない。
学生食堂にて、あるナード呪術師の生徒が、大人気日本アニメの最新話のネタバレを大声で叫んだことに対し、同じくナード魔術師の生徒が激昂。
「貴様の血で結界を張り直してやる」という理知的な脅し文句と共に、食堂全体を巻き込む魔のフィールドが展開されたのだ。
死人こそ出なかったものの、流れ弾を食らった一般学部の生徒を中心に多数の重軽傷者が発生。さらに、面白半分で乱入した体育会系の異能者のサークルメンバーたちが混ざり、乱闘騒ぎ。結果、校舎を物理的に粉砕され、キャンパスの一区画が地図から消滅する事態となった。
超技術と異能者たちの能力により、明後日には更地から元通りに復旧するらしいが、当然ながら大学は臨時休校。
その騒動には運良く巻き込まれず、しかし暇を持て余したポンウィパは、平日にも関わらず小遣い稼ぎのためにルキフェルへと顔を出した。
ちなみに、騒動の主犯格たちは即座に退学処分となったが、逮捕も拘束もされず野放しにされている。それが、魔都ニューヨークの「自由」という名の無秩序だ。
「つーかルビアズさーん、ナチュラルに人間を見下す発言、本当にやめてくださいよ。不愉快です」
ポンウィパの背後から、冷ややかな声が響いた。
Lefima・ Maria Rize。
ルキフェルニューヨーク本部に所属する、数少ない常識人枠の一人。
艶やかな黒髪を肩まで切り揃え、黒曜石のように深い瞳を持つ、二十代前半の美女。その整った顔立ちは、今は不機嫌そうに歪められ、ふんぞり返るルビアズを睨みつけている。ポータル越しにルビアズの独り言が聞こえていたのだ。
彼女は超能力者。
人間の脳や魂に外部から術式をインストールする魔術師や呪術師とは異なり、彼らはエグジストと同様、遺伝子変異や環境的要因によって脳機能が拡張した、正真正銘の進化者だ。
身体能力や耐久力は人間と大差ないが、念動力や発火能力、肉体変化など、特異な能力を有している。
いわば、エグジストへの進化の過程で枝分かれした亜種、あるいは「なり損ない」とも呼べる存在。
能力の絶対量は本家のエグジストには遠く及ばないが、カテゴリー上は四つのうち一つを除き、同質の異能を操る。
だが、その精神性はあくまで人間寄りだ。
ルビアズは葉巻の煙を吐き出し、面倒くさそうに片手を振った。
「いや、レフィーマ。私は別にお前個人を貶したわけじゃないぞ。大体、人間なんて脆いガラス細工みたいなもんだろ? ちょっと小突けば壊れるし、すぐに死ぬ。それは事実だ」
エグジスト特有の、他種族の感情など微塵も考慮しない傲慢な物言い。悪意がないからこそ、タチが悪い。
「そうじゃないですよ! なんというか……ルビアズさんからは、私たち人間に対する『敬意』が感じられません」
レフィーマが一歩踏み出す。
「敬意?」
ルビアズは可笑しそうに鼻を鳴らした。
「お前は、そこら辺を歩いている蟻や、犬の毛に潜むノミに敬意を払えるのか? 踏み潰さないように気をつけて歩くことはあっても、そこに尊厳など見出さないだろう」
「だから、そうじゃなくてっ! 私たちは虫じゃありません!」
激昂するレフィーマ。
そこへ、ポンウィパが慌てて割って入る。
「まぁまぁレフィーマ、落ち着いてよ。ルビアズさんの言うことも一理あるっていうか……私たちだって、蚊を叩く時に罪悪感なんて持たないでしょ? それと同じだよ、種族のスケールが違うんだから」
「ポンウィパ、私は君みたいに割り切れないのっ!」
レフィーマはぷいと頬を膨らませ、顔を背けた。
本気でルビアズを憎んでいるわけではない。種族間の圧倒的な隔絶、思考プロセスの違いは知識として理解している。だが、面と向かって「お前たちは虫けらだ」と断言されて、笑って流せるほど彼女の人間としてのプライドは安くないのだ。
事務所に気まずい沈黙が流れる。
さすがに空気を読んだのか、ルビアズがポリポリと頭を掻いた。
「いや、すまん。悪かったよ。お前たちのちっぽけな、実にくだらん自尊心を傷つけるつもりはなかったんだ。悪気はない、許してくれ」
「……余計な一言が多いです。私がいる前では、なるべくそういう発言は控えてください」
「分かった、善処する。……詫びに、今度ケンタッキー・フライド・チキンのパーティーバーレルでも奢るから、機嫌を直せ」
「本当ですか!? コールスローもつけてくれますか!?」
刹那、レフィーマの表情が劇的に緩んだ。
彼女は痩せ型に見えて、その実はフードファイター顔負けの大食らい。食欲の前には、種族の尊厳など容易く霞むらしい。
「現金なやつだなぁ。……ねぇ、ゼノヴィアさん」
ポンウィパが苦笑しながら、部屋の奥で退屈そうに髪をいじっていた女性に声をかけた。
「あたしは分からないなぁ」
低く、ハスキーな女声が返ってくる。
ゆっくりと、回転椅子が回った。
そこにいたのは、Xenovia・Evans・Cannolo。
色素の抜けたような純白の長髪。白目の部分は薄い黄色に濁り、瞳孔は鮮血のように赤い。
そして何より異様なのは、その紅い瞳の中心に向かって、黒い線が一点透視図法のように集中線を描いていることだ。
エグジストの多くがその瞳に異形の特徴を宿すと言うが、彼女の目は生物のそれというより、幾何学的な図形のようだった。
外見年齢は二十歳前後。
だが、その実年齢は百数十歳を超えている。
ルキフェルに所属して五十余年、数多の修羅場を潜り抜けてきた古参の戦闘要員。
「今の会話で、なんでセドフィラ……じゃなかった、レフィーマが怒る要素があったわけ?」
死んだ魚のような、感情の一切感じられない瞳が、無邪気に瞬いた。名前すら間違える、その傲慢さ。
「……名前すらろくに覚えてくれてないんですか。ゼノヴィアさん。貴方は本当に、根っからのエグジストですね」
レフィーマが再び顔をしかめる。
「もう! 二人ともなんでそう、いつも険悪になっちゃうのっ」
ポンウィパが頭を抱えた。
「ルビアズさんもだけど、ゼノヴィアさんもですよっ! なんでエグジストってのは、少しは人間の心ってのを想像して、気遣えないんすかっ!?」
「虫に感情移入するほうがおかしいだろ。人間の思考回路なんて、理解するだけ容量の無駄だ」
ゼノヴィアは吐き捨てるように言った。
そこに悪意はない。ただの事実陳列だ。
ルビアズ以上に、彼女は人間という種を「環境の一部」程度にしか認識していない。典型的かつ純粋なエグジストの思考。
再び爆発しかけるレフィーマを見て、ルビアズがパンと手を叩いた。
「……あー、その、なんだ。仕事だ、お前たち」
ルビアズが強引に話題を変える。
「ロッドロッズ地区への配達依頼が入っている。イースト・ブロンクスの有名店で限定ピザ────銀河チーズ火山を買って、指定のアパートまで届けるだけの簡単なお使いだ。そこの二人、行ってこい」
勘違いされがちだが、ルキフェルの本質は何でも屋。
血生臭い戦闘依頼だけでなく、こうした平和的な代行業務も日常的にこなしている。
普段のルビアズなら、自身が仕事をしていると見せかけるため、またはサボる口実として嬉々として出向く案件だが、今の彼女は上機嫌であり、何よりこの険悪な空気を換気したかった。
仲の良いポンウィパとレフィーマを外に出し、頭を冷やさせる作戦だ。
デバイズを操作し、二人の端末へ座標と依頼主から送信された電子チケット十枚分を送信する。
「あ、これ食べたかったやつだ! イースト・ブロンクスのトニー&エイリアンズの限定ピザ! でもなんでわざわざ私たちが……?」
レフィーマが思念端末を覗き込み、声を弾ませる。
しかし、その横で地図データを確認していたポンウィパが、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「……って、ちょっとルビアズさん!? 今日のイーブロとロッドロッズの地区死亡率、八十パーセント超えじゃないですかっ!?」
「ん?」
「異次元ゲートが開いて低級悪魔が湧いてるし、なんかエグジストのストリート・ギャング同士の抗争も起きてるし!? 私たちを殺す気っすか!?」
「あー……」
ルビアズは視線を泳がせた。
しまった、とうっかり舌を出す。あまりの機嫌の良さに、危険度チェックを怠っていた。死亡率八十パーセントは、人間が丸腰で歩けば一分以内にミンチになる、いや、それならまだ良い。下手したら、細胞一つ残らず完全消滅するレベルの激戦区だ。墓すら立たないだろう。
「なら、あたしも同行しようか? 人間二人じゃ心許ないでしょ」
ゼノヴィアがぬらりと立ち上がり、申し出た。
その異形の瞳は、慈悲ではなく、ただ「壊れやすい荷物を守る梱包材」のような目で二人を見下している。
彼女はベータ級のエグジスト。戦闘能力において、ルビアズも信頼を置く実力者だ。彼女が同行すれば、生存率は限りなく百パーセントに近づくだろう。
だが。
「結構ですっ!」
レフィーマが拒絶した。
あからさまに見下された態度に、彼女の意地が着火したのだ。
「行くよ、ポンウィパ! 私たち人間の底力、見せてやるんだからっ」
「わっ、ちょっと、レフィーマ!? 死ぬって! マジで死ぬってば!? い、行ってきます、ルビアズさん!」
聞く耳を持たない。
レフィーマは嫌がるポンウィパの襟首を掴み、壁面に設置された転送ポータルへと突っ込んでいった。
ズブブ、という音と共に、二人の姿が壁に飲み込まれて消える。
残されたのは、ルビアズとゼノヴィア、そして静寂。
「ルビアズさん、あたし、なんか変なこと言っちゃったのかな?」
ゼノヴィアが首を傾げる。
その無機質で不気味な赤い瞳が、純粋な疑問を湛えて組織のボスを見つめていた。
ルビアズは深く息を吐き出し、吸いきった葉巻を灰皿に押し付けた。
「……お前は、少し人間の心というやつを勉強しろ」
「虫けらに心なんてあるのかな」
「あるわっ。……ほら、どっかでバカどもが騒ぎを起こすか、異常現象でも起こるまでの間、これでも読んでろ」
ルビアズはデスクの引き出しから、分厚いハードカバーの本を取り出し、放り投げた。
タイトルは人間心理の基礎と応用 ~共感性を育むために~。
人間が多く所属する組織の長として、ルビアズ自身もまた、密かに学習していた一冊。
ゼノヴィアはそれを片手で受け取った。
「これって命令?」
「命令だ。私たちエグジストの無自覚な傲慢さは、人間にとって呼吸困難になるほど不愉快なものらしいからな」
「はーい、ボス」
興味なさげに返事をすると、ゼノヴィアはソファに深々と座り込み、パラパラとページをめくり始めた。
その横顔を見つめながら、ルビアズは目を細める。
かつて、何百年も前。
まだ自分が若く、力に溺れ、人間をただの塵芥としか思っていなかった頃の自分。
ゼノヴィアの姿に、そんな過去の己の影を重ね、ルビアズは微かな懐かしさを覚えていた。




