八、マリオネットの真実
1
今、ひとつの戦いが済んだ船上に緊迫した空気が流れていた。
甲板の両端に対峙する男女。
ギリシャ彫刻を思わせる青年は冷たい笑みを浮かべ、どこかまだあどけなさを残す少女はその目に殺気を映し出してじっと青年を見つめていた。
「あなたが面史郎ね。」
「そう、私が君が捜し求めている面史郎だ。」
史郎はあっさりと肯定した。そして、ゆっくりと奈美のほうへ歩み寄ってきた。
「それにしてもひどいものだな。せっかくの客船が台無しだ。」
史郎は周りを見渡しながらため息をついた。足元に転がる瓦礫を避けながら史郎はなおも奈美に近づいた。
奈美は身構えたまま史郎を睨み付けていた。
「ゴーレムとソニーとの戦いは拝見させてもらったよ。実に見事だった。A7。いや、奈美と呼んだほうがいいかな。」
相変わらずの冷徹な笑みを浮かべたまま史郎は奈美の間近に歩み寄ってきた。
「あなたに褒めてもらったってうれしくもないわ。」
奈美は憎しみを顕わにして言った。
「あなたが全ての張本人なのね。兄さんを殺し、リエにあんな悲しい宿命を背負わせたのも、全てあなたなのね。」
奈美はいままで起きた出来事を思い返しながら史郎に向かって言葉をぶつけた。しかし、史郎は平然と奈美の言葉を聞き流していた。
「あなたのもくろみはすべて崩壊したわ。」
奈美は初めて相手を嘲笑するかのように言った。
「ほう、どういうことかな。」
史郎の表情はあいかわらず冷静であった。
「あなたは‘アルフィス・エンタープラズ’という組織を利用して、各地の学校を支配下に入れていき、その学校に特別な機材を入れて生徒たちに催眠音波を聞かせ、学生たちの人格操作を行おうとした。
「学生たちを自分の意のままに動く人形にしたて、やがてあなたの命令の元、日本乗っ取りという途方もない野望の為に働く兵士にしようとしたのよ。兄さんが言い残した‘マリオネット’という言葉はまさにこの事だったのよ。」
奈美は一気に言い放つと、史郎を睨み付けた。
「史郎!あなたはもうおしまいよ。」
そう言って奈美はポケットからMOを取り出した。
「あいにくとこれはコピーよ。本物は捜査局の剣持さんの手に届いている頃よ。明日にでも捜査局の手がはいり、‘アルフィス・エンタープライズ’は壊滅するわ。」
奈美はMOを史郎の足元に放り投げた。
「受け取ったら。私にはもう用のないものよ。」
一瞬、奈美の顔に悲しみが掠めた。しかし、すぐに怒りと憎しみに彩られた戦闘モードに戻った。
しかし、史郎は奈美の言葉にもその殺気にも何の反応も見せず、冷徹な笑みを崩さなかった。
「なにがおかしいの。」
奈美は多少ヒステリックに言った。
「‘アルフィス・エンタープライズ’ごときものはいつでも再建できる。私が生きている限りはな。」
その口調は自信に満ちていた。
「なら、あなたを倒すまでよ。」
奈美は両拳を握り締め、少しづつ史郎との間合いを縮めていった。
「ふふ、私を倒すというのか。」
「倒す!兄さんや陽子さん、リエのためにも。」
そういうな否や奈美の左拳が目にも止まらぬ速さで史郎に向かって伸びた。
史郎は首を軽く傾げると、紙一重でそのパンチを躱した。
奈美はそれだけにとどまらず、次々とパンチを繰り出した。それは腕が2本にも3本にも見えるほど素早かった。
しかし、史郎はその全てをやはり紙一重で躱していった。
「どうした。それだけか。」
「くそ!」
いきなり奈美はローキックを見舞った。
それも軽く足を上げて躱してしまった。だが、奈美はその回転力を生かして後ろ回し蹴りを史郎の顔面に食らわせようとした。
蹴りは決まったかに見えた。
しかし、史郎の姿は掻き消え、蹴りは虚しく空を切った。
いつの間にか史郎は奈美の後ろに立っていた。
「なに!」
奈美は驚いて飛び退いた。
史郎はその場を動かず、奈美の行動をじっと見ているだけであった。
(私をもてあそぶ気?)
奈美に焦りが生じていた。
奈美はいきなり走り始めた。
その行動に史郎は多少戸惑った。
奈美はそのスピードを上げ、史郎の周りを駆け回った。その速さに、奈美の姿は十人にも増えたように見えた。
最初は戸惑った史郎であったが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。
奈美の銀の髪が帯のようにつながり、銀のリングを形成していった。そのリングから銀の光が瞬き、それは銀の針となって八方から史郎めがけて飛んでいった。
史郎の目が怪しく輝いた。
途端に猛烈なスピードで飛んできた超振動ニードルが、史郎の周りでピタリと静止した。
「!」
奈美は驚愕の目で空中に静止している針を見つめた。
「ふふふ… 無駄なことだな。」
史郎が手を軽く振ると、針はパラパラとデッキに落ちた。
奈美が呆然とデッキに落ちた針を見つめていると、その奈美に史郎が無造作に近づいてきた。そして、その手を奈美の頬にかけようとした。
奈美はその手を振り払い、目にも止まらぬ速さで史郎に手刀を打ち込んだ。
しかし、まるで透明な壁に阻まれたように奈美の手刀は史郎の眼前で弾き返された。
奈美は続けざまに中段突きと回し蹴りを史郎めがけて見舞った。
それも先程の透明な壁に阻まれ、史郎には何のダメージも与えられなかった。
奈美にはわけがわからなかった。
「どうした、もうおしまいか?」
史郎の嘲笑に半ばやけになった奈美は、史郎の顔めがけて捨て身の拳を打った。しかし、結果は変わらず、逆に目に見えない力で奈美の体は押し戻されていった。
「エッ!」
そして、5メートルほど押し戻されたところで十字架に掛けられたような格好で宙に浮いたままピタリと静止した。奈美はなんとか体を動かそうとしたが、指一本動かなかった。
「こ、これは、どういうこと?」
奈美の混乱は極に達した。
動けない奈美を見て、史郎はゆっくりと歩み寄ってきた。そして、いきなり奈美の顎を掴むと、美術品を鑑定するような目つきで奈美の顔をしげしげと見つめた。
「すばらしい。」
史郎の口から初めて感情のこもった言葉が飛び出した。
「奈美、君は私が作り上げた最高傑作だ。」
「ふん、ならあなたは最低の人間よ。」
そう言いながら奈美は史郎に向かってつばを吐いた。
「ひどいことをするな。」
史郎は苦笑しながらハンカチを取り出し、奈美のつばを拭った。
「さっさと殺しなさい。でも、私が死んでもあなたの野望は剣持さんたちが崩してくれるわ。」
動けない身になっても奈美は史郎に対して強気で言った。
「日本乗っ取りなんて誇大妄想は夜明けとともに消えてなくなるのよ。」
それを聞いて、史郎は軽く口の端を吊り上げた。
「さっきも言ったろう。私がいる限り計画は続くと。それに奈美、君はひとつだけ間違っている。」
「間違っている?」
「私のマリオネット計画は日本乗っ取りなどというちゃちな野望のためのものではない。」
「いまさらきれい事は通用しないわ。」
奈美は史郎の言葉を全て否定するかのようにそっぽを向いた。しかし、次に史郎の口を通して出た言葉に思わず振り返った。
「私の真の目的は、日本滅亡。」
2
事なげもなく言う史郎に、奈美ははじめその言葉の持つ意味がわからなかった。
「日本滅亡…?」
常軌を逸する言葉に奈美はただ繰り返すだけだった。
「そう、私が‘アルフィス・エンタープラズ’を使い、各地の学校を支配し、学生たちをマリオネット化したのもすべて日本滅亡のためだ。」
「な、何のために日本を滅ぼそうというの?」
ともすれば圧倒されそうになる自分を必死に奮い立たせながら奈美は叫んだ。
「今の君に言ってもわかるまい。ともかく、マリオネット化された学生たちはやがて社会のあちこちに散らばる。そして、ある日、私の命令の元、内乱を起こす。その内乱を鎮圧しようとするのも私の命令に従うマリオネットたちだ。日本中が血で血を争う修羅場と化し、滅亡への道を突き進むのだ。」
冷たい笑いを湛えながら話す史郎の顔は、邪悪そのものであった。丹精な顔立ちだからこそ、その邪悪さはいっそう際立っていた。
奈美の背中に悪寒が走った。それに気づいたのか、史郎は奈美の頬をそっとなでた。
その目は先程までの邪悪さは微塵もなく、愛しみの表情に溢れていた。
「奈美、もうひとつ教えといてあげよう。」
やさしい口調であった。
「あなたに教えてもらうことなんてないわ。」
奈美は史郎の言葉を無視し、何とか体の自由を取り戻そうと必死にもがいた。
「君自身のことだ。」
史郎の言葉に奈美のもがきが止まる。
「君は他のアーマノイドとは根本が違っている。」
「違っているって、どういうこと?」
奈美の視線が史郎に釘付けとなった。
「他のアーマノイドは、普通の人間に改造手術を施し、戦闘能力を与えたものだ。これはこれで、私の目的成就のためには必要な尖兵ではあったが、人間としての感情を完全に消し去ることができず、その意味では完璧なアーマノイドとは言えなかった。」
史郎は奈美に背を向け、そのまま続けた。
「私は、私の真のパートナーになりうる、より完璧なアーマノイドを得るために自らの手で一個の生命を作り出すことを考えた。」
「生命を作り出す?」
奈美の胸に言い知れぬ不安がよぎった。
「そうだ、ある細胞をクローン培養し、一個の人間を作り出す。育成段階でアーマノイドとしての特殊能力をセットし、戦闘人間として必要な知識、私のパートナーになるためのあらゆる要素をインストールしていく。成長したときには私が求める完璧なアーマノイドが出来上がる。」
「そんなことは不可能よ。」
奈美は史郎の言葉を否定しようとした。それは自分の心の中に広がる不安を打ち消そうとする必死の抵抗でもあった。
「確かに試行錯誤と失敗の連続だったよ。しかし、とうとう完成した。」
「そんな絵空事、信じられないわ。」
奈美の不安は頂点に達していた。
「私の前にその完成品がある。」
史郎は奈美のほうに振り返り、奈美を指差した。
「それは君だ、奈美!」
奈美の全身に衝撃が走った。
頭の中が真っ白になり、今にも全身が崩れ落ちそうになる感覚に襲われた。
「うそよ!でたらめよ!」
それはやっとの思いで出た、最後の抵抗だった。しかし、それも次の言葉ですぐに打ち砕かれた。
「奈美、君は二年前より以前の記憶があるかね?」
奈美の言葉が詰まった。
「あるはずがない。君がこの世に誕生したのはちょうど二年前だからね。」
その言葉に奈美は止めを刺された思いがした。長い間、自分の中で探してきた、自分が何者かという疑問、それが自分の予想を超える事実と知ったとき、奈美は全身から急速に力が抜けていくのを感じた。
もはや、史郎の言葉を否定する力も残っていなかった。
それにあわせて、奈美のからだの輝きは消え、髪も元の黒髪に戻っていた。
史郎は右手で奈美の頬をやさしく撫でた。
「いくつかの失敗を繰り返し、やっと完成した君は私が作り上げた最高の芸術品なのだ。」
奈美を見る史郎の目は満足感で溢れていた。
「その芸術品を私の手から盗んでいった男がいた。」
史郎の顔に怒りの色が表れた。
「亘兄さん…」
奈美の脳裏に亘の顔が浮かんだ。
「完全なアーマノイドとして教育中にその男はくだらない感情から君を盗み出し、外部に連れ去ってしまった。」
「兄さんは私が戦うことしか出来ない戦闘人間になることを悲しんで、私をあなたの元から連れ出してくれたのよ。」
奈美は今あらためて、亘の大きな愛を感じた。
「それがくだらないというのだ。おかげで君にアーマノイドとして不必要なプログラムを与えてしまった。」
史郎の目は、自分の作品を傷つけられた芸術家のように、憎悪に満ちていた。
「芸術家は不出来な作品を後世に残さない。」
「それで私に刺客を…?」
奈美は史郎を睨み付けた。気力を取り戻すためにも怒りや憎しみが必要だった。
「はじめはアーマノイドの秘密を外部に漏らさないために、君を抹殺しようとした。」
「はじめは…?」
「しかし、君の戦いぶりを見て考えが変わった。」
史郎の顔に妖しい笑みが浮かんだ。
「やはり君は私のパートナーとして相応しい。」
「あなたに協力するなんてまっぴら御免よ。」
奈美はあからさまに嫌悪感を見せた。
「やはり、そういう態度に出るか。」
史郎は奈美から少し離れた。
「確かに君には不必要なプログラムがインストールされているが、その人間らしい感情というものを逆に利用すれば君を一生、私のパートナーとして手元におくことが出来る。」
「何をするつもり?」
奈美の顔に警戒心が走った。
「ふふふ、奈美、私の目を見ろ。」
そう言うと史郎の目が再び妖しく輝き始めた。
(あの目を見てはいけない。)
そう危険を察したときにはもう遅かった。急に奈美の視界から周りの風景が消えた。
3
気がつくと、奈美は暗黒の空間の中に浮かんでいた。上も下もなく、寒暖の感覚もない、不思議な空間であった。
〈ここはどこ?〉
いつの間にか体が自由になっている。
〈史郎はどこ?〉
史郎の姿を追い求めようとした時、遠くから史郎の声にならない声が、奈美の頭の中に直接響いてきた。
〈さあ、私と一緒にくるのだ。奈美。〉
奈美は声のするほうを探した。
やがて暗黒の空間の彼方に輝く点が現れた。それは次第に大きくなり、巨大な光の渦となって奈美を押し包んだ。
その途端、奈美の全身を熱いものが駆け回り、目の前にいままで起こったことが次々浮かんできた。
ソニーへの怒り。
ミスリルとの死闘。
川端との出会い。
ゴーレムの咆哮。
リエの涙。
ジャックの嘲笑。
剣持との会話。
そして、陽子の笑顔。
それらがはっきりとした画像となって奈美の目に映った。
〈奈美、今までのことをすべて吐き出すのだ。〉
また、奈美の頭の中に史郎の言葉が響いてきた。
それをきっかけに奈美の体が急速に動き出し、様々の色の光がものすごい速さで、奈美の体の中を突き抜けていった。
その光が奈美の体の中を突き抜けていくたび、過去の画像を次々とどこかへ持ち去っていき、奈美の中の記憶がひとつひとつ消えていくようであった。
最後に奈美の目の前に現われたのは亘の笑顔であった。
〈兄さん…〉
その画像が徐々に遠ざかっていく。
いや、様々の色の光に包まれた奈美の体が、何かに引っ張られるように移動しているのだ。奈美の体は暗黒の空間をどこまでも突き進んでいき、画像は遠く離れ、やがて光の点となって消えていった。
〈奈美、私の元に来るのだ。〉
史郎の言葉が奈美の体を引き寄せる。
しかし、奈美の防衛本能が最後の抵抗を試みた。
〈いけない。向こうに行ってはいけない。〉
奈美の体を強烈な力が襲った。
体が張り裂けるような強い力に、奈美は悲鳴を上げた。
〈奈美、何をためらう。自分の心をよく見つめるがいい。〉
〈この声を聞いてはいけない。〉
奈美は耳を塞ぎ、必死の抵抗をした。しかし、声は直接、頭に響く。
〈奈美、こちらだ。〉
奈美の体が声のする方へと加速した。
その方向に光が見え始めた。
奈美の体はその光を目指している。
奈美の目はその光に釘付けになっていた。
光は徐々にその大きさを増し、さらに人の形へ変化していく。やがて、それは史郎の姿として奈美の目に映った。
〈史郎…〉
いつの間にか奈美の体は暗黒の空間の中に静止しており、目の前には金色に淡く輝く史郎がいた。
〈史郎…〉
奈美の中にはいま、史郎に対する怒りも憎しみもなかった。奈美は自分の中にいままで感じたこともない不思議な感情が芽生えてくるのをはっきり感じ取っていた。それは徐々に奈美の心を支配していき、他の感情や理性を凌駕していった。防衛本能もその例外ではなかった。
奈美にあきらかな変化が起きていた。
奈美の史郎を見る目が熱く愛しいものに変わっているのだ。
史郎の顔が奈美の眼前に迫った。
〈奈美、私とともに行こう。〉
史郎の手が奈美の手に触れると、いきなり奈美の体は史郎に引き寄せられ、史郎の唇が奈美の唇の上に重なってきた。
奈美は抗おうとはしなかった。
唇が触れた瞬間、奈美の全身から力が抜け、頭の中が真っ白になり、史郎への意識以外の全てのものが消え去りそうになった。
奈美は今、自分が史郎の虜になっていくのがはっきりわかった。
4
奈美が史郎の虜になっている頃、正確にはその数分前、タラップの下に転げ落ちていたソニーの体が少しづつ動き始めた。
ゆっくり起き上がると、ソニーは胸に刺さっているニードルを引き抜き、それを放り投げるとアクエリアス号を見上げた。
タラップの上には奈美の姿はない。
「ふ、そう簡単にくたばる俺じゃあないぜ。」
そう呟くと、ソニーは胸を軽くさすった。防弾チョッキの固い感触が手に伝わる。
「備えあれば憂いなしか。さすがに完全に防御できなかったな。」
ソニーはホッとため息をついた。奈美の超振動ニードルは防弾チョッキを貫き、ソニーの胸に多少の傷を与えていたのだ。
傷の痛みを抑えながら、ソニーは倉庫の裏に逃げるように移動した。
「どうやら、面室長もアクエリアスに来たようだな。」
裏に積み重ねてある空箱に腰を下ろすと、ソニーはポケットからタバコを取り出し、一本抜くと、火をつけた。
いつの間にか月も出ている。
ソニーはその月に向かってタバコの煙を吐いた。
「そんなにあのお嬢さんがお気に召したのかね。」
ソニーは軽く笑いながら懐からある物を取り出した。
小型のトランシーバーのような形をしたそれを、ソニーはニヤニヤしながら眺めてた。
「面さんよ。後のことはこのソニーさまが引き受ける。安心してお嬢さんとあの世へいきな。」
そう言ってその装置の真ん中についているカバーを親指で弾いた。その下には真っ赤に塗られたボタンがあった。
「あばよ」
ソニーの親指がそのボタンを押した。
その頃、奈美は別世界にいた。
史郎の腕に抱かれ、心地よい感覚に包まれていた。
「奈美、見るがいい。」
史郎が手を振りかざすと、足元の小さな光点が急速に大きくなり、それは地球の姿となって二人に迫ってきた。
「見たまえ。あの美しい日本の姿を。」
史郎の指差す方向に日本の独特の形があった。
青い海と白い雲、そして緑に彩られたその姿は印象的であった。
「数千年、日本はあの美しい姿を保ってきた。しかし、その美しい日本に寄生し、その大地を、川を、森を、湖を汚す愚か者たちがいる。」
「愚か者…?」
「そうだよ。その者たちは我が物顔でこの大地を闊歩し、そこに住む他の者たちをどんどん駆逐していった。」
史郎の顔にまた怒りの表情が表れた。
「だから、私はかれらを滅ぼすのだよ。」
史郎は諭すような目で奈美を見つめ、その頭を撫でた。
「あなたは一体、誰なの?」
囁くようにたずねる奈美に史郎は微笑んだ。
「私はえみしの魂の具現者。」
「え・み・し…?」
奈美は不思議そうに首を傾げた。
そんな奈美を見て、史郎は強く抱きしめた。
「いまはそれ以上知る必要はない。いずれわかるときがくる。それまでゆっくり眠るがいい。」
奈美はゆっくり頷いた。そして、静かに目を閉じた。
そのときだった。
眩いばかりの閃光と轟音が奈美を覆い、奈美の背中に激痛が走った。
その途端、暗黒の空間は消え、アクエリアス号の甲板が視界に広がった。
奈美の体に感覚が蘇り、史郎の呪縛から自分を取り戻した。
何が起こったのかわからなかった奈美は、目の前の史郎に気づくと彼を突き飛ばし、後方へすばやく飛びのくと、間髪をいれず、史郎に向かって必殺の針を撃った。
不意をつかれた史郎は、それを躱すことが出来ず、奈美の超振動ニードルをその胸に受けた。
「ウッ!」
史郎の顔が歪み、よろめきながら後ずさりした。
そのとき、再び大音響とともに爆発が起こり、奈美は爆風に吹き飛ばされ、甲板に叩き付けられた。
爆風のショックに痛む体を摩りながら奈美がゆっくりと立ち上がると、船上は紅蓮の炎に包まれていた。
あちこちで続けざまに爆発が起こる。そのたびに炎は暗黒の空を焦がした。
「これは…?」
「ソニーのやつがこの船に爆弾を仕掛けていったらしい。私と君を一緒に吹き飛ばすつもりだったようだ。」
突然の史郎の声に奈美は驚いて辺りを見回した。
見ると、史郎は燃え盛る炎の向こうに悠然と立っていた。
「今一歩のところでとんだ邪魔がはいったものだ。」
史郎は苦笑を浮かべながら奈美を見つめた。
奈美は炎の熱さも意に介せず、史郎に向かって戦う姿勢を見せた。
「史郎、最後の時が来たようね。」
奈美の表情が変わった。
史郎と刺し違えよう。この命と引き換えに史郎の野望を打ち砕こう。奈美の悲壮なまでの決心がその目に表れていた。
その変化に史郎も気づいていた。
「ふふふ、奈美、今回はこのまま引き下がるとしよう。」
「逃げるつもり!」
奈美の体が銀色に輝き、その髪は風に吹かれたようになびいた。奈美の闘気は最高潮に達していた。
その奈美を見て、史郎は軽く笑った。
「逃げる? ふふふ、私の野望を達成するためにいったん引き下がるだけだよ。」
突然、史郎の姿が薄く透き通り始めた。
「私の計画はこれで終わったわけではない。私が生きている限り再びマリオネット計画は発動し、日本を滅亡の道へと導く。」
史郎の姿が更に薄くなっていった。
「まて、史郎!」
奈美の髪から銀の光が迸った。しかし、超振動ニードルは史郎の体をすり抜け、炎の中に消えていった。やがて、史郎の姿は完全に消え、その場には呆然とする奈美がひとり取り残されていた。
どこからともなく史郎の声が響いた。
「奈美、これだけは覚えておくがいい。君は私のものだ。私だけのものだ。必ず君を手
に入れるために君の前に現われる。そのときを楽しみに待つがいい。ハハハハハ─。」
高笑いとともに史郎の声は遠くへ消え去っていった。
「史郎───!」
燃えさかる炎の中、奈美は消えた史郎に向かって叫び続けた。
5
アクエリアス号は更に何度目かの爆発を起こした。
船上はどこも紅蓮の炎に包まれ、まるで生き物のようにアクエリアス号の内部を駆け巡り、それに食い破られるようにあちこちの壁や天井が崩れ落ちていった。マストはもう爆発のショックで全て倒れ、船体は斜めに傾き、徐々にその姿を海の中に沈めていた。
1時間もしないうちにアクエリアスは港の底にその身を横たえるだろう。
ソニーはほくそ笑みながらその光景を見つめていた。
「これで邪魔者は全て消えた。俺の天下だ。」
邪悪な笑みが燃えさかる炎に照らし出され、更に醜く映った。
「君の天下は一生来ないよ。」
突然の声にソニーは口から心臓が飛び出しそうになった。
「だれだ!」
振り返ると、5メートル先に人が立っている。
よく目を凝らしてみると、それはアクエリアス号にいるはずの史郎であった。
「あ、あ、お・おもて…」
「死んだと思ったかね。」
史郎は相変わらず、冷徹な笑みを浮かべていた。
「いや、違うんだ。面さん。これは手違いなんだ。俺はあんたを殺そうなどと…」
あわてて言いつくろうとするソニーを史郎は凍りつきそうな目で見た。
「たのむ、信じてくれ。俺はあんたの忠実なしもべだ。」
そう言い訳するソニーの目が怪しく光った。
「死ね─!」
いきなりソニーは衝撃波を史郎めがけて撃った。
しかし、史郎は慌てることもなく、右手を前に突き出した。すると、右手の前に黒い球が突然現われ、その中にソニーの衝撃波が吸い込まれていった。
「なに!?」
ソニーは続けざまに衝撃波を撃った。しかし、その全てがその黒い球に吸い込まれていった。
「君にはもう用はない。」
そう言い放つと、ソニーの周りに黒い球が次々と出現し始めた。
「な、なんだ、これは?」
ソニーはそこから逃げ出そうと駆け出したが、黒い球はソニーから離れず、その四方を囲んだ。
怯むソニーの手足に黒い球は更に近づき、その手足を吸い寄せていった。
すさまじい吸引力がソニーの手足にかかり、抗う術もなくソニーの体は引き裂かれていった。
「ギャ─── 」
本当の断末魔の叫びを残してソニーは黒い球の中に消えていった。やがて、その球も徐々に小さくなり、黒い点となって消えた。
消えた後をしばらく見つめていた史郎も、やがて暗闇に溶け込むようにその姿を消した。
アクエリアス号だけはまだ燃えさかったまま海に浮かんでいた。