七話 告白
「俺さ……『ヒーロー』なんだよね」
唐突に放たれた言葉に、一瞬、思考が停止する。
空想の産物。スクリーンの中の存在。現実感の欠片もないその単語が、クレープの甘い香りに混じって公園に溶け出した。
「……ヒーロー?」
呆然と聞き返す。
「そう。人類の平和のために戦ってる」
普通なら「何言ってんだ」と笑い飛ばすところだ。なのに、俺の喉元で笑いは凍りついたまま動かない。
昨夜のあの異様な「影」。それを切り裂いた光。そして、今目の前にいる男の指先に刻まれた、消えない傷跡。
バラバラだったピースが、恐ろしい速さで噛み合っていく。
「あはは、信じなくていいよ。……普通、信じないよね」
自嘲気味に笑うリョウに、俺は間を置かずに言葉を投げた。
「信じる」
即答してしまった自分に、一瞬だけ戸惑う。
けれど、嘘だとは到底思えなかった。あいつが嘘をつくときは、もっと器用に、もっと明るく振る舞うはずだ。こんな、剥き出しの心で笑ったりしない。
「……信じてくれるんだ」
「だって……助けてくれたの、リョウだろ」
リョウの目が見開かれた。
夢だと思い込もうとしていた、あの逆光の背中。今なら確信を持って言える。あの時、俺の絶望を塗りつぶしたのは、間違いなくこの男だったんだと。
「……鋭いね」
「……なんとなく」
リョウは困ったように視線を逸らした。そのまま、自分の右手を左手で隠すように、そっと制服の袖を引っ張る。
「隠してたつもりだったんだけどな」
リョウの横顔は、いつもの余裕たっぷりな笑みとは違って、どこか危うく、脆そうに見えた。
世界を守るヒーロー。
その言葉の響きとは裏腹に、俺の目の前にいるのは、ただ傷だらけの手を隠して震えている、一人の少年だった。
夕闇が深まり、公園の街灯がぽつりぽつりと灯り始める。
手に持ったクレープはいつの間にか冷え、クリームの甘い匂いさえ、今は遠くの出来事のように感じられた。
怖い。
自分の知らないところで命を懸けて戦う存在が、今、隣で穏やかに座っている。
でも、それ以上に、心臓の奥が焼け付くように熱い。
「……なんで、俺に言ったの」
視線をクレープの包み紙に落としたまま、震える声で尋ねた。
ヒーローなんて、誰にも知られてはいけない秘密のはずだ。昨日会ったばかりの、何の力もない俺に話していいことじゃない。
「ユイトには、隠したくなかった」
リョウの声は、どこまでも真っ直ぐで、迷いがなかった。
「……なんで」
食い下がるように、もう一度聞いた。
なぜ俺なんだ。なぜ、そこまで信頼してくれる。
リョウは少しだけ間を置いて、夕風に髪をなびかせながら、静かに、けれど決定的な言葉を口にした。
「好きだから」
「……は?」
思考が白濁する。反射的に出た声は、間の抜けたものだった。
何を言われたのか、脳が理解を拒否している。
「そのままの意味だよ」
「ちょ、ちょっと待って……」
俺は頭を抱えた。
ヒーローだなんて、それだけでも処理落ちしそうなのに、その上「好き」なんて。情報量が許容量を軽く越えて、パニック寸前だ。
「……俺、冗談とか、得意じゃないんだけど」
指の間からリョウを盗み見る。あいつは、あざとい笑みも、余裕ぶった態度も消して、ただ真摯に俺を見つめていた。
「知ってるよ」
「じゃあ……」
「本気だよ」
リョウは、俺の顔にかかった前髪を、壊れ物を扱うような手つきでそっと払った。
その指先はまだ微かに震えていて、彼にとってもこれがどれほど勇気のいる告白だったのかを物語っている。
「俺さ、いつ死ぬかわかんない」
リョウは遠くの空を見つめたまま、独り言のように呟いた。その声には、悲壮感よりも、どこか遠い場所の天気でも語るような、乾いた諦観が混じっている。
「だから、嘘つくのやめたいんだ」
そう言ってリョウは、俺の方を向いて笑った。夕闇に溶けそうなほど優しい笑顔なのに、その輪郭はどこか透き通っていて、今にも消えてしまいそうに寂しい。
「今日が最期になるかもしれないから。本当のことを伝えないままいなくなるのは、嫌だったんだ」
ユイトの胸が、万力で締めつけられるような音を立てた。
今日が最期。そんな不吉な言葉を、この男はどれだけの夜、一人で噛み締めてきたのだろう。目の前の温かいクレープや、さっきまでふざけ合っていた時間が、あまりにも脆い足場の上にあったことを突きつけられる。
「……それ、ずるい」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く震えていた。
「え」
「そんなこと言われて……明日いなくなるかもしれないなんて言われて、何も思わないわけないだろ……」
視界が熱くなる。俺は膝の上で拳を握りしめ、地面だけを見つめて言葉を繋いだ。
「……俺も。……リョウのこと……」
喉に何かが詰まったように、言葉がうまく出てこない。昨日までの俺なら、こんな感情に名前を付けることすら怖がって逃げ出していただろう。けれど、リョウの「死」という影が、俺の心の奥に隠していた本音を無理やり引きずり出した。
「……好き、だと思う」
言ってしまった。
心臓が耳元で暴れている。勇気を振り絞って顔を上げると、リョウは一瞬、弾かれたように目を見開いていた。
けれど、次の瞬間、彼は酷く困ったような、泣き出しそうな顔で笑った。
「……そっか」
「なに、その反応。もっと、他にあるだろ」
あんなにストレートに愛を囁いてきたくせに、いざこちらが返すとそれだけか。俺の抗議に、リョウはふっと視線を落として、絆創膏の貼られた自分の指をなぞった。
「……嬉しい。本当に、飛び上がりたいくらい嬉しいけど」
「けど、何だよ」
「……巻き込みたくなかった」
その言葉と共に、リョウの手が俺の手に重なる。
温かくて、震えていて。
世界を守るヒーローのその手は、今、ただ一人の少年を愛してしまったという「罪悪感」に、静かに身を焼いているようだった。
リョウはしばらく何も言わず、ただ重なった自分の手元を見つめていた。
公園の街灯が、彼のまつ毛の長い影を頬に落としている。沈黙が流れるたび、遠くを走る車の走行音が、まるで世界の鼓動のように規則正しく響いた。
「……参ったな」
ようやくリョウの口から漏れたのは、ひどく困り果てたような、けれどどこか晴れやかな溜息だった。俺の本音を引きずり出しておいて、当の本人は降参したと言わんばかりに、天を仰いで苦笑いしている。
「じゃあさ」
リョウが、握りしめていた俺の手を、今度は優しく包み込むように持ち直した。
「恋人とかじゃなくていい。そんな大層な名前をつけると、俺、もっと臆病になっちゃいそうだから」
リョウは一度言葉を切ると、悪戯っぽく、それでいてこの上なく真剣な眼差しで俺を真っ直ぐに射抜いた。
「まずは……一緒にいよ。ただ、隣にいる。それだけでいい」
俺の心臓の鼓動を確かめるように、リョウはわずかに指先に力を込める。
「それでも、いい?」
ずるい。本当に、こいつは。
ヒーローなんて重い宿命を背負っているくせに、俺に求めるのは、あまりにささやかで、あまりに贅沢な「時間」だ。
「……最初から、そうしてるだろ」
俺は俯いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
昨日、俺の袖を掴んだのは誰だ。今朝、あいつの不在に絶望していたのは誰だ。
名前なんてなくても、俺たちはもう、昨日までの「他人」には戻れないところまで来てしまっている。
「ふふ、そうだね。ユイトは俺よりずっと、覚悟が決まってるみたいだ」
リョウがくつくつと笑う。俺も、自分の頬が少しずつ緩んでいくのを止められなかった。
溶けかけたクレープの甘い匂いと、少しだけ冷たくなってきた春の風。
隣に並んだ二人の影は、まだ不安定で、いつ消えてしまうか分からないけれど。
それでも今は、この静かな夜が永遠に続くような錯覚に浸っていたかった。




