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三十二話 喪失

 白すぎる天井。

 鼻を突く消毒液の匂い。

 窓の外から聞こえる鳥の囀りだけが、ここが「生和の世界」であることを辛うじて告げている。

 

 ゆっくりと、瞬きを繰り返す。

 自分の輪郭がひどく曖昧だった。試しに右手を持ち上げてみる。

 

 ――俺は、誰だ。

 

 問いかけても、頭の中には静かな凪が広がっているだけだ。名前も、歩んできた道も。覚えていないということさえも、今の俺には「無」と同義だった。

 

「……気が付きましたか」

 

 白衣を着た医師が、安堵したような溜息を漏らす。

 

「君はひどい過労で倒れていたんだ。検査の結果、脳に異常は見られないが、一時的な記憶の欠落があるようだね。でも、体の方はもう大丈夫だ」

 

 過労。説明されたその言葉を、俺は水を含んだスポンジのように無批判に飲み込んだ。

 そうか、俺は疲れ果てていたのか。何に、誰のために、どうしてそこまで。

 理由は霧の向こう側だったけれど、不思議と悲しくはなかった。ただ、胸の奥に、ぽっかりと温かい穴が空いているような――何か、とても大切な「光」を失くして、それでもその光の余熱だけが残っているような、奇妙な感覚だけがあった。


 ただ、数日が経った。

 最低限の荷物を持ち、俺は病院の門をくぐった。

 街は、眩しいほどの活気に満ち溢れていた。行き交う人々、笑い声、色とりどりの看板。

 どこへ帰ればいいのか、それすら分からないまま、俺は吸い寄せられるように近くの公園へと足を向けた。

 

 公園の隅、色褪せたベンチの近くで、一人の少年が砂場をじっと見つめていた。

 周りでは、他の子供たちが賑やかに追いかけっこをしている。けれど、その少年だけは、まるで見えない壁に囲まれているかのように、ぽつんと独りきりで座り込んでいた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥の「温かい穴」が、不意に疼いた。

 

 気が付けば、俺はその子の隣に歩み寄っていた。

 

「……お友達と遊ばないの?」

 

 声をかけると、少年は肩をびくりと震わせ、怯えたような瞳で俺を見上げた。

 その瞳。どこかで見たことがあるような――いや、俺自身の心の奥底にある「氷」と同じ色をしている気がした。

 

「……遊びたい……けど……」

 

 消え入りそうな声。

 

「そっか。……お名前はなんていうの?」

「……リョウ」

 

 雷に打たれたような衝撃が走った。

 リョウ。その響きが、俺の空っぽの胸を激しく揺さぶる。

 ああ、そうか。

 この名前。俺は、この名前を、誰よりも大切に、誰よりも切実に呼んでほしかったのだ。

 

「いい名前だね。……ねぇ、リョウ君。あそこにいる子、見える?」

 

 俺は、少し離れたブランコの柵に寄りかかっている、もう一人の少年を指差した。

 黒髪を少し跳ねさせ、誰とも目を合わさないようにして俯いている、痩せた少年。

 彼もまた、孤独という名の透明な檻の中にいた。

 

「……うん」

「あの子も、ひとりぼっちで寂しそう。……リョウ君が遊んでくれたら、あの子、きっと喜ぶと思うな」

「むりだよ……。ぼく、どうやって話しかけたらいいか、わかんないし……」

 

 少年の小さな手が、不安そうにズボンの裾を握りしめる。

 俺は優しく、その小さな肩を包み込むように手を置いた。かつて、誰かのために武器を振るっていたかもしれないこの手は、今、目の前の小さな孤独を支えるためにあるのだと、本能が叫んでいた。

 

「大丈夫。お兄ちゃんも一緒に行ってあげる。一緒に一歩、踏み出してみよう?」

 

 俺は少年の手を引き、ゆっくりとブランコの方へ歩き出した。

 自分の足が、不思議と軽い。

 一歩進むごとに、心の中の霧が晴れていくような、爽快な風を感じる。

 

 やがて、俯いていた少年の前で足が止まる。

 少年は驚いたように顔を上げた。その瞳には、かつての俺が――あるいは俺の隣にいた「誰か」が持っていたような、孤独ゆえの鋭さと、それを溶かしてくれる熱を待つ渇望が宿っていた。

 

「こんにちは。ちょっと、いいかな?」

 

 俺が微笑むと、少年は戸惑いながらも小さく頷いた。


「うん……」

「リョウ君、ほら。言ってみて」

 

 俺に背中を押され、隣に立つ小さなリョウ君が、深呼吸をして口を開く。

 

「い、一緒に……遊ぼ……」

 

 震える、けれど真っ直ぐな言葉。

 ブランコの少年は、一瞬だけ目を見開いた。そして、驚くほど静かに、けれど確かに、凍てついていた頬を緩めた。

 

「……いいよ」

 

 その瞬間、世界に色が灯った。

 二人の少年が、砂場へと駆け出していく。

 

 俺は、それを眩しそうに見つめていた。

 名前も、過去も、俺には何もない。

 けれど、今、目の前で一つの孤独が溶けていった。それだけで、俺が今日まで生きてきたことには、十分すぎるほどの意味があったのだと思える。

 

 空を見上げる。

 雲の隙間から差し込んだ朝日が、シルクのように揺れている。

 

 どこかで、誰かが俺を呼んでいる気がした。

 名前は思い出せないけれど、その声の主は、きっとあの子のように、少し不器用で、けれど驚くほど温かい心の持ち主だろう。

 

 いつか、出会えるだろうか。

 

 俺が遺した「明日」を、今も懸命に生きている、あの「特別な誰か」の元へ。

 

「……さて。俺も、行こうかな」

 

 俺は、見知らぬ自分の物語をもう一度紡ぎ始めるために。

 新緑の風に背中を押されながら、光溢れる街の中へと、確かな足取りで歩き出した。

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