三十話 最終決戦
結界の境界線を跨いだ瞬間、音のない世界が俺を飲み込んだ。
空はひび割れた鏡のように濁り、足元には名もなき死者の嘆きが泥となってまとわりつく。
人類の命運、数億人の生存。そんな巨大な天秤の片皿に、俺はたった一人の少年として立たされていた。
――これでいい。
胸の奥で、自分に言い聞かせる。
あの日、クレープの甘い匂いの中で放った毒。ユイトの瞳に宿った絶望。
俺を恨めばいい。俺を最低な奴だと切り捨てて、いつかくる「俺のいない明日」を、彼は怒りとともに歩き出してくれればそれでいい。
愛される資格なんて、最初からなかった。
俺が死んだあと、彼が流す涙を「悲しみ」ではなく「憤り」に変えること。それが、臆病な俺にできる最後の手向けだった。
目の前で、史上最悪の怪異が質量を持った絶望として形を成していく。
俺は、折れそうな心をヒーローの仮面で塗り潰し、一歩を踏み出した。
戦闘は、もはや対話だった。
拳を振るうたび、俺の輪郭が削れていく。
火花が散るのは鉄と鉄ではなく、俺の「生きたい」という未練と、世界の「死ね」という理だ。
極彩色の閃光が視界を焼き、衝撃が骨を砕く。
痛みはもう感じない。ただ、自分の体温が指先から一滴ずつ、暗い宇宙へ溶け出していく感覚だけがあった。
不意に、視界が白く爆ぜた。
体が浮き、重力から解き放たれる。
深い、深い闇の底へ落ちていく中で、聞こえてきたのは咆哮ではなく、穏やかな生活の音だった。
――目玉焼きが焼ける音。
――震える声で呟いた君の羞恥。
――壊れものを扱うように俺を握り返した、あの手の熱。
流れ込んでくるのは、世界を救った栄光ではない。
教科書の隅に描いた落書きや、一緒に食べたクレープの味。
あの日、エプロンの紐を結んでやった時に嗅いだ、ユイトのうなじの石鹸の匂い。
ああ、神様。
俺は、こんなにも「普通」を愛していたのか。
暗闇の向こうで、ユイトが笑っている気がした。
俺を「ヒーロー」としてではなく、ただの「リョウ」としてそばにいてくれた唯一の人。
意識が遠のく。
血に濡れた指先が、何もない虚空を掴もうとして、力なく落ちた。
俺の記憶は、砂のように崩れていく。
最後に残ったのは、あの日公園で言いかけて飲み込んだ、一番残酷で、一番美しい言葉だった。
「――愛してるよ、ユイト」
誰にも届かない遺言を、俺は薄れゆく意識の淵で、そっと抱きしめて眠りについた。




