二話 月光
藍色の夜空に浮かぶ満月はじんわりと滲んでいる。まるで、俺の心を表しているかのようだ。
塾の講義を終え、重い鞄を肩に食い込ませながら、いつもより暗い家路を歩く。
自販機の容赦ない眩しさ、街灯に集る虫。目に映る全てが甘い毒のように心を刺激してくる。今の俺は、やけに感傷的で気色が悪い。詩人にでもなったつもりか、と。砂糖が焦げ付くような甘ったるい臭みに眉を顰める。
──可愛い名前だね。
鼓膜を震わす、声色から息遣いまで完璧に再現された脳内再生。今も隣にいるかのような、おぞましいほどの現実味を帯びている。
頬を撫でる夜風が異様に冷たい。俺が火照っているせいで、必要以上に涼しく感じているだけなのだと悟った。
熱に浮かされたような締まりのない今の顔だけは、きっと誰にも見せられない。
名前だ。
あいつが可愛いと評したのは、あくまで「ユイト」という三文字の固有名詞に過ぎない。
別に、俺の容姿が可愛いと言われたわけではないじゃない。
脳を支配する不整脈を鎮火させようと、自分に言い聞かせる。
そうだ。あいつは名前を愛でるという変態的な趣味を持った、ただの変態。
もう一度、逃げ場を求めるように空を見上げる。破裂しそうなほどに肥えた月は、処理しきれない情報の塊になりつつある俺の思考。輪郭がぼやけ、霞がかっている所まで、同じだ。
いやいや。何言ってんだ。
新学期が始まって早々、人に話しかけられて浮かれているのか。この歳にもなって恥ずかしい。
思えば、塾の間も参考書を追うふりをしてあいつのことばかり考えていた。数式の代わりに浮かんでくるのは余裕たっぷりな笑みばかりで、勉強どころではなかった。
こんな毎日が続くようであれば、高い月謝を払ってくれている両親に申し訳が立たない。気を引き締めなくては。
鞄の紐を握りしめた時、足音の多さに気がついた。
カツ、カツ、カツ、と。ローファーがアスファルトを蹴る音。俺の意識に同調するような一定の間隔。その隙間を縫うように、自分以外の誰かの足音が響いている。
胸騒ぎに急かされるように早歩きに転じようとしたところで、「馬鹿らしい」という考えが踏みかけたアクセルを緩めた。
同じ方向へ帰る人間が一人や二人、いてもおかしくない。どこまで自意識過剰なんだ、俺。そう結論付けようとした。なのに、なぜだろう。嫌な予感が背筋を這い上がる。
自販機の前を通り過ぎたはずなのに、背中にべったりと光が張り付いているような感覚が消えない。街灯の真下を抜けても、自分の足元に伸びる影が不自然に濃く、薄くなる気配がなかった。
ふと、気づく。
先ほどまで耳障りに響いていた虫の羽音が、いつの間にか、ぷつりと途絶えていた。
背後で、空気が重く押し潰されたような音がした。
反射的に振り返るより先に、喉がせり上がる。
生臭い。内臓をぶちまけたような、錆びた鉄の臭い。
さっきまで頬を撫でていた夜風が、急に呼吸を止めたように死に絶えた。
逃げろ。
脳内で警報が鳴り響き、全身の毛穴が逆立つ。
けれど、コンクリートに縫い付けられたかのように足が動かない。視界の端で、街灯の光を喰らうようにして、黒い影が質量を持って増殖していく。
振り返ってはいけない。見てしまえば最後だ。本能の叫びを突き放し、錆びついた歯車を回すように首が勝手に動いた。
そこに、いた。
形を定義することすら拒む、不定形の怪物。
煮え滾る泥のような黒い影の塊だ。ただ、その中央付近に、生理的な嫌悪感を催すほど瑞々しい「目」だけが、爛々とこちらを射抜いている。
──ああ。
これ、ダメなやつだ。
そう理解した瞬間、世界が暴力的にひっくり返った。
逃げようとした足がもつれ、俺は無様に尻もちをついた。
衝撃で肺の中の空気が追い出され、代わりに凍てつく夜の冷気が肺胞を焼き、激しく咳き込む。死が、すぐそこまで口を広げて迫っているのがわかった。
怪物の影が、命を刈り取る形を成す。
終わりだ。
強く、瞼を閉じた。
予想していた痛みはいつまでも訪れることはなかった。
代わりに耳を劈いたのは、腐敗した果実が潰れるような音、そして黒板を引っ掻いたような甲高い号哭。
夜を切り裂く疾風。
衝突の余波で、アスファルトの上の埃が舞い上がる。
恐る恐る目を開けると、俺と怪物の間に、誰かの背中が立っていた。
月光を背負い、逆光の中に溶け込むそのシルエットは、まるで最初からそこにいたかのように自然で、同時に、この世のものとは思えないほどに強固だった。
何かを言葉にする間もなく、視界が白く弾ける。
激しい閃光と、何かが弾ける音。
──夢?
意識の底から這い上がってきた俺を待っていたのは、静寂だった。耳を劈くような激しい火花も、空気を押し潰すような重圧も、すべてが嘘だったかのように消え失せている。
ひび割れたアスファルト。相変わらず不機嫌そうに明滅を繰り返す古い街灯の光。
血生臭い鉄の匂いはどこにもない。
鼻腔を突くのは、乾いたアスファルトの匂いと、どこかの家から漂ってくる夕飯の残り香。
どこにでもある、退屈で平穏な夜の景色。
俺は、震える手で自分の体を確かめるように触れた。
尻もちをついた時に感じた鈍い痛みさえ、今はもう、遠い記憶の残滓のようにぼやけている。
狂ったように増殖していたあの「影」は?
爛々と輝いていた、あの禍々しい「目」は?
周囲を見渡しても、そこには何の痕跡も残っていなかった。
「止まれ」の標識は真っ直ぐに立つ。
まるで、世界が「間違い」を修正するために、急いで記憶ごと塗り替えたかのようだった。
「……なんだよ、これ」
乾いた声が、静かな路地裏に虚しく響く。
手のひらには、恐怖に震えた感触だけが熱を持って残っているというのに、目の前の現実はそれを受け入れようとはしない。
足元に落ちていた塾の鞄を拾い上げ、埃を払う。
中に入っていた参考書の角が少しだけ折れているのを見て、ようやく、自分がここに実在していることを再確認できた。
やっぱり、夢だったのだろうか。
新学期の緊張と、慣れない会話。それらが重なって、俺の脳が見せたあまりにリアルな幻覚。
その夜、俺はようやく理解した。
世界は、何事もなかった顔で嘘をつく。
嘲るように、また歩き出した。




