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一話 隣の空席

 新しい学年の始まりは、少しずつ花を落としていく桜と共に訪れた。


「桜が散ってしまう前に、記念写真を撮ってしまいましょう」


 そう言って忙しなく動き回る教師と、何一つ掴めていないまま、ぎこちなく振り回される新入生。窓の外では、新入生を撮ることから、桜を撮ることに目的がすり替わってしまったかのような狂騒が続いている。懐かしい。去年は自分も「あっち側」だった。

 

 教室の中には、事務作業のように平坦な長話が流れていた。前の担任からバトンを受け取ったのは、厳しくも優しくもないことに定評がある中年の数学教師だ。

 生徒への連絡事項をまとめた紙があるのか、彼の目線は手元のクリップボードに固定されたままだ。居眠りをしている生徒を注意することもない。ただ、淡々と。お経を読み上げているのかとさえ思えるその声は、俺の耳を右から左へと通り抜けていく。


 後方の席で、校庭の砂塵を眺める。ふわりと風にのり、立ち昇っては、消える。一生眺めていられる。……いや、嘘だ。本当は、何を見ても何も感じない自分に飽きているだけだ。


「──はい、以上。次の時間からは普通に授業だからな。真面目に受けるように。いつまでも一年生気分でいるなよ」


 ちょうど、チャイムが鳴った。

 それを合図に、死んだように伏していた生徒たちがむくりと動き出す。

 あくび混じりに始まる談笑。去年からの顔見知り、それか未知の存在に話しかける勇気を、誰もが持っている。

 二人以上の群れがいくつも重なり、喧騒が教室を満たす。ぎこちない挨拶から始まる友情。今年度も同じクラスになれた喜びの分かち合い。いかにも青春という感じ。

 顔見知りも勇気も持ち合わせていない俺には、この輪のどこにも居場所はない。


 また、独りか。


 どこかのグループがどっと湧き上がった。その楽しそうな笑い声から目を逸らすように、主人を待っている空席に視線を移した。隣の人が自分と似たタイプだったら、話しかけてみようか。そんな脆い情熱を抱いていた。

 今朝までは。しかし、隣人は一向に来なかった。初日から風邪を引いたのか。知る由もないが、どうせそんなところだろう、と結論づける。


 途端、期待した自分が馬鹿みたいに思えた。


 話しかけてみよう、なんて。

 隣の席だから、なんて。

 そんな理由で何かが始まるほど、世界は優しくない。


 去年だってそうだった。

 同じ教室にいて、同じ時間を過ごしても、

 気がつけば、誰の記憶にも残らない。


 空席は、空席のままだ。


 視線を戻そうと思った。が、どこを見ればいいのかわからず、静かに目を閉ざした。

 これでいい。これが普通だ。今日も、何事もなく終わるのだろう。


 そう思った、ちょうどそのときだった。

 椅子を引く音が、すぐ隣で鳴った。


 ──え?


 思わず目を開く。

 なんて、大胆不敵な遅刻。「ちょっとトイレ行ってました」みたいな。「最初からいましたけど、何か」とでも言いたげな余裕の笑み。

 違う。その程度では収まらない。彼は、そもそも遅刻などしていない。俺たちが早く来ていた。

 そう錯覚するほどの輝きを、過剰なまでに振り撒いている。蝶が羽ばたき、鱗粉を散らすように。

 カバンを机の傍に提げ、席に着く。その一瞬の所作。遅刻してきた人間とは思えない圧倒的な自信に満ちている。

 隣の席という境界線を越えて、熱のようなものが伝わってくる。

 彼が軽く肩をすくめ、乱れた前髪を無造作にかき上げた。その指先が、春の陽光を反射して白く光る。

 俺はと言えば、開いた口が塞がらないまま、金縛りにあったように彼を凝視することしかできなかった。

 すると、彼は隣に座る異分子である俺の視線に気づいたのか、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。


「おはよう」


 一瞬、心臓が職務放棄した。

 今、俺に向かって言った?

 不安を埋め合わせるように周りを見る。話しかけられたのが自分ではない誰かだった時の、あの虚しさ。一度やらかしたことがある。二度と味わいたくはない。

 幸か不幸か、周りには俺らの会話を遮る人はおらず、そのうえ彼の視線は絡みつくように俺を捉えている。


「あ……えっと……」


 声が喉に張り付いて、情けない声が漏れる。今朝まで抱いていた、隣の人に話しかける計画などあり得ない無茶だったという真実を叩きつけられた気がして、妙な恥ずかしさが込み上げてきた。


「お、はよう……ございます……」

「敬語? いいよ、そんなの。俺たち、今日から隣人同士でしょ」


 彼はそう言って、悪戯っぽく片目を細めた。


「俺、山下亮やました りょう。君のお名前は?」

「ゆ、唯徒ゆいと……」

「へぇ、可愛い名前だね」


 そう言って、屈託なく笑う。

 名前が、可愛い。雑な褒め方。嫌な気はしないが、なぜだかむず痒い。全然嘘臭くなくて、少なくともからかっているようには思えない。だから、余計にタチが悪い気がした。


「部活、何入ってるの?」

「……入ってない。帰宅部」


 入っているのか入っていないのか。少し紛らわしい回答をしてしまったな、と。心の中で反省する。

 

「俺も帰宅部。なんか、運命的だね」


 運命。

 いや。それ、運命というにはあまりにずるくないか。


「あ、そろそろ授業が始まるね」


 教師の入場により、群れが霧散していく。

 

 起立、礼、着席。この一連の動作さえ、彼は俺を含めた他の連中のような気怠げな様子を一つも見せない。勉強が好きなのだろうか。始業式をすっ飛ばして授業にだけ出席してしまうほどに。

 

 カッ、カッ、と。息が詰まるほど堅苦しい音を立てて黒板に浮かぶ白い文字列を、順に追う。

 数式は読める。意味も分かる。

 なのに、頭の中で定着しない。


 視線を逸らしているはずなのに、隣の席の気配だけがやけに鮮明だ。


「ここの問題を……山下、答えなさい」


 日付になぞらえた教師の指名に、即座に声が返る。

 迷いのないうえに、正確な返事だった。


 目で追っているのがバレたのか、不意にこちらを見た亮と目が合った。

 飼い主に「褒めて」とねだる大型犬のような、相変わらずの余裕な眼差しがコマ撮りのように流れる。


 俺は慌てて目を逸らした。

 

 ──集中しろ。

 授業中だぞ。


 それからの時間は、驚くほど早く過ぎた。

 五十分間は、壮絶な戦いだった。隣に座る彼を意識しないよう意識する、負けられない戦い。

 チャイムがなった時、緊張の糸がパッと解れた。

 最低限しかとられていないノートが、まっさらな戦場跡のように思える。

 板書を写した記憶だけが残っていて、中身は空っぽ。ただ、隣の席を視界の端で確認する癖だけが、しつこく抜けなかった。


 チャイムが鳴るたび、肩がわずかに強張る。

 次も、いる。

 そう思ってしまう自分を、何度も打ち消しながら。


 放課後。

 教室に残っていたざわめきが、少しずつ薄れていく。椅子を引く音、カバンのファスナーを閉める音。日常のはずのそれらが、やけに大きく聞こえた。


 立ち上がりかけて、ふと隣を見る。


 ──空席だった。


 いつ出ていったのか、見当もつかない。誰かと話していた様子もない。ただ、最初からそこにいなかったみたいに、何も残っていなかった。


 一緒に帰ろうとか、ないのか。

 ……別に、期待していたわけじゃないけど。


 そう考えてしまったこと自体が、少しだけ悔しかった。

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