十五話 風呂
「ごちそうさまでした」
止まることなくフル稼働していた箸を置いて、丁寧に手のひらを合わせる。
山のように盛られていたはずの料理は、気づけばすっかり俺たちの胃袋に収まり、大皿にはわずかな跡が残るだけになっていた。
食後の熱い茶を啜りながら、リョウと今日一日の出来事や、さっきのレースゲームのひどいリプレイの話で笑い合う。オレンジ色の照明が、湯気の向こうで微笑むリョウの顔を柔らかく縁取っていた。
──大人になったら、こんな毎日が続くのだろうか。
ふと、そんな思考が頭をよぎった。
仕事が終わって、誰かと机を囲んで、どうでもいい話をして、温かいご飯を食べる。もしそんな未来が待っているのだとしたら、それはなんて……。
「……あ」
思考の先を自覚した途端、急激に顔が熱くなった。
まだ高校生で、しかも今はテストが終わったばかりのただのお泊まり会だ。それなのに、俺はこいつとの数十年先のことまで、当たり前のように地続きの未来として想像してしまった。
先を見過ぎだ。
あまりにも気が早すぎるし、何より気恥ずかしい。リョウが命懸けで守っているこの「日常」が、この先もずっと続くなんて、今はまだ誰にも保証されていないというのに。
「ユイト? ぼーっとして、どうしたの?」
「……いや。別に、なんでもない」
俺は照れ隠しに、まだ少し熱い茶を一気に流し込んだ。
喉を通る熱が、浮き足立ちそうになった俺の意識を、どうにか今のリビングへと繋ぎ止めてくれた。
『お風呂が沸きました』
温かな余韻に浸っていたリビングに、無機質で軽快な電子音が響き渡った。その音が、日常の平穏を改めて告げているようで、妙に胸に響く。
「先、入っていいよ。ユイトはお客様なんだから」
「……リョウの家なんだから、リョウが先に入れよ。俺は後でいい」
もてなされっぱなしの居心地の悪さと、あいつのプライベートな空間にどこまで踏み込んでいいのかという戸惑いが、俺を頑なにする。すると、リョウは少しだけ目を細めて、悪戯っぽく口角を上げた。
「じゃあ、一緒に──」
リョウの口から出かけた言葉に、俺の心臓がドクリと跳ねる。だが、彼はすぐに「……いや、なんでもない。お言葉に甘えちゃおっかな」と、照れ隠しのような苦笑いを浮かべて言葉を飲み込んだ。
「……変なこと言うなよ」
「あはは、ごめんごめん。じゃ、お先に失礼して……。ユイトはテレビでも観ててよ。あ、冷蔵庫のアイス、勝手に食べていいからね」
リョウが脱衣所へと消え、パタンと扉が閉まる。
一人残されたリビングは、さっきまで隣で笑っていたリョウの体温が消えただけで、急に持て余すほど広く感じられた。
リョウが言おうとした言葉の続き。もし、それを本当に口にされていたら、俺はどんな顔をして、どんな声を返していただろう。
俺は深くソファに沈み込み、熱を持った顔を両手で覆った。
遠くから聞こえ始めた水音だけが、今の俺とリョウを繋ぐ唯一の糸のように思えて、俺は無意識にその音へ耳を澄ませていた。
数十分後、浴室の扉が開く音が聞こえた。
「ユイト、お待たせ。温まったよ」
リビングに戻ってきたリョウは、湯気に包まれ、少しだけ上気した顔をしていた。濡れた髪をタオルで拭きながら笑う姿は、さっきまでの「大人びた」印象を少しだけ削ぎ落とし、等身大の少年のように見える。
交代で風呂場へ向かう。脱衣所に一歩入ると、そこにはリョウが使ったばかりの石鹸の香りと、湿った熱気が残っていた。
俺は中学時代のジャージを棚に置き、浴室の床を踏み締める。
シャワーの音だけが響く密室内で、ふと考えてしまった。
『じゃあ、一緒に──』
この言葉の先を言えなかった、理由。
リョウの身体には、俺には想像もできないような、あの『影』との戦いで刻まれた傷跡がいくつもあるはずだ。彼はそれを、俺に見せたくなかったのではないか。
俺に余計な心配をさせないために。俺という日常を、あいつの非日常で汚さないために。
そう思った瞬間、心臓の奥が焼けつくように痛んだ。
俺はただ、あいつの隣にいたいと思っているだけなのに。あいつは一人でその痛みも傷も抱え込み、俺の前ではあんなに屈託なく笑ってみせる。
その優しさが、その孤独が、どうしようもなく苦しくて、視界が急激に滲んだ。
「──馬鹿じゃん、俺……」
あいつを守りたいなんて、どの口が言えたんだ。結局俺は、こうしてお湯の音に隠れて泣くことしかできない。
その時、脱衣所の方から控えめなノックの音がした。
「ユイトー?」
リョウの声だ。俺は心臓が止まるかと思い、慌てて顔を拭った。
「な、なんだよ……っ」
必死に抑えたつもりだったが、声は隠しようもなく震えていた。
「どうしたの? もしかして、泣いてる?」
リョウの声に、焦りと心配が混ざる。俺はこれ以上あいつを不安にさせたくなくて、無理やり声を張り上げた。
「泡が、目に入っただけ……」
情けない言い訳。けれど、今の俺にはこれが精一杯だった。
扉の向こうで、リョウが少しだけ黙り込む気配がした。すべてを見透かしているような、けれどあえて踏み込まないような、そんな静寂。
「そっか。……タオル、ここに置いとくからね」
リョウの声は、いつものように穏やかで温かかった。
パタパタと、廊下を歩く足音が次第に遠のいていく。
あいつはきっと、俺が嘘をついていることに気づいている。
それでも何も言わず、ただタオルを置いて去っていくその優しさが、今の俺にはたまらなく温かくて、残酷だった。
湯気で火照った体のまま、リョウが置いていったタオルで適当に髪を拭い、中学時代のジャージに袖を通す。
鏡に映る自分の目は少し赤かったが、風呂の熱気のせいだと言い張れば通じるはずだ。そう自分に言い聞かせ、俺は意を決して脱衣所の扉を開けた。
その瞬間だった。
「わ……っ!?」
廊下に出た途端、正面から柔らかな体温がぶつかってきた。
勢いそのままに、リョウの両腕が俺の背中に回される。不意打ちの抱擁に、心臓が跳ね上がるのを通り越して一瞬止まった。
「リョウ……?」
困惑して名を呼ぶが、リョウは俺の肩口に顔を埋めたまま、力を緩めようとしない。
鼻腔をくすぐったのは、彼がさっきまで使っていた石鹸の清潔な香りと、その奥に潜む、リョウ自身の体温が混じり合った微かな匂い。それは、戦場での火薬や鉄の臭いとは無縁の、ただの「高校生のリョウ」が発する、ひどく穏やかで優しい香りだった。
「ごめん。一緒にお風呂入れなくて」
耳元で、少しだけ湿り気を帯びたリョウの声が響く。
やっぱり、気づかれていた。
俺が風呂場で泣いていたことも、その理由があいつの「傷」にあることも。
抱きしめられる腕を通じて、リョウの鼓動が伝わってくる。その早鐘のようなリズムは、彼もまた、俺に隠し事をしていることに痛みを感じている証拠のように思えた。
「……別に。気にしてない」
俺は少しだけ躊躇した後、ぎこちなくリョウの背中に手を添えた。
ジャージ越しに伝わる彼の温もりを確かめるように。
「見せたくないものの一つや二つ、誰だってあるだろ。俺だって、このボロいジャージ姿、あんまり凝視されたくないし」
精一杯の冗談を口にすると、リョウの体が小さく震えた。
泣いているのか、それとも笑っているのか。
しばらくして、彼はゆっくりと俺を解放し、少しだけ潤んだ瞳で俺を見上げた。
「ユイトは、本当にずるいなぁ」
そう言って笑うリョウの顔は、やっぱりどこか寂しげで、けれど、さっきリビングで見た時よりもずっと近くに感じられた。
触れてはいけないと思っていた距離は、いつの間にか当たり前になっていた。
この温もりが続く保証なんて、どこにもない。
それでも今夜だけは、離れたくないと思ってしまった。




