十四話 晩餐
ぐぅ、と。リョウの腹の虫が、緊張感の解けた空気に間の抜けた音を鳴らす。
「あはは。……身体は正直だね。ご飯にしようか」
リョウは照れくさそうにお腹をさすりながら立ち上がった。その拍子に、ポケットから飛び出したスマホに付けられたあのレザーストラップが、ゆらりと揺れる。
──いらなきゃ捨てて。なんて、あんなに突き放すようにして渡したのに。
安物のレザーストラップが、リョウの愛用のスマホと並んでそこにある。それを日常の中で「使ってくれている」というあまりに質素で鮮烈な事実に、喉の奥が熱くなり、胸がぎゅっと締め付けられる。
込み上げる感情が言葉を遮って、俺は逃げるように視線を逸らした。
「……手伝う」
震えそうな声を、精一杯の無愛想さで上書きする。
ストラップを大切にしているリョウに気づかないふりをした。
「いいよ、座ってて。作り置きしてあるから、温めるだけだし」
リョウはそう言ってキッチンへと向かった。
俺は言われた通りソファに座っていようとしたが、どうしても落ち着かなくて、結局リョウの後を追うようにカウンター越しにキッチンを覗き込んだ。
そこは、リビングと同じく無機質で整然としていた。けれど、冷蔵庫の扉に貼られた数枚のメモ書きや、使い込まれた風のフライパンが、ここがただの展示場ではなく、誰かが日々を繋ぐための「生活の場」であることを辛うじて主張している。
シンクの脇に置かれた包丁は、刃先を奥へ向けて整然と並び、傍らの布巾は角をきっちりと合わせて畳まれている。その細部まで行き届いた管理と、淀みのない無駄を削ぎ落としたリョウの動きには、積み重ねられてきた確かな「慣れ」が宿っていた。
──大人みたいだ。
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
母親の作った料理を当たり前のように食べている自分と、一人で台所に立ち、己の生活を規律正しく律しているリョウ。同じ制服を着ているはずなのに、彼だけがずっと遠い、別の次元で生きているような錯覚に陥る。その完成された手つきが、今の俺には埋めようのない距離のように感じられて、胸の奥がわずかに疼いた。
リョウは慣れた手つきで冷蔵庫から耐熱容器を取り出し、レンジへと放り込んでいく。
迷いのない動作。皿を並べる音。
そのどれもが、一人でこの大きな家を守ってきた時間の長さを物語っているようで、俺は胸の奥がチリリと焼けるような感覚に陥った。
「……これ、リョウが作ったの?」
並べられたのは、鶏肉と根菜の煮物に、彩りの良い和え物。それから、出汁の香りがふわりと漂う汁物。どれもが「高校生の一人暮らし」にしては、あまりにも丁寧で、しっかりとした献立だった。
「まぁね。暇な時にまとめて作っておくんだ。戦いに行かなきゃいけない夜は、帰ってきてから作る気力なんて残ってないし……。かと言って、コンビニ飯ばかりだと、身体が資本の『ヒーロー』としては失格でしょ?」
リョウは冗談めかして言ったが、その言葉の裏には、いつ訪れるかわからない『影』との戦いに備え、一人で自分を律し続けてきた孤独な覚悟が透けて見えた。
俺の家の、あの母親の過剰なまでのコロッケとは対極にある、静かで、強く、どこか寂しい料理。
「ほら、冷めないうちに食べよ」
リョウがダイニングテーブルに料理を並べ終える。
俺たちは向かい合って座り、自然と背筋を伸ばした。
「いただきます」
声を合わせ、俺はまず煮物の一片を口に運んだ。
じっくりと味が染み込んだ鶏肉が、口の中で解けていく。レンコンの歯ごたえと、里芋のねっとりとした甘み。それは、ファミレスの濃い味とも、母さんの押し付けがましい味とも違う。
リョウそのもののような、優しくて、どこか凛とした味がした。
「……美味しい」
思わず、独り言のように零れた。
本当はもっと気の利いた感想を言いたかった。けれど、口の中に広がる温かさが、張り詰めていた俺の心をあっさりと解かしてしまったのだ。
「……ほんとに、美味しい。リョウ、お前……凄すぎるだろ」
顔を上げると、そこには目を丸くして俺を見つめるリョウがいた。
俺は自分が思っていた以上に目を輝かせていたらしく、それに気づいて途端に気恥ずかしくなる。
「……そんなに? 良かった。口に合わなかったらどうしようかと思ってたんだ」
リョウはそう言うと、ふっと憑き物が落ちたような、柔らかい笑みを浮かべた。
自分の居場所に、自分を受け入れてくれる誰かがいる。その奇跡を噛み締めているような、心底嬉しそうな顔だった。
「いっぱい食べてね、ユイト。足りなかったら、まだ冷蔵庫にあるから」
「……おう。遠慮なくいただく」
リョウは満足そうに箸を動かし始めた。
外はもう、すっかり夜の帳が下りている。
この壁の向こう側には、まだあの『影』が潜んでいるかもしれないし、また戦いが待っているのかもしれない。
けれど、今この瞬間、オレンジ色の電球に照らされたダイニングテーブルの上だけは、何者にも侵されない絶対的な聖域だった。
リョウが一人で食べてきた、静かすぎる晩餐。
そこに俺という他者が加わったことで、このモダンで冷たい家が、初めて本当の「家」になったような気がした。




