19 つながってつらなって
眠っている時、ウレイアの意識は深く沈んでいるが、僅かに分かれた無意識の一部が身体の上でふわふわと浮かんで、細い一本の光の糸が深層の自分と繋がっている。
(あら?少し深く眠りすぎたかしら?そろそろトリィアと交代してあげないと………それで?何でこの子は私の顔を覗き込んでいるのかしら?それに…)
覚醒している時なら周辺監視と同じことだが、眠っている時、無意識はぼんやりと自分を見下ろしながら漂うように辺りをぼんやりと見守り続ける。
そして大体はその景色を覚えていることが多いのだが、たまに『光の糸』が届かないほど深く眠ることがあると、その記憶も深く沈んでしまって、あとから記憶の淵から引き揚げることは難しい。
ウレイアが目を開けると覗き込んでいるトリィアとすぐに目が合った。
「トリィア?なぜ私の顔を覗き込んでいるの?それと…外着を着せたのはあなた?」
「は…ああー…っ!」
トリィアは泣きそうな笑顔でウレイアに抱きついてきた。
「お姉様だーっ!よかったぁ…」
「な…?何事なの?」
もしかしてまた?ウレイアはそう思った。前回ほど恐々としてはいないが、トリィアのこの顔は見たばかりではないか?
しかし今回、ウレイア本人にはケールの夢を見た記憶が無い。
「なにが…あったの?」
自分の身に起きていることを尋ねなければならないなど、ウレイアにとっては不愉快で仕方がないのだが……
「ええと…お姉様、ケール様が…なり変わる?すり替わる…うーん?…幽霊なら『取り憑く』ですね…ケール様が取り憑いていた間の記憶はありますか?」
「いえもう今ので大体は解ったけどね…残念ながらまったく憶えがないわ」
「え?はぁー、じゃあ…」
トリィアは残念そうにため息を吐いた。
「それじゃあやはり…ケール様からの贈りものは無駄になってしまうかもしれませんね?」
「?、だからなんのこと?信じられないし、考えたくは無いけれど、私がケールになって、しかも外出まですることになった…大筋はそれでいいのかしら?それで?」
トリィアはウレイアの様子がおかしくなったところからなるべく事細かく、覚えていることを欠くことの無いよう話してくれた。
ちらりと窓の外を見上げれば、月の動きからしてウレイアが眠っていた3時間程の間、自分が一体何をしていたのかを………………云々。ウレイアは手を当てて自分の口をふさいだ。
「…信じられないわ。それに…正直に言って、おそろしいわね」
(お姉様…そうですよね、自分が消えて他人が体を動かしているなんて)
「それとトリィア?」
「はい?」
「いくら私の姿で名前も知っているケールが相手だったとしても、あまりにも無警戒に話しすぎではないの?」
(し、しまったぁー)
「名前はおろか、関係まで説明して、その上私の持ち技まで語るなんて……」
(うおっ!お姉様のお怒りパワーが上がっていくのが分かりますっ怖っ!)
「わわ、私も混乱してしまって…しかも相手があのケール様だと思うとつい逆らえなくて…あれ?でも大お姉様やお姉様に比べるとそれほど威圧感は無かったかな?でもケール様の技は本当に凄いんです。なにしろ前兆も何も感じなくて…」
はぐらかそうとしているトリィアをウレイアは一括した。
「ごまかすんじゃありませんっ!どんな状況でも流されてはダメでしょう?もし私がケールに乗っ取られて敵になったらどうするの?こんな嘘みたいな事も現実に起こっている以上、ケールが完全にこの体を奪うことも考えなければ……」
「す、すみませんでしたっ!……でも、お姉様が敵になってしまうなんて、そんな話はイヤです……考えたくもありません」
「!、トリィア…」
この話はいくら話しても平行線になるだろう、間違いなく。
(最悪で嫌な話しだけど、トリィアが私を殺せる方法も考えておかねばならないのか…?)
「ふう…違うわね?私が敵になるという話では無かったわね。いいトリィア?自分を冷静に保つには、自分を見つめるもうひとりの自分を作っておくことよ?そうすれば自分を他人の…様に……」
「お姉様?」
(普段はコントロールしているけれど、私の心はいつも分離している、することに慣れている………もしかしたらケールは彼女の記憶から私自身が創り出した亡霊なのかも…それとも、何か自分が納得できる説明を付けたいだけかしら?)
「お姉様、どうしたのですか?あの……本当にすいませんでした」
「トリィア、今の話は無しよ。忘れなさい」
(私は自分を客観的に理解しようと深層と表層に精神を分離するようにした。言わば2つの人格を作り上げてきたけれどエルセーとの違いがそこにあった?ケールの記憶がどちらかの…………違うわっ、根本的には深層が主人格なのだから単に擬似的な表層の私も深層の『かけら』にすぎない……)
「?」
表層のウレイアはあくまで擬似人格であって彼女は決して多重人格者では無い。時には自分を戒め、眠っている時には辺りを監視し、突発的な状況に流されないよう緩衝的人格として自身を守っている。
「とにかく今後は気を付けなさい?折角だからケールが見せた技を見てみたいわね……明るくなる前に連れて行ってくれる?」
「あ、はい。ケール様にもそのように言われました」
(なんか分からないけどうやむやになりました。ラッキーですっ)
トリィアはほっと胸を撫で下ろした。
町がしんと静かでまだ太陽が地平から顔を出す前、蒼暗い空の色のうちにと、2人は例の話の現場に向かっていた。
ところでウレイアが少し気がかりだったのはエキドナのことだ。空白となった3時間、トリィアに抜かりが無ければエキドナはこの近くを通っていないはずだが、それはもう確かめようもなかった。
「ここです、お姉様」
ちょうど太陽が登りはじめ計ったように光が地面を低く照らしていくと、草が刈られた場所がぽっかりと口を開けたまん丸の穴のように影となって浮かび上がってきた。それは明らかに異様で気味の悪い光景だった。
「あと、あちらにも…」
トリィアが指差した先にも大きな穴が『開いて』いた。
「月あかりだったのであれくらいの距離なんだと思います。ケール様は『目付け』と言っていましたので、目で見える範囲には届くんじゃないでしょうか?」
「まあ草を刈るには便利ね……あとはその切れ味………」
言い換えれば『切断能力』である。そして目の前の立木に目をやると、これも丁寧にトリィアが説明してくれたおかげだが、ウレイアのイメージ通りに不自然に枝が払われているのが分かる。
根本には切られた枝が当然落ちたままに残っている。その中でも気になったのは、やはり幹の先端だ。
「驚くほどキレイな切り口ね?」
指でなでると拾い上げた幹の先端の断面は研いだ様に滑らかで、これほど切れる刃物を想像できないほどの斬れ味だ。
「たとえ金属は切れないとしても、この太さの生木を切り落とせるのなら……それにこれが限界とは限らない」
改めて立木を見上げた時にはもう、その立木が首を落とされた憐れな人間にしか見えなくなっていた。そのままウレイアは枝先を見つめると、丸いヤイバをイメージしてみた。しかし
「ううむ、イメージが固まらないわね。実際に見ていたあなたの方が出来そうじゃない?」
「え?私がですか?それじゃあ…」
トリィアは下を向いた。草刈りの方が何となく分かりやすかった気がしていたからだ。
「うーん?うむむーん…おっ!なんか今草が動いたような気がしませんか?」
「そ、そう?まあ簡単にはいきそうに無いわね……」
ケールがウレイアの体で行ったことは、ウレイア自身にも出来るということの証明でもある。
それなら是非とも習得したいものだがその時の記憶は無い上に、耳で聞いたヒントだけを基に苦手な分野の技を組み立てなくてはならない。
そもそも組み立てようとするウレイアの発想そのものが遠回りに思えた。素直に、いや馬鹿みたいに信じることが出来れば簡単に覚えることができるかもしれないのに。
「どうせならこの前みたいに夢で使ってくれないかしら…?ケールとして」
「おお、なるほどっ」
ウレイアには曖昧なものを信じる心が足りていない…この手の技が苦手なのはそのせいだ。
「ふう…だめね。戻ってお茶でもいただきましょう」
「もう、よろしいのですか?」
「見るべきものは見たし、練習はどこでもできるもの」
できればこの技は習得して、門外不出、一子相伝にしたいほど、彼女達にとっては危険な技だ。
(あの太さの生木を切断するなんて…しかも10メートル以上の攻撃範囲、もしあそこに敵の一団がいたら……)
しかも目の届く範囲の首を何の予兆も無く落とせるとなれば、常に鎧を着こんでいるくらいしか手立てが無い。今まさに問題になっているテーミスの首も、気づかれることもなくストンと落とせるかもしれないのだ。
しかしこのワザをじっくりと研究している暇は無い、とにかく今は、時間が欲しい。
24時間前……モーブレイ。
裏通りの安宿でひとりの女がベッドから起き上がると、裸のまま宿の浴場まで行き、大きな樽に張られた冷たい水に迷うことなく足から身を沈める。
「くぅー…つめってぇー」
樽には川から引いた綺麗な水をかけ流しているが、本来ならバスタブのように体を浸すような使い方はしない。してはいけないし、ましてや氷のように冷たい川の清流に身を沈めようなどとは誰も思うわけが無い。
そしてまた、ひたひたと水が垂れるがまま部屋に戻ると、たっぷりと香油を擦り込んで冷え切った肌をいたわった。
「いい眺めだが…」
陽の薄明かりに照らされている美しいエキドナをにやにやと眺めていたのは、まあ当然ながらパーソンズ上級尉官だった。
「ふん、眼福だろう?」
「ああ、だが、こんな時期、こんな時間に水浴びとは…まともじゃあ無いな」
エキドナは小悪ににやりと笑うと、
「気持ちいいぞぉ、心臓がきゅっとなってな。試してみろよ?」
「死ぬからやだ」
「ああーん?オレを抱きたきゃいつ何時でも身も心も共に一片のシミも無くキレイにしておけよっ?じゃなけりゃ蹴り飛ばすぞ?」
「おお、だから俺は毎日共同浴場に行くさ…」
「軟弱ぅー」
エキドナは次々と服を着込みながらパーソンズをせせら笑っている。
「さてと…恥かきついでに、早々と何処かに行っちまいそうなお前を引き留めたいが…」
エキドナは着替える手をふと止める。
「そりゃ、ムリだろ……こんなカップルはそもそも成立しないが、それに今はちょっと忙しくてな」
「そう、か…」
あっさりと引き下がるその姿にエキドナはため息を吐いた。
「おいおい、物分かりがいいのか?覚悟が足りないのか?ホント男前じゃねーなー」
「?」
「そんな時はなー、とにかく抱きしめるとか、意地でも引き留めようとするとか、まあそれで嫌がる相手にしつこくしても、そりゃあ逆効果だけどな?」
止めていた手を上衣にかけた。
「……まあでも、それが正解だよ、オレ達が棲む世界とお前達が住む世界は…違いすぎるからな」
エキドナの目にはベッドに座っているパーソンズと自分の間に、普通の人間には越えることのできない深い谷が口を開けているのが見える。底が見えないほど深く、想像できないほど果てもなく続いている。
互いの顔を見合わせることはできても、互いの声は届かないし、互いの正真に触れ合うことは叶わない……
エキドナの顔にそんな現実が映ると、パーソンズが指を指して言った。
「そうそう、その顔だよ……!」
「あん?」
「お前のその、ひとりぼっちみたいな顔だよ。いや、それを嘆いてるわけじゃ無さそうだし、むしろ自恃を信条に置いているんだろうが…何か放っておけない気がしてな」
「ほおう?」
嬉しそうにエキドナが笑った。
「いや、大先輩に対して敬意が足りないかな?」
「まったくだ、でも情けの押し売りも悪くはないさ、相手によってはさ。ひひっ……」
人を喰ったように笑い声を残してエキドナはまた、消えた。
「勝手な生き物だ……」
パーソンズは引き留めようとしたその手で自分の頭を掻くしかなかった。
宿に戻ると、トリィアは棚に置かれた燭台にヒモを結んで垂らそうとしていた。
「えーと…きゅっきゅきゅー……」
「トリィア、的を吊り下げるならもっと高い所になさいな?」
「え?なぜですか?」
「なぜって…的を外すくらいなら良いけど、大きさを誤ったら自分の首を落としかねないんじゃない?」
「くびっ?」
びくっと両手で首を抑えると結びかけたヒモを思わず落としてしまった。
「い、いえーまさか、いきなりそんなことには…」
「本当?むしろあなたのことだから部屋ごと私達も真っ二つにしそうなんだけど?」
「えー?私がですかー?…………で、出来るでしょうか?」
ウレイアは真顔で頷いてから、笑顔で答えた。
「ええ、出来るわよ。あなたなら……」
トリィアはふるふると身震いしながら、たかぶるやる気を全て味わい尽くしてゴクリと飲み込む。
「よおしっトリィア頑張りますっ!」
「ええ、私も頑張るわ」
(でも、やっぱり苦手なのよね…私は少しやり方を変えないと)
見えないし、感じることもできないモノをイメージする。そんな無茶な課題をトリィアは諦めることなく繰り返し続ける。ぶら下がったヒモを見つめたり、部屋の中をうろうろしたり、ごろごろと寝転がったりしながらも、何度も何度も繰り返す。
その姿をウレイアは満足気に眺めながら、エキドナのことも逃さぬように監視を続けていた。
互いに続けているうちには陽も落ちて、疲れたトリィアは眉間にシワを作ったまま寝落ちしてしまったようだ。
「よく頑張ったわね」
着替えもせずに眠っているトリィアを撫でると、にへらと笑って眉間のシワものびた。
「くす…」
(いっそのこと、このまま何もせずに遠くの地へ移ってしまえば…しばらくは安全に暮らせるかもしれないし、トリィアがもっと強くなる時間を得られるかもしれない。1年、いや2年費やして全てを投げ打てば、国を相手取っても負けないほどの準備もできる。でも…それが精一杯……)
おそらくエルセーを説得することも出来ないし、後ろ盾も無い彼女達が籠城するような戦い方をすれば、いずれは追い詰められる結果になる。だからこそ時間をかけて闇に葬るやり方を好んで選択してきたのだが…
(エルセー、私も同じです。私達の脅威になるなら尚のこと排除せずにはいられない。この子のためにも…)
この夜も苦労は報われず、エキドナを見つけることができなかった。読み間違えたのか、うまくすり抜けられてしまったのか?
(ふぅ…エキドナ……どうやら考えを改める必要があるわね?)
ウレイアは窓から遠くを見た。
「おはようございます、お姉さまー……すいません」
「んん?なにが?」
目を覚ましたトリィアが体を起こすなり申し訳なさそうな顔をしている。
「一晩中眠ってしまうなんて…」
「随分頑張っていたものね、お腹も空いたんじゃない?」
鼻を一回すんとすすると、毛布を体に巻いてウレイアの隣に座った。
「うーん、そうですねー…お姉様は?」
「少しね、何か食べに行きましょうか?」
トリィアは体を寄せて巻いていた毛布を一緒に巻きつけると、ウレイアにもたれた。
「エキドナさんは来ないのでしょうか?」
「来ると思っていたけれど…もしかしたらもう…上手いこと抜けられちゃったかもね?もう1日待ってもいいけれど、そろそろエルセーも進捗が気になっているんじゃないかしら?」
「それじゃあ、やはりボーデヨールへ?あ、いえ、待ってください……もしかして、身支度をしておいた方が良いですか?」
「ふふふ、エルセーのことが分かってきたみたいね?」
せっかちなエルセーなら多分、今頃は馬車でこちらに向かっているだろう。とりあえず、今日はエキドナを警戒しながらエルセーを待つ。
「早い店ならもう空いているでしょう。もしかしたらその頃にはエルセーも来るかもね」
まずは消費したエネルギーを補充することにした。
ちょうどその頃、カッシミウのウレイアの家では、セレーネがドアの前でウレイア達の気配が無いのを確認すると、クルグスの方角の空を見上げていた。
(お師さま…姉さん、会いたいなぁ…)
大きくは無いこの町でも、早朝の客を目当てに早々から営業しているパブが一軒はあるものだ。トリィアは朝食を前にして、ふいにカッシミウを遠く見た。
「どうしたの?トリィア」
「いえ、セレーネはどうしてるかなーと」
「メイドでしょ?」
素っ気ないウレイアの言葉に、
「お姉様…まあ、それはそうですけど…」
「目立たないようには言っておいたし、たくさんの課題も置いてきたから、あの子はあの子なりに頑張っているでしょう?」
「一緒に来たがってましたねー」
セレーネのいじらしくもぐっと耐えていた顔が思い出されると、トリィアは切ない表情を浮かべた。
「そばで見せてあげるべきだけど、あの子にはまだ早すぎるわ。でも、心が共にあれば、それでいいんじゃない?」
「ううん…それでも、もやもやしますねー」
「ふふ、どちらの気持ちも分かるでしょう?今のあなたなら」
「分かるだけに…もやもやしてますー」
「そう、もやもやしてちょうだい、トリィア姉さん。それよりも…」
ウレイアにはエルセーの行動は自分のことのように分かる、解ってしまう。
今も時間のズレもなく町に向かって来る見慣れた馬車と手綱を預かるリードの姿が確認できた。そしてウレイアの監視目線からトリィアもエルセーを見つけたようだ。
「おお、いらっしゃいましたね?さすがお姉様、大お姉様の行動予測は漁師さんのお天気予想よりも正確ですね?でも、私の『お姉様予報』も負けてませんよ?」
「くす、そうでしょうね、以心伝心…とでも言うのかしら?」
「そうですよ、私達はいつでも繋がっているんですよ、お姉様っ?そしてエルセー様、お姉様、わたし、セレーネと連なっているんです、一本の絆で。今も何となくセレーネに呼ばれた気がして…」
そう言うと、トリィアはカッシミウの方へ振り返った。
「エルセーも来たことだし、ここでは人の目があるから食べたら宿に戻りましょうか?」
「はーい」
トリィアは食べかけていた朝食を片付けると、店から茶葉を少しとお菓子をたくさん仕入れ、さらに宿からはお湯をもらうと、エルセーを迎える支度が出来上がった。
「私達って本当便利ですよねー?」
「そう、なのかしらね?もう忘れたわ。『急』なことで本当に驚くことはあまり無いものね。でも、それに慣れてしまってはダメよ?」
逆に突然の対処には弱くなりがちなので、常に奇襲などを意識していることが大切になる。身体の硬直や思考の停止も防衛反応ではあるが、敵の攻撃に対しては無力を晒すことなるからだ。
「2人ともお疲れ、エキドナちゃんは捕まえたぁ?」
「うっ」
「えう…」
しかし、この師のプレッシャーは大概は突然である。
「すいません…私の読みが甘かったのか、上手くかわされたのか…」
言い訳の余地は無いと素直にウレイアが謝罪する姿を見せると
「じょっ、冗談よ、冗談。何も連絡が無かったから当然そうだと思っていたし、まだまだ勝負はこれからでしょう?ねえ……」
「あのう、とりあえずお茶をご用意しましたので…」
「まぁまぁ、ありがとうトリィア」
少し気まずくなったのか微妙に視線をそらしながらお茶をすするエルセーに報告することと言えば、ケールの亡霊のことくらいだった。
これに関してはやはりトリィアが、ウレイアにしたように丁寧にエルセーに説明したが、今回はエルセーにも少し衝撃的な内容だった。特にエルセーの師、オネイロの話は。
「あ…」
ケールの亡霊に『会いたい』…エルセーは思わず口に出してしまいそうになるのを自制した。
「そ、そう…お母様が…」
「エルセー…」
「それじゃあ、お母様もこの地を踏んだのね…ならば更に西へ旅立ったのかしら…?」
「ケール様はそこまでは話してくださいませんでした」
トリィアは静かに答えた。
「ああ、ごめんなさいねぇ、トリィアはこの話は聞いていなかったのでしょう?レイにも詳しくは話さなかったし…でも、あの後の話が聞けて嬉しいわ。ありがとうね、トリィア」
「いえ、私が冷静だったらもっとお話を聞けたと思うんですが……」
「いいのよ。…でも驚いたわ、そこまで完全なケールがレイの中に居るなんて。おまけに守護を買って出るなんてねぇ。それは私が死んだ後の役割りなんだけど……」
ウレイアは眉を少し持ち上げるとくすっと笑った。
「私の背中は騒がしくなるばかりなのですね?」
「そうよぉ、だから今のうちに優しくしておきなさい?」
「ふう…分かりました…まあ、目下の守護霊であるケール様もそのうちにまた出て来るような気がします。その時にエルセーがそばに居たら色々と聞いてみてください。なにしろ、ケールの記憶は私にも自由にできないようなので」
もしくは、問題ではあるがせめてウレイアが眠ると必ず顔を出してくれるなら分かりやすいのだが…
「そ、そう?じゃあ、はいっ!すぐに眠ってっ!」
また始まった…。
「は?いえ、それは無茶が過ぎます……でも、そういえば、ケールが登場する前に感じたのは軽い無気力感でしょうか?」
「あらそう、今はどうなの?けっこうやる気が無い感じじゃ無いの?どう?」
「いえ、あの…意地でも眠らせようとしないで下さい。確かに少し疲れてはいますが」
ウレイアとトリィアの間にぐいぐいとエルセーが割って入って来る。
「ほらっ、じゃあ、はいはい、私の膝を貸すからちょっと横になって」
ウレイアの腰が浮きそうになると、トリィアがくっくっと笑いを堪えている。
ウレイアはおもはゆい思いで体制を立て直すと、
「ですから急におっしゃられても…うっ」
そんなウレイアの抵抗もエルセーに強引に引き倒され、さあ眠れ…すぐ眠れ…そんな命令がエルセーの目から聴こえてくる。
「む…」
「む?」
「無理です」
「んまあっ、それはあなたが私にまで心を閉じているからでしょう?さあ、心の壁を取り払って、私の言葉を受け入れなさいっ!」
「エルセー?そう言う問題では無い、こともご存知の上ですよね?」
相手の『言葉』を防ぐのは自分の『力』の塁壁であって、本人の意思で加減はできても取り除くようにできるものではないのだ。
「もう、いいじゃないの!コミュニケーションなんだから。なんでこんなにノリの悪い子に育ってしまったのかしら?この私が育てたというのに…」
大げさに嘆くフリをするエルセーに追い討ちをかける。
「だからじゃないですか?」
「ま!この子は本当に小憎たらしいったらっ、もう末代まで付きまとってあげますよっ!!」
膝枕に乗せられたままグニグニとウレイアの顔が捏ねくり回される。膝の上は逃れようの無いエルセー必中の射程範囲である。
そしてトリィアはさっきからくすくすとこの滑稽劇を楽しんでいるようだが
(甘いわね、トリィア……)
必ず自分の身の上の大変さを思い知ることになるとウレイアは心の中でほくそ笑んだ。
「トリィアちゃん?」
びくっ。
「は、はぇ?」
トリィアは顔をがしっとエルセーに鷲づかみにされると、
「何を他人事のように笑っているのかしら?末代までと言ったでしょう、レイの次はあなたよ!」
「えー?な、にゃんれ、いつもわらひまれ……あう……うにゅ…………これは…よほういじょ、に…………」
『パン屋の刑』がトリィアに移ったところで、ウレイアは素早く体を起こして顔をさすって整えた。
たっぷりと丁寧にこねられたトリィアの顔はふっくらと仕上がって…じつに痛々しい。
「はぁ、はぁ、ちょっと悪ふざけが過ぎましたね…」
「こ、これ…ほどのダメージで悪ふざけなんて…パン屋の刑を侮っていました…か、顔の感覚が…これが本家のパン屋なんですね?でもちょっと癖になるかも…?」
エルセーのスキンシップをものともしないとはトリィアも大したもの、いや、エルセーと趣味が合うだけなのだろうか?ウレイアも嫌…ではないが、こねられている間はただ無心である。
「まあまあまあ、お遊びはこれくらいにしましょう。ケールの件も…また今度にしましょう。それでこの後のことはもう決めているの?」
トリィアのおかげでウレイアも大分助かった。パン屋が仕事を終えたところで、改まって作戦会議が始まった。
「エキドナが様子を伺いに来るのは間違いないと思います。ただ私が思っていた以上に慎重でもっと日を置いてから来るつもりなのか、それとも既に上手いこと抜かれてしまったのか?まあ、他にも可能性はあったのですが……」
「それで?」
「手紙に書かれていたのはボーデヨールの教会ですよね?」
「ええ、そうよ」
「その後も、テーミスの存在を感じるようなこと、あるいは所在を匂わす情報なども無かったのですね?」
「ええ、そうよ」
「…………」
もちろんエルセーは誰かの記憶に残るような目立つ情報収集をすることはないだろう、しかしエルセーの能力と大商人であるマリエスタの情報網に掛からないというのは、実はかなり異常なことである。
これは教会が今までとは異なる筋書きで、故意にテーミスの所在はおろか存在までも隠してきたということだ。
ウレイアにはそれがひどく気持ちが悪かった。
「明日は予定通りにボーデヨールに入って…まずは街を下見したいと思います」
「そう、分かりました。でも気をつけてね…?ボーデヨールは言わばテーミスの懐中になるわよ?」
「まだ無理をするつもりはありませんから。でもその前にエルセー、できれば今夜は一緒にいていただけませんか?」
「え…………?」
エルセーは唖然としたままついトリィアを見た。
そのトリィアはつまんだティーカップを見つめたままぴくりとも動かない。
「え?な、何ですかレイ、何もトリィアの前でそんなこと…」
トリィアは固まった表情のままゆっくりとウレイアを見た。
「?!、まったくっ…なぜ2人ともすぐにそういう勘違いをするのですかっ?…このところケールの一件もあって私もトリィアも良く休めていないのです。ですから今夜は変わっていただけないかと…。こんなことを頼めるのはエルセー様しかおりませんし、なによりも安心して休めるので」
エルセーは露骨に残念な顔を見せると、
「あらそう、そうよね……ええ、良いですよ、もっともあなたの寝顔を見て何をするか自分でも分からないけど…?」
「おおーねえ様…私は今、一瞬死にました…」
どうせならこの2人はもう一度死んで、少し真人間に生まれ変わってほしいものだ。
「まあ…私の言い方にも問題があったなら謝ります。でもエルセー、もしかしたらケールに会えるかもしれませんよ?」
「あっ、まあ……それはそれで興味はあることだけどねぇ…分かったわ、あなた達の寝顔を愛でながら見張り番をしましょう。では不審なものを見つけたらレイを起こすということで良いのかしら?」
「はい、ありがとうございます。あなたの側なら安心です」
「ふふ、本当に子憎たらしい子ねぇ」
夜になってしまえば人の往来もほとんど無くなり、エキドナを知らないエルセーでも怪しい動きをするモノがあればすぐに判別できる。
ウレイアがエルセーに言った言葉はお世辞などでは無くて、おかげで安心して眠りに着くことができた。
そしてエルセーは自分の言葉通りに、暗い部屋の中で時折り2人の寝顔を見下ろしては、薄らと微笑んでその瞬間を慈しんでいるようだった。
「眠れないの?トリィア」
そう囁かれると、トリィアはふっと目を開けた。
「ううん…大お姉様に見張りをさせておいて自分が寝るというのはちょっと……」
そのまま起き上がると、話し声を気にしてそっとソファーへ移動した。そんなトリィアを見てエルセーは
「大丈夫よ、この子は寝ると言ったら横で何をしていても寝ている子だから」
「確かにそうですねー、頬をつねっても起きませんよねー?」
2人はウレイアの寝姿を確認した。
「でも今もあの辺で私達を見ているのね?」
エルセーはウレイアの上をくるくると指差す。
「もしかしてっ大お姉様には見えるのですか?」
「まさか、私も話に聞いただけよ。それにしても、レイは本当に個性的な子よねぇ…?」
「ぷぷ、そうなんです。なのに自分では無個性だと思っているんですよね?」
「そうそう、優秀だけど問題児、無慈悲を装って実は誰よりも優しくて…見ていてとても危うくて、色んな意味で飽きさせない子ねえ……」
「くすくす、あ…でもまさか、会話まで聞かれてはいないですよね?」
あらためて2人はウレイアを見る。
「あり得るわねっ、変なことを言うとあ後が怖いわ」
お互いの顔を見合わせてウレイアのことをくすくすと笑っている。
「私達の人生が幸せなのかは分からないけど、還って来なければこの子にも逢えなかったものねえ?なら自分の運命にも感謝するべきかしら?」
「はい、私も……両親の死は別ですが、お姉様に出会えたことは本当に幸運だったと思います。でも、お姉様は何か要らぬ気を私に使っているようで…」
「そうねえ、レイはあなたの意思を確かめずに拐うように連れ帰ったことを気にはしていたけれど、それだけでは無いでしょう。やはりあなたはレイにとってそれだけ特別な存在なのではなくて?まあっ妬けること」
「いえーへへへぇ、なら良いんですけど……でもですよ?だとすればどう特別なんでしょうか?」
首を傾げてエルセーに答えを求めてみたが、同じ様に首を傾げて返されるだけだった。
「自分の胸の内を人にはぶつけない子だものねえ、この子の本心…覗いてみたいわねぇ?」
悪魔がウレイアを見つめている。近づいてきて顔をにやりと覗き込んでいる。そして顔を耳に近づけると、低い声で囁き始めた。
「眠ったままお聴きなさい。お前は私の言葉には逆らえない…真実のみを語りなさい…」
ところが寝ているウレイアから返事が返ってくる。
「……もとより、基本的にあなたの言葉には逆らわないではないですか。何ですか?これは何かの試験ですか?」
囁かれた時点で目の覚めていたウレイアは意味不明な命令に目を開けた。今まで寝ていた筈なのに完全な覚醒状態で。
「大体、エルセーの言葉に従ってきた私に、そんな命令をしたところで何の効果があると言うのですか?」
「あらー?もしかしてずっと聞いていたの?」
「いいえ、囁かれた時に目が覚めました」
「まあっ……だとすればちょっとショックだわぁ、『眠ったままで』と言ったのに効果は無かったということだもの」
「あ、いえ無意識に私が『抵抗』したということです……トリィアもいつの間に起きたの?ちゃんと眠っておきなさい」
軽く落ち込んだエルセーを無視して、ウレイアは目を閉じるとそのまま、それはもう一瞬で寝直した。
「ぷっ、本当に面白い子ね。それにしても隙がないわねぇ?まったく…」
「い、いいえ!私は驚きましたっ……思えば私が起きたことに気が付かない筈がないんですっ。きっと大お姉様が側にいるから…安心して眠っていたんですね?本当に。こんなお姉様は初めて見ました……っ」
驚いているトリィアを見て、エルセーは嬉しそうにウレイアを何度か優しく撫でた。
「そう…なら、ゆっくりお休みなさい」
「おお!お姉様のお顔が幼く見えますよ、くすくすー」
またウレイアのことをダシにして2人で盛り上がっている。
「ほらほら、今度起こしたら怒られますよ?あなたもお休みなさい」
「はい…では、お言葉に甘えます。お休みなさい、大お姉様」
トリィアはエルセーの頰にキスをすると、ベッドに潜り込んだ。
ウレイアはエルセーに見守られながら、子供の頃の様に眠っていた。