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御姉妹  作者: セキド ワク
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十五話  帰宅



「そろそろ皆さん帰ってきそうですね。それより、恵様のことは本当に伝えなくていいんですか? あとで知られたら怒られませんかね」

「怒られるかじゃなく、知られないようにしないとダメだろうが。恵様本人が絶対に知られたくないからって念を押しているわけだ。こっちとしてはこれ以上深入りできないよ。これがお嬢様達のことなら、たとえ誰の頼みであっても拒否するけど、恵様自身のお体のことじゃ、言えないだろ? 医者もそうだけど守秘義務とかあるだろ」


 美輪家の駐車場に立つ建物、そこで主人の帰りを待つそれらは話し込んでいた。


「更年期障害ってそんなにひどいンですか?」

「人によるらしい。医者いわく、恵様はまだ軽い方だと言ってた。漢方薬で様子を見るらしいけど……、早く安定されるといいが」

 コーヒーを飲みながら恵の心配をする。


「恵様って、いくつでしたっけ? 五十歳くらいですか?」

「バカ。和頼さんが四十歳だぞ。五十五歳くらいじゃないか」

「茜様は?」

「六十? いやそんなにはいっていないか……」

 恵は六十歳。茜は六十四歳だ。

 二人共に実年齢よりは遥かに若く見られているようだ。しかし、見た目とは関係なく、体の老いは確実にくる。二人共にバリバリと仕事をしているから、これでもまだ激しい衰えなどがないだけで、それでも人は老いていく。



「話は変わりますけど。あのバカ烏共は、いつになったら恨みを忘れるんでしょうかね。それさえなければ相当過ごしやすくなるのに」

「あ~、ありゃもう無理だ。どうしても嫌なら、和頼さんにお願いして対策を練って貰うか、自分達で決着をつけるか、専門家に頼んで駆除してもらうかだな」

「自分達では無理でしょう」

「無理って、それじゃ星丘さんは? あの人はその無理を打開して、自ら決着つけただろ」

 そこに居る皆が腕組みして考える。そしてまた「無理」と笑う。


「星丘さんも和頼さんもヤバイ人だから、烏もそこのトコは分かるんだろうな」

「ちょっと待って下さいよ銀錠さん。星丘さんは分かりますけど、和頼さんはヤバくはないでしょう。優しいし、頼りになるし、絶対に怒らないし」

 皆が頷く。しかし銀錠は首を横に振る。コーヒーを一口飲み、また首を振る。


「それじゃ、和頼さんが怒った所を見たことありますか?」

「ないない、怒らないジャン絶対」

「あるよ。お前等がこの会社に入るずっと前の話だけどな。和頼さんは、お前等が考えているような普通の人じゃないから。あの方は底知れないし、計れる物差しがないよ」

 銀錠の台詞に皆が首を傾げる。いつまで経っても疑う。


「分かったよ。それじゃちょっとだけ話してやるよ。前にな――」

 そういうと、美輪家が悪い組織に狙われた時の話をし出した。

 まだ美輪家専属の警備担当が星丘と銀錠しかいなかった頃の話だ。




 大金を要求され、さもなくば子供達を傷つけると恐喝された。

 どこにでもある手口。


 人を傷つけ殺すこともなんとも思わないような連中で、相手が老人であろうと、女、子供であろうと、金になるならとことん追い詰める。

 騙し、脅し取った後に、相手がどうなろうが知ったことじゃない。


 まだ幼かった子供達を安全な場所へと避難させ、そこを星丘が守る。そして和頼と銀錠は相手の親玉へと対峙することとなった。

 そこで和頼は相手にいう。

「百億。まず手始めにお前等を皆殺しにする為にそれだけ用意した」と。

 その言葉に初め誰も意味が分からなかった。だが、徐々に状況を把握していく。


「お前等の家族も全て残らず皆殺しだ。お前等もそうするだろ? だから俺もそうする。つまりこの勝負は最低でも引き分けだ。お前等に俺を()れるならな」

 そう言って子供みたいにケタケタと笑った。嘘の笑いじゃなく、変人の笑いでもなく、本当に可笑しなことで笑う子供のように。


 その場にいる者達が、どんなにハッタリをかまそうがそれ以上の展開はない。

 あるのは和頼ただ一人を殺して、一銭も得ることなく自分達の全ての繋がりが、跡形もなくこの世から消えゆくだけという選択。

 しかも残酷に殺される運命。


 本来、そういった裏世界で生きる者達や組織は、決して口で負けたり、脅しには屈しない。逆に、口が上手い。

 気が付かぬ間に、自分達に有利な方へと持っていき、話を進める。

 相手の話を聞いているフリをしながら、話をねじ曲げ「つまりこういうことか」と言いながら言葉をチョイスしあらぬ方へとまとめていく。

 更に、話の中から弱点を探り、徹底的にそこを攻める。


 抗争の落としどころは元から、とんでもない大金や利権、相手の失墜。

 そんな世界のヤバイ組織相手に、和頼は向き合った。

 ハッタリではなく、和頼は完全に命のやり取りと、ありえないほどの大金を賭けた大喧嘩をしかけていたのである。それも最初のワンパンが百億、そこからどこまで賭け金がつりあがるかは見当もつかない。


 そして相手はいう「負けたよ。今回の事はなかったことにしてくれないか」と。それなりの責任は取るから勘弁してくれと。


 それに対し、和頼は首を横に振る。

「ダメだね。どうしても許して欲しくば、百一億円とお前の命を貰う」それが最低条件だとつきつけた。

 和頼にとって百億も相手の命も意味のないゴミ同然。

 だが、その条件は引かない。


 和頼(おれ)を殺して全滅しろと笑う。

 何も分からない者はそこで自棄(やけ)になるが、ケンカや抗争、そして裏の世界で生きてきた者なら、それがどういうことか直ぐに分かる。これがどういう状況か分からない者は、将棋を知らないのに、闇雲に(こま)を打つお馬鹿さんだ。

 その駒を取った時点で破滅。完全なる形勢。

 一万手先まで敗北の決まった格差、何かしようものなら地獄の連鎖が待つのみ。今ならまだこの現状で済む。二択で済む。

 もがけば別の組織まで巻き込むほどのアリ地獄。逃げ場などない。


 シンプルに、和頼の命の代償に皆殺しにされるのみ。実際、百一億を支払うのは無理、そして自分の命を投げ出す決断さえできない。

 目の前で和頼は、それを平気でしているというのに。

 すでに何もかもが劣っていた。


 和頼は、子供が無事な時点で勝ちなのだ。和頼にとっての王は子供達。そして、すべてを子供達に残し譲る、それが親としての運命で、何ら道を逸れていない。

 予定通りの道。

 なら……、弱点は子供達?

 だが、そこに居る者達は、和頼が子供達をどこまで愛しているのか定かでない。血の繋がりがある訳でもない。

 普通の親程度なら、身代金くらいは払いそうだといった認識。

 一体、何をどうすればいいのかさえ、答えが見えなくなっていた。



「た、助けてくれ。勘弁して下さい。バカだった」

 その瞬間、和頼は相手の顔面を思いっきり蹴り上げた。そして顎の骨が(きし)むほど踏みつける。それを周りの者達が発狂して止めに入るが、目の前で半泣きしながら詫びるそれに、皆の動きが止まる。

 大人の涙声にビビる。父親が泣いているのを子供が見たように。


「もう一回いう。許しはなしだ。百一億とお前の命で、他の命は助けてやる」

 一ミリも曲がらない。

 曲がり折れたのは、鬼、極悪で大物のそれの方だった。

 義父(それ)に対し、毎日お茶を運び、礼儀正しく尊敬してきた者達が和頼に怯える。

 目の前で泣いている義父(ボス)が、器の大きな者だと知っていればいるほど震える。

 この現実に後悔している。


 これが一対一なら命に代えても殺し合うだろう。逃げも隠れもしない。怖いとも思わないだろう。

 様々なケジメも痛みも越えてきた(やから)

 しかしこれはそういう類の物ではない。和頼を()るかどうかではなく、駒を取っても弾いても、もう全滅なのだ。一人残らず。自分が今日まで愛し、笑顔で話した全てが残酷に殺されて消える。そういう後悔の涙。


 割に合わない。和頼の小さな命一つでは。

 いくつもの修羅場を潜り抜け築き上げてきたモノ、それこそ血で血を洗うこともあったに違いない。それをこんな無意味に捨てる訳にはいかない。要らない。意味がない。張合いもない。そこに賭けるプライドもない。虚しい。利益が何もない。失策。


 全て失い、シマも利権もハイエナに横取りされる。


 今日まで勝ち抜いた勝者だからこそ、すぐに気付く。映画に出て来るような偽りではなく、人とのやり取りで勝ち残ってきた強者だからこそ気付く。頭が半端なくきれるのだ。

 だが、だからこそ、焦る。相手が、和頼が、魔物だと気付く。



 言葉無くなすすべなく、ただ和頼に詫びてすがる。それしかできない。

「それじゃあこうしよう。百一億は念書を書け。幹部数人の母印をきっちりと押してな。そしてお前の命は……貸しにしてやる。いつか美輪家の為に一度だけ動け。借りを返せ。期限は十年。もし音沙汰なくそれを過ぎれば自由だ。どうだ?」

 一瞬でそれを呑む。冷や汗のような涙を流し、それはホッと息をつき感謝する。

 普通なら、絶対に借りは作らない者達、借りは死ぬよりも災厄に繋がると知っているから、しかし、もう、とっくに最悪のギロチンが下されようとしていたから。


 そこに居る者達は、美輪家が、和頼がどういう者かをほんの少しだけ知った。


 全身を震わせた銀錠が、帰り際、和頼に問う「怖くないのですか?」と。

「怖くないよ」と笑った和頼。それ以外は何も言わない。


 怖くないとそう答えたのは、相手がというより、和頼にとって、人生はとっくの昔に終わっていると感じていたから。死ぬことに対してだ。いや、死に場所を、死に方を、本気で探していたことがある……。




「そんなおっかないことがあったんですか?」友居が身震いする。

「前にな。ただ、実際はこんな軽い話じゃないぞ。そうなるにはそれなりの話し合いや駆け引きもあったし、それなりに裏でも動いたから、そりゃ~ヤバかったよ」


 軽い雑談で話してすべての恐怖が伝わるはずはないが、それでも、普段まったく怒る気配もない和頼が、そんな怖いとは信じられないようだ。


「そういう団体というか怖い組織が、その後、報復とか何もなかったんですか?」

「ないよ。今の話聞いてなかったのか? なんでまた同じことを繰り返すンだよ。とっくに詰んでるだろ?」

 垣根はなるほどと分かっているが、友居と砂沼は分かっていないようだ。

 ギリギリのやり取りやハッタリではない、リアルがどういうモノか分からないのだ。そこにどんな駆け引きがあり、百億に欲を出す他の魍魎たちの存在を想像できないのだ。敵の敵は味方、もっと言えば世の中は敵ばかり。

 隙や弱みを見せれば、あっという間に食われる、特に裏社会は甘ちゃんでは生き抜けない。


 普通の者にはまるで解らない世界の話だ。


 頭で考えるのと、実際に押したら死ぬボタンを選択する違いが分からないのだ。しかも用意されたボタンは全て死。それも皆殺しの。誰がそれを押せる……。

 どんな国の独裁者でさえ押さない。長い歴史の中で、自分の死期が分かっても、自分と共に世界よ滅べと地球崩壊兵器のボタンを押した者などいない。

 どんな者でも後世に繋ぐ愛を知っているし、強者ほど思想は高い。

 バカではない。

 しかしそれが底辺の者なら、自分の死と同時に破滅のボタンを押せる者はいる。だから底辺なのだ。

 そういう弱者は必ず負ける。それも身内をも巻き込んでどこまでも堕ちていく。



「俺はさ、そういう組織とか良く分からないけど、その当時のやり取りを直に見ていて率直に思ったのが、実は、学校での人間関係と似ているなって思ったよ」

 銀錠はそういって自分なりの感想を言う。


 銀錠は子供の時、いわゆる不良だったらしく、そこでの人間関係と社会に出てからの人間関係の構造が、実は似ているのではという。

 それは、大人も子供も関係なく、人はいくつになっても、どんな仮面を付けていても、所詮は子供の頃と同じ自分ということかも知れないと。

 まさに三つ子の魂百まで。



「お金の方はどうなったんですか? 百億も」

「百一億な。だから念書にして和頼さんが保管しているよ。もしかしたらどこかに預けてあるのか? 別の組織に渡してあるとか? 弁護士とか、それは分からないけど、和頼さんのことだからしっかりと対処しているとは思うけど。ただ、お金は取る気はないよ」

 銀錠の台詞に、なんでと驚く。


「それをしない方がいいと思っているからだろう。それに和頼さんにとってはその百一億は元から安全を買う為のお金だから、自らの財布から出ようが相手から出ようが、金銭的利益とは関係ないンだよ」

「百億円ですよ」

「バカだな。美輪家にはその程度ははした金だろ。それに、それをいうなら、今年の初めに海外の名門サッカーチームが、選手の補強に二百五十億円使ったってよ。補強にだけでだぞ」

 あるところにはあるのですねと頷く。


「自分ならそんな怖い所についていけないですよ、銀錠さんはよく行きましたね」

「アホ、それが仕事だろ? お前マジか? 命はれよ」

 銀錠のキツイセリフに、一同の背筋が伸びる。そうだったと、忘れていたと。


「ま、でも、確かに怖いよな。俺も御嬢様方の為なら命出せるようにはなってきたけど、他の仕事の時はさすがに。特に、男性アイドルの警護とかでは死にたくないわな」

 皆が考え込み「いや、自分は仕事ですから」と笑う。今の銀錠さんの台詞を星丘さんが聞いたら激怒しますよと冗談が飛び交った。


「冗談はさておき、和頼さんは御嬢様の為なら無茶しますよね」垣根。

「そうなんだよな。そこが……困る。俺達にしたら和頼さんが雇い主だし。もちろん御嬢様方を一番にお守りするという使命は分かっているつもりだけど」友居。

「本当かお前ら」銀錠が腕組みした。

 銀錠はそういうと、またも昔の話をし出した。




 和頼と瞳と恵と子供達、そして、警護として星丘と銀錠がつく中で、とある県を見て回っていた。

 目的は、お墓をどこにするかという探索だった。

 月に一度、旅行がてらに、死んだ後の安住の地をと観光ショッピングする。


 結局は、いくつか購入した無人島に墓地を作り、そこで瞳は永眠しているのだが、その頃は普通の墓地なども見て回っていた。


 富士山の近くがいいとか湖の近くがいいとか、色々と各地を回った。


 そんなある日、瞳と恵の案内ミスというか、いわゆる迷子になり、見知らぬ山で遭難しかけた。

 一応は道なので、迷子といってもギリギリ引き返すことはできる。だが、そうだからこそもう少し進もうとなり、ビルの様な大木が沢山そびえる薄暗い森で、土の道を進んだ。

 道幅は結構広く、車が横に二台分、商店街位だろうか。ただ、大自然の中だけに不安な道だ。


 行けども行けどもどこにもつかない。大分奥地へと入り、これ以上は危険だとみなし、星丘と和頼で話し合って戻ることにした。実際、行きははしゃいでいた子供達も、まだ幼いこともあり「おんぶして~」や「抱っこ~」とダダをこね始めた。


 瞳と恵も大分足にきているようで、自分一人ならどうにかなるが、とても子供の相手はできない。

 和頼と星丘と銀錠で六人を順番に運ぶ。

 しかし、その帰り道でとんでもない災いに遭遇した。


 背後から巨大なイノシシが二頭現れたのだ。それも見たこともないほど大きく荒々しい。

 猪を見たのも初めてだが、まるで小牛ほどに感じる。


 毛を逆立て足で地を蹴り掘る。威嚇してくる。一瞬で、全員に死が過った。


 恐怖の中、和頼が星丘と銀錠に「死んでも子供達を守れ」と指示を出した。

 手のみで、子供達を連れてゆっくり下がれと合図する。

 それに従い、ゆっくりと下がる。


 そこに居る全員は、泣くことさえできずに真っ青になって息を殺す。


 ニュースなどで見る、熊や猪に襲われた人は皆、このような状況なのだと過る。助かった者達は一体どうやって助かったのと。それすら奇跡と感じる。

 死ぬ意外の想像ができない。



 すると和頼が、両袖(りょうそで)から細い鎖を垂らす。ボトッと重い鉄球が地面に落ちた。

 鎖の先にピンポン玉ほどの鉄球が付いている。


 ゆっくりと猪の方へ向かう和頼、その姿に、子供達は星丘と銀錠の袖に掴まる。無言だが、まるで「パパを助けて」と叫びすがるように。


 地面に落ちた鉄球を、ケン玉でもするようにひょいっと右手に握る。もう片方は地面を引きずる。二頭の猪は完全に戦闘態勢だ。

 バケモノの如く和頼を視界に捉える。


 ラクダの様に泡立つよだれが、荒い呼吸で揺れながらボトボトと垂れる。ガムでも噛んでいるように何度も噛み合せる下あごから湾曲して伸びる牙は、まるで鎌の刃そのもの。


 猪が肉食なのか雑食なのかも分からなくなる。喰らわれる。殺される。


 一瞬だったのだろうが、途方もなく長い合間に感じた。

 相撲取りの仕切りのよう。互いの呼吸が触れれば立ち合いとなってしまう。


 星丘と銀錠はナイフとスタンガンを構え少しずつ後退する。恐怖だけが募る。

 本当なら自衛隊で鍛えならした星丘が猪と対峙し、その隙に和頼と子供達が逃げるべきである。

 星丘の体には格闘家の数倍強い本物の殺人技が幾つも染み込んでいる。人を倒すのではなく殺す為の訓練。ナイフや拳銃もおもちゃではない。戦車も飛行機もCGではない。


 しかしなぜか和頼が塞き止めている。それに応えるべく、星丘も、絶対に子供達を守り切ると命を張る。



 ついに、猪を繋ぎとめるブレーキが外れた。元から逃げてなどくれはしないだろうが、和頼の威嚇が数秒だけ猪に警戒を与えたのだろう。それでも向かい合う野生のケモノが背を向けて逃げることはまずない。

 これは偶然の遭遇ではなく、人の気配を知っていてなお現れたケダモノ。

 その理由が縄張りなのか、繁殖期なのか、それとも和頼と同じく子供でも守ろうとしているかは定かではないが、間違いなく殺戮(さつりく)に来た獣。


 ちなみに牙の大きさと体格から見て、二匹共に雄。野生の生き物がつるむのかは分からないが、どちらも似たような体格で上下関係はなさそうだ。


 ――来た。


 物凄い勢いで突っ込んで来る。声もなく重い足音だけが地鳴る。走り方が独特で、それこそ戦車だ。

 狼や虎などのしなやかな動きとはまるで違う。


 動き出した動作と音に、星丘と銀錠の心臓は撃ち抜かれ不整脈を刻む。子供達も瞳も恵もアワアワと頬を引き()る。強張(こわば)る。


 突っ込んでくる猪に一歩踏み込む和頼が、右手に持った鉄球を軽くリリースするように、猪の頭部目がけて放つ。

 威力よりも確実に当てることを意識した投げ方だ。


 豚の弱点である敏感な鼻を狙うなど……できない。豚と違い鼻など見えない。

 バクの様に長く突き出した鼻は、軽く下を向いている。更に顎を引き、柔らかな部分も弱点も見えない。死角などないポーズで戦車のように突っ込んで来る。

 出来るのは確実に頭部に命中させるということ。


 釣りで、ルアーをポイントに投げ入れるように放った和頼のそれが、下を向き突っ込んで来る猪の眉間辺りを思いっきり捉えた。それもカウンターだ。

 ボーリングの球を床に落としたような鈍い音がしたが、その鉄球に(ひる)まず、少しスピードがよれただけで突っ込んで来る。効いていない。これが野獣。


 もう駄目だと星丘や子供達が思った時、和頼の左手が動いた。大きく一回りした鉄球が遠心力と共に猪の脳天に突き刺さった。固いプラスチックを割ったような音が辺りに響いた。その瞬間、猪の前足が綺麗に折りたたまれて地面を削る。


 和頼は土下座するその猪の鼻先を思いっきり蹴りつけた。

「ブギャァ。ギィーギィー」

 真横にぶっ倒れて苦痛にのたうつそれに、すぐ後ろを走っていた猪が大きく斜めに逸れ、和頼を避けて走り抜けた。

「あっっ、星丘さん。銀錠さん」誤算だ。


 物凄い勢いで真横を通り抜けられてしまったのだ。一瞬にして和頼の全身に冷や汗が流れる。こんな巨大な猪に突っ込まれたら間違いなく命はない。


 倒れている猪にトドメを刺すことも出来ず、もう一頭を食い止めることもできなかった。


 バチバチとスタンガンを鳴らす銀錠。腰を低く落とし構える星丘。すぐさま後を追う和頼。暴れ狂う猪。

 一応は人を怖がって、いや警戒して、道の端を走っているが、暴走しているのは確かだ。


 パニックを起こす和頼は全力で走る。が……。

 猪は星丘や銀錠へと突っ込む。迎え撃ったのは星丘だ。


 低く構えた姿勢から少しだけ身をかわし、猪を掴みにかかる。無謀だ。

 物凄い衝撃に星丘の表情が苦痛に歪む。

 少しずれていたからいいが、まともにくらえば一撃で死ぬと分かる。

 それでも星丘は敢えて掴みにかかったのだ。それは後ろへ逸らすわけには絶対に行かないからだ。



 自分の持ちうるすべての技で猪にナイフを突き刺す。

「うあっ。」

 猪があの鎌のような牙で星丘を噛みつきにかかる。そこへ銀錠が、スタンガンで応戦しようと近づく。


「来るな。待て、銀錠、お嬢様を守れ」

 襲われながらも指示を出す星丘。

 星丘は猪の下でもがきながらナイフを刺しにかかる。血が飛び散る。その真横を和頼が通過し、銀錠へ更に下がるように指示した後、猪の横腹目がけて、大きく真横に二周させた鉄球を打ち込んだ。効かない。だが、星丘からは退く。


 透かさず星丘へと駆けより抱え起こす和頼。

「大丈夫か。怪我の具合は?」

「分かりません。でも、ナイフがまったく刺さらない。駄目です」

 星丘の攻撃はたったの一撃も刺さっていない。ありえないと驚いている。

 筋肉がというより、毛や皮膚や体のズレ動きで刺さらないようだ。何十回も刺しにいったのに、たったの一撃もである。


 つまり飛び散る血は全て星丘のモノということだ。自らの攻撃が逸れて自分の体を切りつけてしまったり、猪の牙を避ける手や腕から出血したようだ。


 和頼は鉄球で威嚇しながら、星丘を端に寄せる。

「和頼さん、大丈夫です、まだやれます」

「なら、子供達に付いて下さい。俺が(おとり)になりますからその隙に。相手はこっちを殺しに来る。どうにか子供だけでも……。それと、ナイフではなく、スタンガンに変更で」


 星丘はナイフからスタンガンに持ち替える。一瞬、スタンガンに不安が過る。

 それは自分が血に濡れている状態での、接近してのスタンガン使用。ヘタすれば自分も感電するからだ。

 特に揉み合いで体が接触していれば、その危険性は限りなく高い。

 通常時ならもちろんそんなことは絶対起こらないが、相手が人間ではないことと、血液で濡れていること、そして周りが湿っていることに不安なのだ。

 しかしナイフが利かないのではそれしかない。濡れ手だが、スタンガンの性能を信じるしかない。



 数秒の会話さえ許さぬ猪の威嚇。何度も地面をダンダンと踏み鳴らす。

 和頼は中腰状態から立ち上がり、猪と対峙する。先程倒れていた猪も鼻と口からボタボタと血を垂らしながら寄ってくる。


 和頼は並ぶ二匹を見て、もう一度横をすり抜けられたら何が起きるか分からないと顔をしかめる。

 一撃で仕留めるには本気で鉄球を打ち込む以外ない。しかしそれでは、命中率が半分以下になる。野生の猪の俊敏さから言えば、避けられる確率は九割近い。

 どんなに避けられても追尾する余裕のある、抑えた攻撃でなければ当たらない。


 宙を舞う鳩でさえ捉える和頼のテクニックも、叩きつけるような一撃を放つのは、かわされる危険(リスク)が大きい。


 ジャグリングにポイというものがあるが、その動きと少し似た動作をする。基本的には違うのだが、遠心力を増しながら、常に隙がないように交互のタイミングをずらして様子をみる。

 縄跳びのあやとびでもするように交差させて鉄球を操る。



 逃げてくれ。去れ。消えろ。どっか行け。

 追い払いたい。ひたすら願いながら威嚇する。


 頭の良い生き物なら逃げるだろと、祈るような目で猪を見るが、痛い思いをしたはずの猪もまだまだやる気満々だ。これがリアル。

 野生の生き物は例え罠や檻に閉じ込められても、血塗れになって暴れる。

 死ぬギリギリまで荒ぶる。


 逃げるなどない。逃げるのはそこに確かな理由がある時のみ。それが曲がることはない。逆に言えば、街中を逃げ回る猿や鹿が追い詰められたから「もうダメだ」と観念して自首することがないのと同じだ。とことん暴れるはず。

 断念するのは平和ボケした人間だけ。野生の物は遺伝子に染みついた天敵種や圧倒的な差でなければ逃げない。

 元から逃げる気がある場合は別だが、獲物狩りや縄張り、メスの奪い合いで痛いからと逃げたりはしない。



 和頼の弱気な願いも通じず、二頭の猪は和頼に狙いを定める。

 ブンブンと鉄球を鳴らし集中する。一歩でも近づけば向こうは突進してくる。

 こうして獣と向き合っていると、目を逸らさずに、向かい合ったままゆっくりと後退りしなさいという教えの真意が分かる。


 後ろに下がりたいが、子供達の方へは下がれない。

 ヘタに動けば即仕掛けてくる。猪の荒い息が強風の様に吹く。化け物だ。生臭い鉄の匂いがする。猪の口からなのかそれとも星丘の血か、和頼の振り回す鎖や鉄球の匂いなのか……。



 来る。猪の微かな動きで直感した和頼も動いた。

 意識ではなく、体か勝手に反応した。

 飛んでくるボールへ無意識にバットを振るように。はっきりとラインが分かった訳ではないが、そこだと信じて思い切り振り抜くように。


 二匹同時に並んでくる。そこへ右、左、と時間差で鉄球を打ち込む。鉄球が体にめり込むが、まったく利かない。弱っている方の猪が辛うじてよろける程度。

 もう片方は無傷の様。


 恐ろしい。和頼はこの鉄球がどれ程の破壊力か知っている。

 命中率重視とはいえ、当たれば生きていられないくらいの威力と知っている。

 それがビクともしない。


 またも横をすり抜けようとする。しかし、和頼の攻撃は収まることない。しなるチェーンが鉄球を猪へと導く。飛んでくる鉄球に噛みつく猪。


 三発もヒットさせたが致命傷はない。ついに、思いっきり突っ込んで来た猪に、和頼は吹き飛ばされてしまった。

 長い距離を走ってのアタックではないが、一瞬のタックルとはいえ、猫のように素早くそして九十キロはある巨漢。


 (うめ)き声と共に地面を転がる。交通事故だ。


 膝とスネを抱え痛がる和頼。

 とっさに出した足が犠牲となり、体はどうにかすり傷。しかし足の痛みは相当。

 指先から股関節の筋までジンジンと痺れている。


 そこへ容赦なく突っ込んで来る二匹。今度は勢いに乗ったダッシュだ。

 和頼は鉄球を手に持ち、鉄球が当たるようにカウンターでブッ叩く、が、虚しく吹き飛ばされる。鼻先で突き上げられて宙を舞う。


 猪の足が顔に当たったのか、それとも地面に打ちつけたのか、転げる和頼の鼻からボタボタと血が垂れる。


「和頼さん。今行きます」銀錠の声。

「来るな。子供達を守れ。少しずつでも逃げろ」

 二度ほど吹き飛ばされた和頼が、どうにか立ち上がると、猪が和頼の太股を鋭い牙で噛みつきに来た。この牙でやられれば死。出血が止まる訳がない。荒れ狂う猪の口を素手で止め、手や指からドクドクと血が流れる。


 一体、今まで、これで生き残った者達はどうやって切り抜けたのだろう。相手が二匹というのが致命的なのかもしれない。一匹なら、もしかしたら、逃げてくれたかもしれない。


 和頼はもがきながら、自分の中の悪魔を開放していく。

 握りしめた鉄球で猪の体を乱れ打つ。と、たまらず間合いを取る猪。殴り続けさせてなどくれない。追いかけて蹴るが空振る。

 距離をとり地面を踏み鳴らし、和頼を睨む猪二匹。


「来いよ化け物、殺してやるよ」

 限界まで伸ばした鎖を回し始めた。

 鉄球の遠心力は先ほどの比ではない。当たればシャレにならない威力であろう。ただし当たればの話だ。


 長さがある分スピードも遅いし、コントロールも相当難しそうだ。

 和頼は自ら一歩二歩と猪へと近づく。すると、猪も、勢いに乗って、真っ直ぐ突っ込んで来た。まったく臆することを知らない。

 痛みや恐怖を知らないとでもいうのか。


 和頼は腕を交差させ猪目がけて鉄球を振り下ろす。遅いが、必死に鉄球の位置を調整する。行き過ぎた距離を手首で調節しながら緩やかな動作で操る。と――。

「ブィーギィァァーー」

 猪一頭の脳天に鉄球が二発、時間差で命中した。それがそいつの断末魔だ。

 ドサリと倒れた猪は、固まって動かない。まさに即死。

 が、和頼はただの気絶だと思っている、だが、完全に骨が砕けている。近づけば分かるが、肉片が表へと溢れ出ていた。


 もう一匹の動きが断末魔によって止まった。和頼は、今度こそ逃すことなく仕留めると歩み寄る。すると、一度は止まったそれが突っ込んできた。


 迷う。避ければまた後ろへと行かれてしまうと。


 コントロール重視に戻し鎖を操る。口から血の泡を吹く猪。和頼も鼻の奥に鉄の味と腫れあがる熱を感じている。


 最初の一撃をかわされた。猪がフェイントを入れたのだ。猪突猛進しかできないそれが、目の前で一度止まりクイックしてきた。犬や猫なら分かるが、さっきまでのタックルを見ていると在りえない動きだ。それ程この鉄球を警戒し始めた。

 不味い。そこまでされたら当たらなくなる。


 真っ直ぐ突っ込んで来るから当てやすかったが、正直、犬や猫に当てるのは困難なのだ。

 急ブレーキやクイックしない鳥の軌道や置物なら、振り回しながらの調節で当てられるが、急な変化だけは対処できない。


 和頼は焦る。その間、コンマ数秒。

 必死に鎖と鉄球を振る。そして両手のタイミングをずらし次の攻撃に備える。

 向き合う猪と和頼。

 和頼は呼吸を整え落ち着きを装い、ようやく対等に感じることができた。


 必ず仕留める。仕掛けてきたのはお前だぞと。人も動物も関係ない、生きる為の戦いだ。別にこの猪を食べる為の殺生ではない、でもこれが自然界の掟だと。

 命のやり取りとしてお前を殺すと。


 猪もまた、全力で和頼を襲い殺しにかかる。猛ダッシュする猪に、和頼の鉄球が交互に降り注ぐ。

 二発とも綺麗に、頭と体にめり込んだ。猪は鳴きながらも、和頼に突っ込み吹き飛ばす。和頼は、またも痛んだ足を差し出した。

 吹き飛び転がる和頼を、更に噛みにつきにかかる猪。だが、その瞬間を、バチバチバチと物凄い電気の音がした。

 星丘だった。


 吹き飛んだ和頼に向かう猪は、その途中、真横からタックルされる形でひっくり返され、痙攣していた。


「和頼さん。これ以上は、私も手伝……」そう言いかけた星丘が口をつぐんだ。

 星丘の目の前で和頼は失神していた。星丘のとっさの判断が命運を分けたのだ。星丘が来なければ和頼は噛み殺されて、死んでいた……かも。


 星丘はナイフを取り出し、柄の握り方を変え、固定するように麻痺している猪の首へと刃を立て、全身で固定しながらナイフを差し込んだ。

「ギィァーブヒィーブィイイーー」


 首からナイフを抜くと、もう一頭にもトドメを刺しに行く星丘。しかし、頭から飛び出したおぞましいそれを見て、和頼の元へと戻った。


 目を白黒させて気絶する和頼の体を擦りながら「大丈夫ですか?」と必死に呼びかける。数分して意識を取り戻した和頼は首と腰を押さえる。


「死んだかと思った」苦笑う和頼。

「ですね。私も、様々な危険な訓練を受けましたが、それに匹敵するほどの実践でした。正直、ナイフが利かないなんて思いもしませんでした」

 星丘もホッと苦笑いを浮かべる。


 星丘の肩を借りながら和頼は子供達の元へと戻る。銀錠も瞳も恵も、何が何やら分からない。子供達も土まみれのパパの姿に目が点だ。



 無事に山を下りると、賑わう駅前で、和頼達の姿を見た者が、何が起きたと心配して駆けつける。山で起きた事情を詳しく話すと、すぐに猟友会などに連絡を入れますと色々な手配をしてくれた。

 車で待っていた運転士も、和頼と星丘のボロボロさに驚いていた。

 呆然とする子供達と無事に車に乗り込み、ようやく安堵(あんど)と震えを全身で感じる。





「そ、そんなことがあったンですか? 猪? 猪って本当にいるンですか?」

「何言ってンだよ、いるに決まってるだろ。普通に畑とか荒らしてて、日々、猪の悪さと奮闘している農家の人とか多いぞ。柵や網を張ったり、罠を仕掛けたりな、そりゃ大変だろよ」

 垣根も友居も砂沼も、あまりの衝撃に呆然としている。


 銀錠は、話せば長くなるから今日は話さないけどと前置きし、まだ色々と事件はあったと笑う。

「でも、俺達が来てから一度もないですよね? 陰ではあるンですか?」

「ないよ。来たからないンだろうが。よく考えろよな。その為に社員増やしたンだからさ」

 なるほどと一同が頷く。


「あ~あ。もしかして、和頼さんがクラッカーとたまにやっているあの遊びって、その鉄球の練習ってことですか?」


 軟式テニスの一人打ち用セットの、ゴムが付いているそれを、重り部分から切り離して、それを両手に一つずつ持ち、クラッカー相手に遊んでいる。

 一見普通の遊びにも見えるが、猪との死闘を知っている者達は、それがどういう類の練習か分かる。


 クラッカーとではなく、置物などの標的(ターゲット)を使う際には、細く丈夫な紐にゴルフボールが付いたものを使用し、同時に四本を操っている。



「要するに、烏もそれを見抜いているワケか」

「それを見抜いているかは知らないけど、和頼さんを普通と思っているお前等は、おかしい。どう見ても普通じゃないだろ? あの悪戯な烏を釣って遊んでンだぞ」

 言われてみれば、いくつも普通じゃないことがある。何よりイベントの内容自体に普通ではないゲームが幾つもある。

 しかし、優しい和頼しか知らないそれらは、どんなに言われても、結局は子供達の優しいパパである和頼としか思えなかった。




「お、帰って来たぞ、お出迎えしなきゃ」銀錠がはしゃぐ。

 監視カメラに映る美輪家の高級車。駐車場へと入ってきた。車からはぐったりと疲れた和頼と、それを引っ張る子供達が出てきた。


「おかえりなさい、ご主人様」

「ご主人様って? どうかしたの皆。烏にでも虐められた?」和頼が照れ笑う。

 子供達も空を見上げる。するといつものように烏が飛んできて旋回する。


「はいよ。コレ待ってンだろ?」唐揚げを空に放り投げる。

 それを空中でキャッチする烏。しょっちゅう釣りをしているから、烏もとんでもない技を習得していた。まるで、船にくっついて来るカモメや浜辺のトンビの様に進化している。


 駐車場の声が聞こえたのかクラッカーの騒ぐ声がする。

「あれ? クラッカーは? なんで出てこないの? 繋いであるのかなぁ」

 子供達が出迎えないクラッカーを不思議がる。


 和頼は運転手にご苦労様と声をかけ、そしてお土産を銀錠達に渡す。

「これお土産。皆で食べて。星丘さんもご苦労様でした」

 寝坊の件で少々反省気味の星丘だが、笑顔でお辞儀する。


 美輪家が庭へと入っていくのを見送ると、運転手も含めた銀錠達は、警備会社の建物へと入っていく。


 和頼達は玄関を開け、ただいまと家に帰る。

 見慣れた部屋の風景に、さっきまでの列車の光景を重ねる。旅行などに行くと、そんな余韻(よいん)にも似た残像が溢れてくる。


 少しだけ疲れた体で、恵と茜にお土産を渡そうとリビングへ向かう。と、そこに見知らぬ人の気配がした。

「パパ。誰かいる。変なのが……」

 子供達が次々に慌てだす。美輪家の住居に侵入した者は初めてだ。正確には大護と執事の永友が応接室へ来たことあるが……。これはありえない。


「クラッカー、何処?」みよが呼ぶ。

 その声に反応して吠えるクラッカー。と、そこに茜が来た。

「お帰り和頼。皆も良い子にしてた? パパに迷惑かけてないでしょうね?」

「何言ってるの茜ばぁ。その変なの、変なのが居るジャン」

 茜は少しだけ笑う。そして説明し出した。


「この人は、恵さんが具合悪いからって家まで付き添ってくれた人。私は知らないけど、恵さんと和頼は知っている人なんでしょ?」

 和頼は子供達が変な人と騒ぐそれを凝視する。よく見て考える。


「あっ、ああ。君か。恵さんどうかしたの?」

「実は仕事場で急に体調を崩されたようで――」


 会津(あいづ)(とう)()、それが彼……いや、彼女の名前だ。

 透子は元男性で、今は身も心も戸籍上も変更して、れっきとした女性。

 改名する前の名は分からないが、美輪家が海外先に行く時に使う、ガイド兼通訳を何度か受け持ってくれた子。

 年齢は二十七歳。海外の某有名大学を卒業しているエリート。


「――というわけで、しばらく私が家事をお手伝いしようと思いまして」

「ええぇ~、なんでぇ? 恵ばぁそんな悪いの?」まやかが驚く。

「ちょっ、それは~無理だと思うけど」

 和頼の台詞に、恵から直に頼まれたと返答。それに茜にも承諾は得ているとも。後は和頼と子供達の許可を取るだけのようだ。


「梓さんが使っていた部屋が空いているからと言われたのですが……」

「いや、部屋とかそういうことではなくて、一緒に暮らすのはちょっと」

「美輪様は私のことが嫌いなのですか? メイドと思って頂ければ――」

 和頼は好き嫌いではなくて、と苦笑う。子供達は、パパはこの女の人が嫌いなのかなと和頼の顔色を見ていた。


「あのね、うちには凄く狂暴な番犬がいてね、会津さんが一緒に暮らすというのは絶対に無理なのね。分かるかな?」

 それを聞いた子供達は「あぁ~」と納得する。茜も少し困ったように考え込む。


「でも、私、凄くワンちゃん好きですし、多分、慣れると思います」

「絶対に不可能」和頼には確信がある。

 クラッカーが見知らぬ者に慣れるはずがない。

 子犬の頃から知っている星丘や銀錠にでさえ牙を剥く。

 しつけのプロでも無理だ。

 まず見知らぬ者からの餌は絶対に食べない。例え餓死しても。

 それに触らせてもくれない。つまりアメはない。かといって、ムチ的な罰を与えようものなら、エイリアンの歯茎にも似たグロテスクさを垣間見ることになる。



 和頼が必死に説明するが、透子はどうも納得しない。どうしてもこの家で一緒に暮らしたいようだ。


 百五十センチ前後の背丈に三十七、八キロ程度の華奢(きゃしゃ)な体。

 一目でか弱いと分かる。そうでなければ、遭遇した途端に、和頼の制裁を受けて病院送りになっている。

 例え女性であっても、凶器や薬品を用いて、子供達に危害を加えるかも知れないと警戒が走る。だが、それさえ簡単に回避できそうな程に、弱々しく見えたのだ。


 そんな透子にもし何かあって、クラッカーの一撃でも喰えば、直ちにこの世から『おさらばえ』となる。そんな残酷な事故は御免だ。

 ここは美輪家が楽しく暮らしている家なのだ。



 元々はお手伝いを雇うのを嫌がっていたが、今となっては、クラッカーのことでそうしたくてもそうできない。

 にしても、透子が住むよりは、時間を決めてお手伝いを雇う方が、クラッカーを繋ぐ時間も短くて済む。


 恵も茜も家事をこなすのが相当きつくなってきているよう。

 家が広過ぎるというのもそうだが、瞳と梓が居なくなったのはさすがに大きい。しかも、六人もの子供達が日々生活する。

 ゆりなが食事を作ることも、他の子が洗濯などすることもあるが、それは、あくまでお手伝い。やはり学業とイベントなどで時間は限られる。

 となると、茜と恵の仕事と家事の両立頼みとなる。が、キツイ。

 金銭的には裕福だが、良く考えれば九人住まいの大家族。


 和頼も家事のことはどうしたものかと悩む。恵が具合悪いのであれば、茜の負担が倍増する、いや、そんななまやさしいモノではない。だからこそ、家に人を入れたくないと、あれほど拒んでいた恵と茜も、会津透子を招いたのだ。



 それにしても透子の存在が異質に感じる美輪家一同。

 中高生の様な雰囲気、だが実際は、とっくに成人している。

 明るい茶色の髪がクルクルと巻かれていて、ほんのりと香水の匂いも漂う。


 美輪家以外誰も居ないはずのそこに。――違和感。


 女性というより、絵に描いた美少年に近い。でも、細身で、仕草や態度は女性。いや、少女だ。


「どうするのパパ。クラッカー繋ぎっぱなしじゃ可哀そうだよぅ」なずほがいう。

 分かっている。ここは家族であり番犬であるクラッカーが第一。

「やはり、一緒に住むのは無理だよ」きっぱりと断る和頼。

 だが、透子も引かない。せっかく恵と茜からの許しが出たのだ。

 夢にまで見た美輪家との生活。



 透子は、今日までずっと寂しい人生を送ってきた。友達やクラスメイトと上手くいかないなどは当然だが、実の家族とでさえそうだった。

 そして、その小さな姿や存在からいつも馬鹿にされ虐められた……。必死に耐えて、いつか良いコトがあると信じて勉強し、ようやく就職した場所が、和頼が裏で支援する旅行会社。


 日本の大学ではなく海外に留学したのも、逃げだしたい気持ちからで。

 自分を知らない人たちの中で、一からやり直す為だった。

 色々と深い理由もあったようだ。


 そして、せっかく海外で培ったそれが活かせる会社にと、通訳的な業種を、数社受けるが全て面接落ち。

 当然、偏見されるいわくつきの履歴書から、一発で弾かれていた。

 それが現実。


 今の会社に受かったのも、奇跡に近いことがたまたま起こっただけ。

 それは旅行会社の面接期間中のある日、たまたま透子の面接の日に美輪家が会社を訪れて、三日後の海外視察に誰か通訳のできる者はと探しに来たのだ。


 和頼が直々に履歴書を手に取り、四年も海外の有名大学に通っていた会津透子に目を止めた。そして即決で合格。即、美輪家と共に空の旅へと出た。


 本当なら、就職も出来ず、夜の街へと出ていたかも知れないと思う透子。

 そんなタイプではないが、そうなっていたかもと思えるほどに夢は打ち砕かれていた。一流大学を出ても(なお)、ささやかな夢さえ掴めない世の中で、就職難民として彷徨(さまよ)っていたのだ。


 和頼と子供達と恵とで回る海外の旅は、本当に優雅で楽しく、透子は自分までが無敵になったような気になっていた。

 常に笑顔で、毎秒楽しくて、こんな家族になりたいと。


 無事に旅行が済み、晴れて旅行会社へ戻ると、それはそれは先輩方からの激しい虐めと嫌味の嵐。何せド新人が美輪家との旅行を横からぶんどったワケだから。

 初めに付いたあだ名は泥棒猫。社会に出たら虐めなどないと思っていただけに、その衝撃は計り知れなかった。全ての読みが大間違い。

 ある意味、学校生活より酷いこともある。簡単には辞められないし、お金が発生しているから、口調も態度も酷いなんてもんじゃない。


 それでも、美輪家との視察旅行を楽しみに、その奪い合いに参戦し、数ある中のほんの数回をどうにか勝ち取ったのだ。

 何度か旅のお供をし、家族の真似事をこっそりと味わう。


 まだコーディネートさえできないただの通訳で、日陰の更に影に潜む黒子。

 それでも仕事にやりがいを感じてはいる。



 恋を諦め、幸せも諦めかけた時、和頼のホモ説がネットに流れた、その時の透子の喜びは、まさに神様はこの為に私を生んで下さったと涙していた。

 自分の様な存在が生まれてきた理由、その答えを和頼が教えてくれるかもと。


 結局、誰かが美輪家のパソコンをハッキングしてという結末で終わったが、透子は今も、少しだけソレを期待している。

 なにせ自分は男でもあり、女でもあるからと……。



 今朝、デザイン会社に急用で呼び出されていた透子は、またも奇跡を感じることとなった。たまたま具合の悪くなった恵。元々このところあまり体調が良くなかったようだが、急に悪化し仕方なく病院に行くことに。


 透子が海外向けの書類の整理をしていた部屋で、恵が眩暈(めまい)に襲われ、緊急連絡先の警備会社に一報を入れて、病院へと付き添った。

 その途中、介抱しながら色々な話をした。

 この流れは夢にまで見たチャンスだった。

 絶対に掴みたいと、そう神様に願った。もし願いが叶うのなら死んでも構わないと祈る。

 ――そして今なのだ。




「平気です。私、犬と相性が良くて。不思議ですけど、通じ合えるンです」

 人間同士よりも動物との方が得意だと強く主張する透子。

 無我夢中で粘っている。

 言っていることが嘘か本当かは関係なく、駄目なものは駄目と告げる。

 とそこに、茜がクラッカーをリード付きで連れてきた。


 するとその瞬間、クラッカーが猛スピードで透子に襲い掛かった。

 リードを持っていた茜の指はパチンと弾かれ外れていた。だが、もしそうならずにしっかりと持ち続けていたら、茜が床へと転び大怪我をしていたに違いない。


「待て。クラッカー、ストップしなさい」まやかのキツイ指令が(とどろ)く。

 クラッカーはその場に伏せて『ゴー』の合図を今か今かと待っている。だが、ゴーがかかることなどない。そんなことをすれば会津透子は死んでしまう。


 和頼が反応するより早く、まやかが反応した。危なかった。

 この家で、クラッカーにこれほどの命令を下せるのは、和頼、まやか、ゆりな、みよ、れせ、だけである。もえみとなずほでは多分止まることはなかっただろう。


 犬を飼っている者ならば何となく分かること、それがただの愛玩犬であっても、自分の家族順位というものがあるのだ。もえみとなずほがクラッカーより低いわけではないが、言うことをたまに聞く感じでいいかなとナメられてはいる。

 ちなみに恵と茜の言うことはほぼ聞かない。かつて、しょっちゅう抱っこしていた瞳の言うことでさえ、もえみとなずほと同等位だった。


 唸り声は上げず、何度も唇をめくるクラッカー。和頼は、こりゃダメだと悟る。

 しかし、そんなクラッカーを見てもなお、透子は「平気よ~。オネェちゃん怖くないからね~。怯えないで、味方だから、怒らないでね」と、無意味過ぎる言葉をかけている。


 まやかの停止命令のおかげで生存出来ているという意識がないようだ。本来ならズタズタだろう。


 甘い声でクラッカーをあやす。

 そんな説得で平気なら、この世に狂犬という言葉はない。

 クラッカーが優秀で、きちんと言いつけを守るから、これで済んでいる。逆に、こういう主従関係がしっかりしているからこそ、透子が許されることもまずない。


「お姉さんさ、危ないからとりあえず梓ばぁの元部屋に入ってなよ。ちゃんとドア閉めて。クラッカー開けられるかも知れないけど」れせが笑う。

 透子は状況が分かっていないのか「大丈夫。もう少しで説得できるから」と笑顔で子供達にいう。それにみよとゆりなが「あぶないってば」と再度注意する。

 茜も無理かなとほぼ諦めている。


「会津さん。本当に、下手すると死にますよ」和頼の台詞が透子を責める。

 しかし、駄々をこねる女子高生のように聞かない。

 美輪家にとっては可愛いクラッカーだが、それ以外の者にはまるっきり違う。

 クラッカーがもし美輪家の敵なら、昔遭遇したあの猪よりも遥かに狂暴な(ケモノ)

 そこの所がイマイチ分かっていないようだ。


「どうしたの……。あ、和頼、みんなもお帰りぃ」恵が(だる)そうに現れた。

 和頼も子供達も「ただいま」と挨拶を交わし、恵を心配するように病状を聞く。


「大きな病気ではないけど、しばらくは体調が崩れたままらしいから――」

 病名は伏せ、更年期症状の様態だけを説明していく。

 ちなみに茜は病名を知っている。かつて自分も内緒で苦しんだ症状だ。今は安定しているが、その辛さは承知している。


「肩とか重いし、微熱というか常に熱くて。あ、そうそう、今日、お風呂に入った時、和頼と子供達でお風呂場の掃除もしておいてね。お願いね」

 そういうとキッチンへ向かい、今日貰ってきた漢方薬を飲む。

 和頼は、クラッカーと恵を交互に見てく。

 薬を飲み終えて戻ってくると「今日、夕食は要らないわ。食欲がなくて」と。


「恵ばぁ。お風呂の掃除をパパがやるの? パパが?」みよが不満そうだ。

「何がよ。和頼と、あなた達でしょ? 和頼もあなた達の面倒見て疲れてるから、本当はあなた達でしなさいっていいたいけど、結局、一緒に居る和頼が、一番やることになるでしょうが。違う?」少し機嫌が悪い恵。

 みよもぐぅの音も出ない。


 その光景を見て透子は怯える。そして恐る恐る和頼の顔を見た。

 かつて旅行先で、子供達に馴れ馴れしい態度と言葉を発した時に、和頼に冷たく怒られた記憶が蘇る。美輪家の子供達を軽んじてはならないのはすでに常識だ。

 美輪家に関わる者で知らない者は余程のお馬鹿さんなのだ。


 和頼の眉間にシワが寄る。子供達も腕組みをする。

 この時、和頼は本気で悩んでいた。お風呂場の掃除をこれからどうしようかと。そして、お風呂場自動掃除ロボを作ればいいのだと閃く。

 そしてこれがのちに、美輪家と、提携会社のヒット商品としてまたも利益を生むこととなる。



「和頼? 聞いてる? お風呂の掃除だけど」恵が辛そうに声をかける。

「わ、分かってるよ。子供達と洗っておくから。恵さんも早く、体調をね、治るといいですね。お大事にね」

「早く治してよねぇ恵ばぁ」もえみが複雑そうにいう。


 透子はその光景に驚きが隠せない。美輪家の子供達に、これほどの態度を取って平気な者が存在するとはと。しかも、恵自体も、普段会社で会う恵とは違う。

 まるで家族というか、信頼し甘えているような、支え合う関係のような。


 透子はますますこの家に、美輪家の一員になりたいとそう強く思った。

 だが、もちろん、今の透子はクラッカーにも子供達にも、当然和頼にも認められていない。それどころか、ちょっとした厄介者だ。唯一の救いは、恵の具合の悪さと茜や子供達の家事分担の支えに、その救いとなれる状況下にあること。


「まずは夕食の支度をしないと~」ゆりなが疲れた体で肩を落とす。

「あの、夕食の用意なら、もう済んでますけど。美輪家のレシピ通りに、白身魚のクリームシチューとそれと――」

 透子の言葉に子供達の目が輝く。確かに楽だと。


 実際、恵が家事から欠けたら相当なダメージだ。このことはいつかちゃんと考えなければいけない課題だ。梓が居なくなってからも、ずっと後回しにしてきたが、自動掃除機一台で一件落着するほど簡単な話ではない。


「よし、それじゃ、クラッカーと会津さんのことは御飯の後に、皆で案を出し合って考えようか。とりあえず、疲れたから椅子に座りたい」

 和頼が旅の疲れを訴える。


 ゆりなも旅後での夕食支度をせずに済み、少し嬉しそうだ。子供達も荷物を部屋へと置きに行く。


「クラッカー来い」

 和頼の指示で、伏せた状態から起き上がり、和頼の足元へとピタリとつく。

 クラッカーの頭を撫で褒める。と、ゴロンとひっくり返りお腹を差し出す。

 全身を擦って、クラッカーを抱っこすると、そのあまりの嬉しさに「キュ~ンキュ~ン」と甘美の声を上げた。


 一日ぶりの再会。しかも抱っこなど久しぶりだ。

 和頼は撫でながらもぐったりとする。クラッカーはそれをお構いなしに、ここぞとばかりに顔をベロベロと舐める。たまに感情が有り余って歯を立てる。

「痛いよ」



 朝方、目的の駅に到着し、そこから東京まで車で数時間の移動。ヘトヘトだ。

 途中で昼食をとり、ようやくのご帰還。のんびりとしたいと思って当然。

 本当なら食事の後、すぐにでも眠りたいが、電車では風呂に入れていないので、今日は入らないわけにはいかない。


 胸でじゃれるクラッカーと、食事の用意をしてくれている透子を見ながら、この先どうしようかと本気で悩む和頼であった。






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