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544:トラップ地獄


 音もなく、視界を覆い眼前へ押し寄せてくる紫の猛煙。俺はリフト上にアエリアの魔力で浮遊状態。

 いまからリネスに結界を張らせても間に合わん。といって、そのリネスを抱えているため、俺の両手も塞がっている。


 この状況を切り抜けるには――。


「しっかり掴まってろ!」

「ん、んー!」


 すでに目を閉じ、息を止めてるリネスが、俺の声をうけて、ぎゅむぅと胸にしがみつく。


「アエリア、ちょい本気出せ!」


 ――ン? ナンバシヨット?


 なに訛っちょるんか! ええからはよ!


 ――ピキィィーン。


 腰のアエリアが急速に魔力を解放する。これなら――。

 浮遊状態を維持しつつ、俺は右足を振り上げ、勢いよく真横に振り抜いた。靴先がひょうっと風を切る。その勢いで全身を横にクルクルと高速スピンさせる。突き出した右足で宙を切り裂きながら――ううむ、ちょい目が回る。だが構わず回転速度を上げる。さらに上げる。上げる。ついに俺の右足が亜音速に達し、猛烈な旋風が周囲に巻き起こりはじめた。


 押し寄せる毒煙はすでに通路に充満している。その真っ只中、亜音速スピンで大気を蹴散らし毒煙を吹き飛ばしながら、アエリアの魔力で突っ切って前進してゆく――いわゆるひとつのタツマキセンプウ脚。こ、これは想像以上にキツいぞ。三半規管がそのなんというかちょっとアレな感じで厳しい。だが耐えねば。回転速度は亜音速でも、前進自体はせいぜい駆け足程度。毒ガスだけならいいが、他にも罠が仕掛けられてる可能性がある。ここは慎重に進まざるをえん。

 毒ガスの充満する一帯をかろうじて突き抜けるまで、時間にすれば十数秒というところ。だが体感的には相当長く感じられた。あまりに速く回りすぎて、意識が飛びかけてる。この意識と無意識の狭間の朦朧感の先に、何か新しい境地を体得できそう。涅槃の彼方というか、悟りを開くってこういうことだろうか。ああ、はるか西方、あれが極楽浄土の光……。


 ……いやいや、気をしっかり持て。魔王が極楽浄土に行ってどうするのか。

 ほどなく、毒ガスのエリアをかろうじて突き抜けた。俺はいったん前進を止め、緩やかに回転速度を落としていった。前方の視界は完全にクリアになっている。冷たい石壁の地下通路は寂と静まりかえって、天井には何事もなかったように魔力球が皓々と輝いている。ここまで来れば、もう普通に呼吸しても大丈夫だろう。俺は深々と息を吸い込んだ。ああ空気がうまい。いや、俺は毒ガスなんて通じないから、わざわざ息を止める必要もなかったんだけど。気分の問題というか。


 念のため、なお宙に浮いた状態だけは維持しつつ、さて、腕の中のリネスの状態を確認すると……。

 俺の胸にしがみついたまま、よだれ垂らして気絶しとる。これは仕方ないか。常人にはちょっと刺激が強すぎたな。俺でさえ涅槃に召されるとこだったし。





 ……冷静に考えてみれば、わざわざこんな無茶をしてまで毒ガスを吹き払いながら進む必要はなかったかもしれん。普通に煙の中を突っ切って、後でリネスに解毒魔法でもかけてやれば済んだ話だ。俺も少々慌ててたようだな。

 ただ気になるのは、なぜこの階層に入った途端、スイッチも押してないのにトラップが発動したのか。さすがにこんな事態は想定してなかった。何か理由があるのかもしれんが……詮索は後だ。


 とりあえず、気絶しているリネスに治癒魔法をかけて、起こしてやろう……と、呪文の詠唱をはじめたところで、天井のほうから、かすかな物音が聴こえた。カタン、と。

 俺は咄嗟にリネスを抱え直し、さッと身をひるがえして、わずかに後退した。直後、黒い影のようなものが天井から落ちかかってきた。つい今しがたまで俺が浮いていた位置めがけて。


 バギョォォン! と、濁った金属音を響かせて、石畳の上に落っこち転がる――赤銅製の大ダライ。またタライかよ! なんでこう、トラップつったら当たり前みたいにタライが降ってくるんだよ! 不意打ちすぎてあやうく脳天に直撃食らうとこだったよ!

 ……タライはどうでもいいんだが。それより、今のトラップも、勝手に発動したな。さっきの毒ガスと同じように。どういうことだ、これは。


 あるいは、呪文の詠唱がいけなかったのか? ――俺はひそかに口を緘して、なお浮遊状態のまま、そろそろと十メートルほど前進してみた。

 どこからか、カタタン、と軽快な音が響いた。ひゅっと風を切って、左右の壁から一本ずつ矢が飛び出してきた。俺は素早く高度をあげてやりすごす。


 まただ。今度は詠唱も何もしていない。ただ宙を浮いて進んだだけでトラップが発動した。なんでだ。浮いてるのがいけないのか?

 ……ならば、床に降りて、普通に歩いてみたらどうだろうか。


 スッと高度を落とし、静かに着地。

 カチリ、と足元で音がした。天井からタライが唸りをあげて降ってくる。やっぱりダメじゃねーか! 普通にスイッチ踏んじまったよ!


 もうこうなりゃヤケだ!

 俺はリネスを抱えたまま、全力疾走で通路を駆けはじめた。たちまち左右の壁が火炎を噴き、天井からは無数のタライが降り注ぐ。それらをやり過ごしながら、俺はひらすら駆け続けた。


 マップによれば、この階層も、これまでの例に洩れずかなり複雑な迷路になっている。リネスを起こして道案内させるべきなんだが、今はその余裕すらない。続々発動するトラップをかわし、右へ左へ――俺は闇雲に辻を曲がりくねり、いつしか迷路の奥へ奥へと踏み込んでいた。既に現在地などさっぱり把握できなくなっているが、どこまで行っても各種トラップが襲いかかってくる。

 浮いててもトラップ、走ってもトラップ、足を止めてもトラップ。これじゃひたすら進むしかない! いったい何がどうなってんだー!



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