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旅に出るまでが長すぎる  作者: 道草ねこ


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最終話 大阪ですよ

 

 五日目の朝。


 芳江は、いつもより早く起きた。


 今日こそは。


 今日こそは、間違いなく信夫を大阪へ送り届ける。


 そう決めていた。


 まず芳江は、一人で駅へ向かった。


 昨日までのように、出発する時間になってから切符のことで慌てるのはもう嫌だった。


 今日乗る新幹線を確認し、信夫の切符を買う。


 行き先も確認した。


 大阪方面。


 間違いない。


「これでよし」


 芳江は切符を大事に持って家へ戻った。


 信夫はまだのんびりと朝食を食べていた。


「あなた、これ」


「なんだ?」


「今日の切符です。私が買ってきました」


「わざわざ行ってきたのか?」


「あなたに任せるより確実ですから」


「信用ないな」


「四日分の実績がありますから」


 芳江は切符を信夫へ渡した。


「絶対になくさないでくださいね」


「分かってる」


「財布に入れてください」


「はいはい」


 信夫が財布へしまうところまで見届けた。


 それでも、まだ安心はできない。


 まず靴を確認した。


「靴、これでいいですね?」


「ああ」


「下駄じゃありませんね?」


「見れば分かるだろ」


 次に財布。


「財布」


「ある」


「見せてください」


「信用ないな」


「ありません」


 信夫は渋々財布を出した。


 確かにある。


「携帯」


「ある」


「さっき渡した切符」


「ある」


「見せてください」


「さっき入れただろ」


「その『さっき』を信用できなくなったんです」


 信夫は財布から切符を出した。


 ちゃんと入っている。


「乗り換えのメモ」


「ある」


「旅行のバッグ」


「これだろ」


 芳江はバッグの中まで確認した。


 着替えも入っている。


 洗っていないトレーニングウェアではない。


「よし」


「何がよしなんだ」


「全部あります」


 ここまでやれば大丈夫だろう。


 いや、まだ安心はできない。


 芳江は朝一番で親戚にも電話を入れた。


「今日こそ間違いなく行かせますから」


『本当に大丈夫?』


「大丈夫です」


 少し間を置いて、


「……たぶん」


 と付け加えた。


 信夫は朝食も食べた。


 途中で昼寝もしていない。


 家を出る前にトイレにも行った。


 忘れ物もない。


 芳江は車で駅まで送ることにした。


「駅までなら一人で行けるぞ」


「昨日までのことを忘れたんですか?」


「昨日のこと?」


「もういいです」


 駅に到着する。


 今日は改札で別れなかった。


 芳江も入場券を買い、ホームまでついていった。


「大阪方面ですよ」


「分かってる」


「東京じゃないですよ」


「分かってるって」


「大宮にも行かないでくださいね」


「もう大宮はいい」


 やがて新幹線が入ってきた。


 芳江は行き先を確認した。


 間違いない。


 信夫を乗せる。


 指定席まで一緒に行く。


「ここに座ってください」


「座るよ」


「途中で勝手に降りないでくださいね」


「降りない」


「私も降りませんからね」


「お前は乗ってないだろ」


「そうでした」


 これでいい。


 芳江はホームへ戻った。


 窓越しに信夫を見る。


 ちゃんと座っている。


 バッグもある。


 財布もある。


 靴も履いている。


 信夫が窓越しに手を上げた。


 芳江も手を振った。


 扉が閉まる。


 新幹線がゆっくりと動き始めた。


 芳江はその場から動かず、最後尾が見えなくなるまで見送った。


「……行った」


 本当に行った。


 五日目にして、ようやく夫が大阪へ向かった。


 芳江は肩の力を抜いた。


 家に戻ると、お茶を淹れた。


 久しぶりに静かだった。


 電話も鳴らない。


 玄関も開かない。


 誰かを探しに町を歩き回る必要もない。


 今日は夕方までゆっくりできそうだった。


 芳江はソファに座り、お茶を一口飲んだ。


「やっと行ったわね……」


 そのときだった。


 玄関の扉が開いた。


「ただいま」


 芳江の手が止まった。


 聞き覚えのある声だった。


 いや、聞き覚えしかない。


 ゆっくり玄関へ向かう。


 信夫が立っていた。


「……あなた?」


「おう」


「どうしたんですか?」


「忘れ物した」


「忘れ物?」


 芳江は信夫を上から下まで見た。


「財布、持ってましたよね?」


「ある」


「携帯も?」


「ある」


「切符は?」


「ある」


「メモ」


「ある」


「バッグは?」


「ある」


「じゃあ、何を忘れたんです?」


 信夫は少し黙った。


 そして言った。


「お前」


 芳江も黙った。


「……私?」


「ああ」


「どういうことです?」


「新幹線乗ってから思い出した」


「何を?」


「親戚に、お前も一緒に連れてこいって言われてた」


「……いつ?」


「最初から」


 芳江は何も言わなかった。


 靴を探した。


 指定席を無駄にした。


 一本道で迷子になった。


 駅へ送った。


 東京へ行った。


 大宮まで行った。


 ホテルにも泊まった。


 静岡で荷物だけ大阪へ送りかけた。


 そして今日、五日目。


 そのすべてが頭の中を通り過ぎた。


「最初から……私も行くことになってたんですか?」


「そうみたいだな」


「そうみたい、じゃありませんよ」


「忘れてたんだから仕方ないだろ」


 芳江はしばらく信夫を見つめた。


 そして、ふっと笑った。


「本当に、昔から変わりませんね」


「何が?」


「忘れっぽくて、そそっかしくて。人の話も半分くらいしか聞いてなくて」


「そこまでじゃないだろ」


「そこまでですよ」


 でも。


 昔から、この人はこうだった。


 頼りになるところもあれば、どうしようもなく抜けているところもある。


 どこへ行くか分からないから、つい後ろをついていきたくなる。


 そんな人だと知っていて。


 それでも好きになって、一緒になったのだ。


 今さら変わってもらおうとは思わない。


「それで、どうするんです?」


「一緒に行くか?」


「行きますよ」


「そうか」


「そのために戻ってきたんでしょう?」


「まあな」


 芳江はもう一度ため息をついた。


 けれど、今度のため息には少し笑いが混じっていた。


「ちょっと待っててください。支度しますから」


「早くしろよ。電車なくなるぞ」


「誰のせいで五日目になったと思ってるんですか」


 芳江は自分の荷物を用意した。


 今度は二人で家を出た。


 信夫が先に歩く。


 最初の角で右へ曲がろうとした。


 芳江が腕を引いた。


「そっちじゃありませんよ」


「そうだったか?」


「こっちです」


 二人で駅へ向かう。


 今度は信夫も迷わなかった。


 正確には、迷いそうになるたびに芳江が止めた。


 駅に着き、二人で新幹線に乗った。


 信夫が窓の外を眺めながら言った。


「やっぱり二人の方が楽だな」


「そうでしょうね」


「最初からこうすればよかったな」


「本当にそうですね」


 芳江は笑った。


 しばらくして、信夫が乗り換えのメモを取り出した。


 じっと眺める。


「なあ」


「なんです?」


「俺たち、どこ行くんだった?」


 芳江は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、とうとう声を出して笑った。


「大阪ですよ」


「ああ、そうだった」


「今度こそ大阪ですよね?」


「大丈夫だ。お前がいるからな」


 芳江はまた笑った。


 新幹線は、今度こそ二人を乗せて大阪へ向かっていた。


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