第78話 利己的な休息と奉仕の代償
梅雨前線が一時的に北上し、東京は蒸し暑い曇天に覆われていた。
午前10時。渋谷区桜丘町、『レオ・キャピタル』のオフィス。
休日だというのに、会議室には異様な熱気が渦巻いていた。
「……というわけで、着メロサイトの初期ラインナップはこれで確定だ。J-POPの上位20曲、洋楽の定番、そしてアニメソング。全方位をカバーする」
俺は、ホワイトボードに書き出した曲目リストを指し示した。
集まったのは、俺が選んだ精鋭たちだ。
システム周りを統括する城戸隼人。金髪にピアスという外見だが、その指先が生み出すコードは芸術的に美しい。彼は今、俺の指導の下でサーバー管理の実務を叩き込まれている。
アートディレクション担当の白鳥恒一。ボサボサの髪に絵の具のついたシャツ。だが、彼が描くドット絵の待受画像は、小さな液晶画面の中で宝石のような輝きを放っている。
プロモーションの顔となる天童くるみ。変装用のキャップを脱ぎ、真剣な眼差しで資料を見つめている。彼女自身の新曲も、サイト限定で先行配信する予定だ。
そして、人材管理と現場の調整役として新たに加わった早坂涼。
「へぇ……。ヤクザの更生支援の次は、音楽配信かよ。相変わらず手広くやってるねぇ、ボンは」
涼さんは呆れたように笑いながらも、手際よく資料を整理している。彼女の持つ「姉御肌」の統率力は、個性の強すぎるメンバーをまとめる接着剤として機能している。
「全ては繋がっていますよ。インフラ、コンテンツ、そして人。……この夏、我々は渋谷の携帯文化を塗り替えます」
俺の宣言に、全員が力強く頷いた。
ビジネスという名の戦争。だが、信頼できる仲間と共に挑むそれは、決して孤独な戦いではない。
昼過ぎにオフィスを出た俺は、神田神保町へと向かった。
母・ソフィアと姉・摩耶との待ち合わせだ。
「Leo! こっちよ!」
すずらん通りの入り口で、母が大きく手を振っていた。女優オーラを隠すためのサングラスが、逆に怪しさを増幅させている。
「ごめんね玲央、付き合わせちゃって。マミーがどうしても日本の古本屋街を見たいって聞かなくて」
姉が苦笑する。
俺たちは古書センターや老舗の書店を巡った。母は浮世絵の画集や、古い映画のポスターに歓声を上げ、姉は大学のレポートに使えそうな文献を探している。
俺もまた、一冊の本を購入した。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』。昨日、図書室で借りた本だが、手元に置いて何度も読み返す価値がある「座右の書」として確保しておきたかったのだ。
神保町を散策した後、俺たちは渋谷へ戻った。
遅めのランチ。母のリクエストは、意外にも「ジャンクフード」だった。
「日本のハンバーガーは繊細で美味しいって聞いたわ! 食べてみたい!」
向かったのは、以前、隼人と大食い対決をしたハンバーガーショップだ。
「……トリプルチーズバーガーセット、サイズはLLで」
俺の注文に、姉が引いた。
「えっ、玲央……あんた、またそれ食べるの? さっきまで『生物の生存戦略』とか高尚な話してたのに?」
「脳のカロリー消費は激しいのです。それに、ここのパティはビーフ100%。タンパク質の塊ですよ」
41歳の精神は胃もたれを警告しているが、15歳の肉体は暴力的なまでのカロリーを渇望している。
俺は巨大なバーガーを押し潰し、豪快にかぶりついた。
肉汁とチーズの奔流。
「Oh! Leo, ワイルドね! セクシーだわ!」
母がまた変なスイッチを入れて喜んでいる。
家族との食事は、どんな高級フレンチよりも、俺の精神をリラックスさせてくれる。
帰りにレンタルショップに立ち寄り、昨日観た『L.A.コンフィデンシャル』と『ガタカ』を返却。新たに借りたのは、デヴィッド・フィンチャー監督のサイコサスペンス『セブン』と『ゲーム』だ。
『ゲーム』。富豪の男が、弟から贈られた奇妙なゲームに巻き込まれ、現実と虚構の区別がつかなくなっていく物語。転生という非日常を生きる俺にとって、この「操作された現実」というテーマは、背筋が凍るようなリアリティを持って迫ってくる。
梅雨の中休みが終わり、朝から激しい雨が降っていた。
俺は、桜花学園の教室にはいなかった。
学校をサボったのだ。
正確には、午前中の授業を「体調不良」として欠席届を出し、近くの純喫茶に籠もっていた。
理由は単純。今日の午前中のカリキュラム――体育の持久走と、自習に近い芸術鑑賞――が、今の俺にとって著しく生産性が低いと判断したからだ。
雨音とジャズが流れる店内で、俺は昨日買った『利己的な遺伝子』を開いた。
『生物は、遺伝子という不滅の自己複製子が、自らを増やすために作り出した乗り物に過ぎない』
冷徹なまでのリアリズム。
人間の愛も、献身も、すべては遺伝子の生存戦略として説明できるという視点。
「……だが、人間には『ミーム』がある」
俺はコーヒーを啜りながら独りごちた。
生物学的な遺伝子に逆らい、理性的であろうとする意志。あるいは、血の繋がらない他者のためにリスクを背負う自己犠牲。
それこそが、人間を人間たらしめている要素ではないか。
俺がマナや隼人、そしてくるみを助けるのは、遺伝子の命令か? それとも、俺自身の意志か?
答えの出ない問いを反芻しながら、俺は静かな時間を過ごした。
夕方。
俺は制服に着替え、学校帰りを装ってある場所へ向かった。
桜木マナの新しいバイト先だ。
彼女は先日、「カフェのバイト」と言っていたが、詳しく聞くと、それは秋葉原を中心に流行り始めている「コスチュームカフェ」の一種――いわゆるメイド喫茶の走りとなる店だった。
場所は渋谷の雑居ビル。店名は『カフェ・ド・プリエ』。
エレベーターを降りると、そこは別世界だった。
クラシカルな内装。フリルのついたエプロンドレスに身を包んだウェイトレスたち。
だが、店内の空気は重かった。
「……どうしよう、どうしよう……!」
厨房の方から、悲鳴のような声が聞こえる。マナの声だ。
俺は客として席につくこともせず、カウンター越しに声をかけた。
「……桜木さん?」
「あ……! 西園寺、くん……!?」
マナが顔を上げた。彼女の顔は蒼白で、目には涙が溜まっている。
彼女は今、人手不足と本人の器用さを買われて、なんと高校生ながら「調理チーフ代理」を任されているという。
だが、それが仇となった。
「……発注ミスしちゃったの……。今日のパーティー予約用のメイン食材、ローストビーフ用の肉が……届いてないの……!」
業者の手配漏れか、マナの記載ミスか。いずれにせよ、あと1時間で20名の団体客が来る。今から買い出しに行っても、塊肉をローストして冷ます時間は到底足りない。
店長は不在。他のスタッフもパニック状態だ。
「……終わった。私、クビだ……お店に迷惑かけちゃった……」
マナがその場に崩れ落ちそうになる。
俺は腕時計を見た。17時15分。
「……泣いている暇があったら、手を動かしなさい」
俺は静かに、しかし力強く言った。
「え……?」
「携帯を貸して。……大丈夫、まだ間に合う」
俺はマナのPHSを受け取らず、自分の携帯を取り出した。
連絡先は、西園寺財閥が資本参加している恵比寿の『ウェスティンホテル東京』。その総支配人室への直通回線だ。
『……はい、総支配人室です』
「西園寺です。……急ぎで頼みがある。バンケット用のローストビーフ、ストックがあるだろう? 3キロほど、今すぐ渋谷の『カフェ・ド・プリエ』に回してくれ。……ああ、支払いは私の個人口座からでいい。最高級のやつを頼む」
電話を切る。
「……え? え?」
マナが呆然としている。
「30分で届きます。ホテル仕様の、完璧に仕上がったローストビーフがね。……君はそれを受け取り、綺麗にカットして盛り付けるだけでいい」
「ほ、ホテルって……ウェスティン!? そんなの、私……!」
「『知り合い』に無理を言いました。……今回は特別です」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「ミスは誰にでもあります。重要なのは、その後のリカバリーだ。……君は調理チーフでしょう? 堂々としていなさい」
「……う、うん……! うぅ……!」
マナの目から、大粒の涙が溢れ出した。それは絶望ではなく、安堵の涙だった。
30分後。
ホテルのロゴが入った保冷車が到着し、銀色のトレイに乗った最高級ローストビーフが搬入された。
その肉質の良さと、プロの焼き加減に、店内からは歓声が上がった。
パーティーは大成功に終わった。
客たちは「ここの料理はレベルが違う!」と絶賛し、マナは涙目で、しかし誇らしげに微笑んでいた。
帰り道。
「……ありがとう、西園寺くん。本当に、ありがとう……」
何度も頭を下げるマナ。
「借りは出世払いでいいですよ。……君の作るハンバーグで返してください」
「うん……! 絶対、世界一美味しいの作るから!」
彼女の笑顔は、雨上がりの空のように澄み渡っていた。
俺は知っている。
この失敗と成功体験が、彼女をまた一つ、強くすることお。
利己的な遺伝子?
いや、誰かのために動くこの感情こそが、俺という個体の生存戦略なのかもしれない。




