第77話 ノイズの彼方とココアの温度
期末テストの足音が近づく週末の放課後。湿気を帯びた空気が澱む中、俺は、静寂を求めて図書室にいた。
窓際の席で、先日借りた『利己的な遺伝子』を読み進める。生物の行動原理をドライに解析するドーキンスの文章は、今の俺にとって心地よいBGMのようなものだ。
「……ふぅ」
カウンターの奥で、図書委員の高城藍が小さく息をついた。
返却されたハードカバーの専門書が山積みになったブックトラックを、彼女は華奢な腕で懸命に押そうとしている。だが、重量のある書籍の山は、摩擦係数に逆らってなかなか動こうとしない。
俺は本を置き、音もなく席を立った。
彼女の背後に回り込み、トラックのハンドルに手を添える。
「……手伝いますよ、高城さん」
「えっ……? あ、西園寺くん」
彼女が驚いて振り返る。
「どこへ運びますか?」
「あ、ありがとう……。奥の、社会科学の棚まで」
俺は軽く力を込め、トラックを滑るように押し出した。力任せではなく、重心を意識してベクトルを合わせれば、重い物体も驚くほど軽く動く。物理法則への理解は、肉体労働をも効率化する。
「……助かったわ。最近、重い本ばかり返却されて」
「知識の重みだと思えば、悪くはないでしょう」
俺たちが小声で言葉を交わしながら、書架の奥へと進もうとした、その時だった。
「うっわ、マジかよこのグラビア! エッロ!」
「おい翔太、声デカいって!」
「いいじゃん別にー。誰もいねーし」
静寂を切り裂くような、下品な笑い声。
入り口付近の雑誌コーナーを占拠しているのは、日向翔太とその取り巻きだ。彼らは漫画雑誌や週刊誌を広げ、我が物顔で騒いでいる。
翔太がオーバーアクションで身をよじった拍子に、積み上げられていた新着図書の山に肘が当たった。
――ドサドサドサッ!!
重厚な音が響き渡り、本が床に散乱した。
「うおっ!? ……あーあ、崩れちゃったよ」
翔太は悪びれもせず、ヘラヘラと笑いながら頭を掻いた。
「誰か片付けとけよー」
拾おうともせず、そのまま雑誌に視線を戻そうとする。
その瞬間、隣にいた藍の表情から、一切の感情が消え失せた。
彼女は無言で歩み寄ろうとしたが、俺が片手でそれを制した。
「……俺がやります。高城さんの手を汚す価値もない」
俺は翔太たちの前に行き、無言で散らばった本を拾い上げた。一瞥もくれない。ただ、そこに存在する「ノイズ」として処理する。
「あ? なんだよ西園寺。優等生ぶっちゃってさー」
翔太が絡んでくるが、俺は完全に無視して本を積み直した。そして、藍の方を向き、一冊の本――『マナーの歴史』を差し出した。
「高城さん。この本、分類コードが間違っていますね。修正をお願いします」
「……ええ。分かったわ」
藍は俺の意図を察し、冷徹な瞳で翔太たちを一瞥した。
「……日向。ここは図書室よ。動物園じゃないの。騒ぐなら出ていって」
「はぁ? なんだよその言い方!」
「『不快』だと言っているの」
藍の拒絶は決定的だった。そこには、クラスメイトとしての最低限の遠慮すらない。あるのは、有害な異物を排除しようとする冷ややかな意思だけだ。
俺たちは背を向け、静寂の奥へと戻っていった。
放課後。
俺は学園を出て、渋谷の宇田川町へと向かった。
目的地は『タワーレコード渋谷店』。
黄色地に赤のロゴが輝くこの巨大なCDショップは、1999年の若者文化の発信地そのものだ。
俺はカゴを手に取り、フロアを回った。
目的は「着メロ事業」のための選曲リサーチだ。ヒットチャートの上位曲はもちろん、これから来そうな洋楽、クラブミュージック、さらにはニッチなヒーリング音楽まで。
「……これも、これもだ」
俺は次々とCDをカゴに放り込んでいく。
宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、ドラゴン・アッシュ。さらに、クラシックの名盤や、環境音のサンプリングCDまで。
カゴはすぐに3つになった。
レジへと向かう。カウンターの中にいたのは、ショートカットの髪を無造作に遊ばせた、元気そうな女性店員だった。
ネームプレートには『星野』とある。
「いらっしゃいませー! ……って、うわっ! 何これ、業者?」
彼女――星野という名の店員は、俺が置いたカゴの山を見て目を丸くした。
「領収書をお願いします。宛名は『レオ・キャピタル』で」
俺は淡々とカードを提示した。
星野はバーコードを読み取りながら、興味津々な様子で俺の顔を覗き込んだ。
「ねーねー、君、高校生? 制服、桜花だよね?」
「ええ」
「ふーん。で、これ全部聴くの? 最新のJ-POPから……えっ、お経のCDまであんじゃん! 趣味バラバラすぎない!?」
彼女はケラケラと笑った。ハスキーで、よく通る声だ。客に対する態度としてはフレンドリーすぎるが、不思議と不快感はない。
「市場調査です。あらゆるジャンルの『売れる音』を分析する必要がありますので」
「市場調査ぁ? ……なんか、生意気なこと言うねぇ。音楽は分析するもんじゃなくて、楽しむもんでしょ?」
彼女は挑発的にニカッと笑い、手際よく商品を黄色い袋に詰めていく。
「……楽しむためには、まずその構造を理解する必要があります」
「はいはい、分かったよ博士。……あ、このUKロックのバンド、あたしも好きだよ。センスいいじゃん」
彼女は一瞬だけ真面目な顔で一枚のCDを指差し、すぐにまた営業スマイルに戻った。
「ありがとうございましたー! また来てね、変な常連さん!」
袋を受け取り、店を出る。
背中で彼女の「次の方どーぞー!」という元気な声が聞こえた。
……星野、か。
彼女が、天童くるみとは異なるベクトルで、この時代の空気を象徴する「原石」である可能性を、俺は直感的に感じ取っていた。
翌日。
午後から降り始めた雨は、夕方には本降りになっていた。梅雨寒という言葉が相応しい、肌寒い一日だ。
俺はビジネスの打ち合わせを終え、ハイヤーで渋谷駅前を通りかかった。
スクランブル交差点の信号待ち。
ふと、ハチ公前の広場に、見覚えのある姿を見つけた。
桜木マナだ。
彼女は傘もささずに、改札口の方をじっと見つめていた。
おしゃれをしたワンピースが雨に濡れ、肩が小刻みに震えているのが遠目にも分かった。
「……止めてくれ」
俺は運転手に指示し、車を降りた。
駅前のカフェに立ち寄り、テイクアウトのカップを二つ受け取る。雨の日は気温が下がる。温かい飲み物が恋しくなる頃合いだ。
熱を逃さないようカップを両手で持ち、俺は雨の中を歩き出した。
近づくと、彼女の様子が明らかになった。唇は紫色になり、手にはくしゃくしゃになった紙切れが握りしめられている。店の買い出しメモだ。
「……桜木さん」
声をかけると、彼女はビクリと震え、ゆっくりと振り返った。
「あ……西園寺、くん……」
その瞳は虚ろで、涙と雨が混じり合っていた。
「どうしました。待ち合わせですか?」
「……うん。翔太くんと、お店の買い出し行く約束してて……。『荷物持ちしてやるよ』って言ってくれたから……。でも、来なくて……電話も繋がらなくて……」
彼女は消え入りそうな声で言った。
その時、彼女のPHSが鳴った。メールの着信音だ。
彼女は震える指で端末を開く。
『わり、寝過ごした! 雨ダルいし、また今度埋め合わせするから!』
短い文面。謝罪の言葉はあるが、誠意のかけらもない。数時間、雨の中で待ち続けた彼女に対する配慮など微塵もない。
マナの手から、PHSが滑り落ちそうになった。
「……そっか。寝てたんだ……。私、ずっと……」
彼女の糸が切れかけた、その時。
俺は無言で、持っていたホットココアのカップを、彼女の冷え切った両手に握らせた。
「ひゃっ……! ……あったかい……?」
「……偶然通りかかって、買ったものの余りです。飲みなさい」
俺は嘘をつき、着ていたジャケットを脱いで彼女の濡れた肩にかけた。
「……西園寺くん、濡れちゃうよ……」
「構いません。僕は代謝が良いので」
冷たい雨がシャツを濡らすが、今の彼女の心の寒さに比べれば、どうということはない。
「……ありがとう。……すごく、あったかい」
マナは両手でカップを包み込み、一口飲んだ。
甘い温度が、凍りついた彼女の心を少しずつ溶かしていく。
「送ります。風邪を引いたら、店の再建に関わりますからね」
「……うん。ごめんね、いつも……」
彼女は俺のジャケットを強く握りしめた。その横顔には、翔太への諦めと、俺への信頼が混在していた。
あの日向翔太という男は、もはや「子供」ですらない。「有害なノイズ」だ。彼女の世界から完全に排除する時が来たようだ。
マナを送り届けた後、俺は一度帰宅し、すぐに夕食の準備に取り掛かった。
濡れた体をシャワーで温め、着替えてキッチンに立つ。
今日、母・ソフィアと姉・摩耶のために用意するのは、極上の「居酒屋メシ」だ。
メインは『イカのバター醤油焼き』。
使用するのは、今が旬の「スルメイカ」。胴体は輪切りにし、足は食べやすい大きさにカットする。
さらに『新ゴボウのきんぴら』。
泥付きの新鮮なゴボウをささがきにし、水に晒してアクを抜く。
まずはきんぴらから。
ごま油を熱し、ゴボウと人参を強火で炒める。透き通ってきたら、鷹の爪、砂糖、酒、醤油を加える。水分を飛ばすように炒り煮にし、最後に白ごまを振る。シャキシャキとした食感と、土の香りが食欲をそそる。
次にイカだ。
フライパンにバターを溶かし、イカを投入する。強火で一気に火を通す。イカは火を通しすぎると硬くなる。勝負は一瞬だ。
色が変わった瞬間に、醤油を回し入れる。
――ジュワァァッ!!
バターの甘い香りと、焦げた醤油の香ばしさが融合し、暴力的なまでの芳香がキッチンに爆発する。
最後に七味唐辛子を少し振り、青ネギを散らす。
「ただいまー! ……うわ、何この匂い! 反則!」
「Leo! ビール! ビール冷えてる!?」
鼻をひくつかせながら帰ってきた姉と母が、ダイニングに雪崩れ込んでくる。
「用意してありますよ。『ヱビス』のロング缶が」
テーブルには、黄金色に輝くイカ焼きと、艶やかなきんぴら、そして炊きたての魚沼産コシヒカリ。
「いただきまーす!」
プリプリのイカを頬張る。バターのコクと醤油の塩気が、淡白なイカの旨味を極限まで引き立てている。
そこに、冷えたヱビスを流し込む。
「……くぅぅーっ! 最高!」
姉がオヤジのような声を上げる。母も優雅に、しかしハイペースで箸を進めている。
「きんぴらも美味しいわ! この歯ごたえ、止まらない!」
外の雨音を忘れるほど、温かく、賑やかな食卓。
マナの悲しげな顔も、翔太への怒りも、この湯気の中に溶けていくようだ。
深夜。
家族が寝静まった後、俺は自室のシアタールームで、借りてきたDVDを再生した。
『L.A.コンフィデンシャル』。
1950年代のロサンゼルスを舞台に、3人の刑事が警察内部の腐敗と巨大な陰謀に挑む、極上のクライム・サスペンスだ。
ラッセル・クロウ演じる暴力刑事、ガイ・ピアース演じるエリート刑事、そしてケビン・スペイシー演じる世渡り上手の刑事。
正義のあり方も、手法も異なる彼らが、複雑に絡み合った伏線を解きほぐし、一つの真実にたどり着く様は圧巻だ。
「……ロロ・トマシ、か」
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一見無関係に見える事象が、実は一本の線で繋がっている。
俺の周囲で起きていることも同じだ。
翔太の堕落、神宮寺レイの暗躍、そして広域窃盗団ファントムの影。
これらは、バラバラのようでいて、どこかで繋がっているのかもしれない。
「……面白い。俺も、俺なりのやり方でパズルを解かせてもらおう」
俺はブランデーグラスを傾け、画面の中の刑事たちに乾杯した。




