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40代IT社長の俺がギャルゲーの悪役に転生したけど、主人公が頼りないので「大人の包容力」と「経済力」でヒロイン全員幸せにします  作者: U3


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第76話 非合理な市場と封印された刻

 梅雨の中休みも終わり、東京の空は再び厚い雲に覆われていた。湿度を含んだ風が、街路樹の緑を重く揺らしている。


 通学中のハイヤーの静寂な車内。俺は、シートに深く身を沈め、一冊の専門書に没頭していた。


『行動ファイナンス入門』。


 先日、紀伊國屋書店で購入したばかりの一冊だ。


 従来の経済学は「人間は合理的であり、市場は効率的である」という前提――効率的市場仮説――に基づいている。だが、現実の市場はそうではない。バブルが起き、暴落し、人々はパニックに陥る。


 この本は、そんな「人間の非合理性」を心理学的なアプローチで解き明かそうとするものだ。


「……プロスペクト理論、か」


 俺は万年筆を取り出し、興味深い一節に傍線を引いた。


 人間は、利益を得る喜びよりも、損失を被る痛みを大きく感じる。1万円もらう喜びより、1万円失うショックの方が2倍以上大きいという理論だ。だからこそ、人は損切りができず、含み損を抱えたまま破滅へと向かう。


「人間とは、なんと不完全で、愛すべき欠陥品なのだろうな」


 俺は本を閉じ、窓の外を流れる雨に煙る渋谷の街を眺めた。


 この街を行き交う人々もまた、感情という名のノイズに突き動かされ、非合理な選択を繰り返している。だが、だからこそそこに「歪み」が生まれ、俺のような投資家が利益を得る隙間が生じるのだ。


 3限目、政治経済。


 教壇に立つ教師は、黒板に需要と供給の曲線を書きながら、教室を見渡した。


「……さて。アダム・スミスは『見えざる手』によって市場は自動的に調整されると説いた。だが、現実には市場の失敗が起こる。西園寺、情報の非対称性が市場に与える影響について、レモン市場を例に挙げて説明できるか?」


 唐突な指名。だが、俺は手元のノートから顔を上げ、静かに席を立った。


「はい。売り手と買い手の間に情報格差がある場合、買い手は品質の悪い商品レモンを掴まされることを恐れ、低い価格しか提示しなくなります。結果、良質な商品ピーチが市場から駆逐され、粗悪品ばかりが出回る『逆選択』が発生します。これを防ぐためには、品質保証やブランドといったシグナリング、あるいは第三者機関によるスクリーニングが必要不可欠となります」


 俺は淀みなく答えた。中古車市場を例にしたジョージ・アカロフの理論だ。


「……完璧だ。相変わらずだな」


 教師は満足げに頷き、授業を再開した。


 着席すると、隣の席の城戸隼人が「また呪文唱えてるよ……」と呆れたように囁いた。俺は小さく肩を竦めた。これは呪文ではない。世界を記述する数式だ。


 昼休み。


 俺は喧騒を避け、図書室へと足を運んだ。


 貸出カウンターには、いつものように高城藍が座っている。彼女は分厚いハードカバーの本に視線を落としていたが、俺の気配に気づくと、パタリと本を閉じて顔を上げた。


「……いらっしゃい、西園寺くん」


「こんにちは、高城さん。本の返却を」


 俺は鞄から2冊の本を取り出した。『猫の行動学』と『吾輩は猫である』。先月借りてから、貸出延長手続きを経て十分に堪能させてもらった。


「……猫、勉強になった?」


 藍は少しだけ口角を緩め、手際よくバーコードを読み取った。迷い猫の一件以来、彼女の俺に対する態度は随分と柔らかくなった。


「ええ。猫の行動原理が生存戦略に基づいていること、そして人間社会がいかに猫の目に滑稽に映るか、よく理解できました」


「ふふ。……漱石先生の皮肉、西園寺くんには共感できるかもね」


 彼女は小さく笑った。その笑顔は、図書室の静謐な空気に溶け込むように美しい。


「さて、今日は何を借りるの?」


「これをお願いします」


 俺がカウンターに置いたのは、新たに書架から選んだ2冊だ。


 リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』。生物の行動を遺伝子の生存戦略として解き明かした、冷徹かつ美しい科学書。

 そしてもう一冊は、ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』。数学、芸術、音楽を横断しながら「自己言及」の不思議に迫る、知的遊戯の極致とも言える奇書だ。


「……また、可愛げのない本ばかり選ぶのね」


 藍は呆れたように眉を寄せたが、その瞳には知的な好奇心が光っていた。


「高城さんが読んでいるドストエフスキーよりは、幾分かポップだと思いますが?」


「……一言多いわよ」


 彼女はスタンプを押し、本を渡してくれた。指先が触れる一瞬、微かな温もりが伝わる。言葉少なだが、確かに通い合う知性の交流。悪くない時間だ。


 放課後。


 俺は渋谷の『TSUTAYA』に立ち寄った。


 映画鑑賞は、他人の人生を追体験する最も効率的な手段だ。


 まずは返却カウンターへ。『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』と『トゥルーマン・ショー』。どちらも名作だった。特に後者は、作られた世界で生きる主人公の姿が、転生者である今の俺の状況と奇妙にリンクして、心に残った。


「さて、週末に向けて仕入れるか」


 俺は新作・準新作の棚を巡った。


 手に取ったのは『ガタカ』。

 遺伝子操作された「適正者」が支配する未来で、自然受精で生まれた「不適正者」の主人公が、DNAデータを偽装して宇宙飛行士を目指すSFサスペンスだ。1998年に日本で公開され、静かな感動を呼んだ傑作である。


 そしてもう一本は『L.A.コンフィデンシャル』。

 90年代最高峰とも称されるクライム・サスペンス。複雑に絡み合った伏線がラストで一気に収束するカタルシスは、ビジネスのスキーム構築における美学にも通じるものがある。


「……『偽りの身分』と『伏線』か。今の俺に相応しいテーマだ」


 俺は2本のVHSをカウンターへ持ち込んだ。


 TSUTAYAを出た後、俺はハイヤーで大手町へと向かった。


 目的地は、メインバンクの本店。その地下にある貸金庫室だ。


 広域窃盗団「ファントム」が暗躍する今、自宅に高額資産を置くのは愚策だ。セキュリティを強化したとはいえ、家族を巻き込むリスクは極限までゼロに近づけなければならない。


 厳重な本人確認を経て、個室ブースに入る。


 係員が運んできた深緑色の化粧箱を受け取る。信頼できるディーラーから、直接ここへ配送させたものだ。


 蓋を開けると、そこには銀色のステンレススチールが鈍い輝きを放つ腕時計が鎮座していた。


『ROLEX COSMOGRAPH DAYTONA Ref.16520』。


 ゼニス社の傑作ムーブメント「エル・プリメロ」をベースにした、自動巻きクロノグラフの最高峰だ。


 俺は手袋をはめ、慎重に時計を取り出した。


 文字盤は黒。ケースサイドと裏蓋には、緑色のホログラムシールが貼られたままだ。ブレスレットのコマ調整も行われていない、完全な「未使用品」。


 1999年現在、このモデルは生産終了が噂されており、市場価格はじわじわと上がり始めている。だが、俺が見ているのはもっと先だ。


 2000年のモデルチェンジにより、この「エル・プリメロ搭載」の最終モデルは伝説となる。特に、この「A番」や「P番」と呼ばれる最終シリアルのデッドストックは、25年後には現在の購入価格の10倍、いや20倍以上の価値を持つことになるだろう。


「……美しいな。だが、お前の出番は今じゃない」


 俺は時計を一度も腕に巻くことなく、再び箱に戻した。


 これは装飾品ではない。「時間を封じ込めた缶詰」であり、最強の実物資産だ。


 俺は眼の前の重厚な鋼鉄製の箱――貸金庫を開けた。


 そこには、先日退避させた40キログラムの金塊が、鈍い黄金色の光を放って鎮座している。


 その隣のスペースに、俺は緑色の箱を慎重に安置した。


「金の隣に、刻の封印か。……ここならファントムも手出しできまい」


 扉を閉め、施錠する。

 再び光を浴びるのは、俺が40代になった頃か、あるいは何かを守るために換金が必要になった時か。


 銀行を出て、ハイヤーで麻布十番へ戻る。夕食の食材を買うためだ。


 スーパーへ向かう途中、オープンテラスのあるカフェの前で、見覚えのある女性を見かけた。


「……柚木さん」


 柚木沙耶だ。今日の彼女は、アンニュイな色気のある黒のノースリーブニットに、ベージュのワイドパンツを合わせている。手には煙草ではなく、アイスコーヒーが握られていた。


「あら。……社長さん」


 彼女は俺に気づくと、少しだけバツが悪そうに、しかしどこか安堵したような表情で微笑んだ。


「奇遇ですね。大学の帰りですか?」


「ええ、まあね。……ちょっと、将来のこととか考えてて。黄昏てたところよ」


 彼女は大学2年生だ。親友の舞と同じ19歳だが、既に社会で活躍し、俺の秘書として確固たる地位を築いている舞に対し、自分はまだ学生というモラトリアムの中にいる。その対比が、彼女に漠然とした焦りを生ませているのだろう。


「隣、いいですか?」


「……どうぞ。15歳に慰められるのも、癪だけど悪くないわね」


 俺は彼女の向かいに座った。


「迷うのは、選択肢がある証拠です。袋小路に入っているわけじゃない」


「……相変わらず、理屈っぽい慰め方ね」


 沙耶さんは苦笑し、ストローを回した。


「でも、不思議ね。君と話してると、自分の悩みがちっぽけなパズルみたいに思えてくるの。……舞が君に心酔する理由、少しだけ分かる気がする」


「買い被りですよ。俺はただ、パズルの解き方を知っているだけです」


「……その自信が、生意気で可愛いのよ」


 彼女は俺の手の甲に、冷たいグラスを軽く押し当てた。


「冷たっ」


「ふふ。……ありがと、レオくん。少し元気出た」


 彼女の瞳から、少しだけ澱みが消えたように見えた。俺たちは他愛のない世間話をして、それぞれの帰路についた。


 帰宅後。


 リビングは、母・ソフィアと姉・摩耶の笑い声で満たされていた。


「Leo! おかえりなさい! 今、テレビですごいクイズやってるのよ!」


「おかえり玲央! これ見てよ、全然わかんない!」


 二人が見ているのは、木曜夜の人気番組『マジカル頭脳パワー!!』だ。画面の中では、パネラーたちが連想ゲームやひらめきクイズに悪戦苦闘している。


「ただいま、母さん、姉さん。……どれどれ」


 俺は買ってきた食材をキッチンに置き、ソファの背もたれ越しに画面を覗き込んだ。


『あるなしクイズ』。

「『コブ』にあって『キズ』にない。『カメ』にあって『ツル』にない。『オペ』にあって『入院』にない……」


「ええー? 何かしら。コブとカメ……? 動物? でもオペって……?」


 母が真剣な顔で悩んでいる。世界的女優が眉間に皺を寄せてクイズに没頭する姿は、なんとも可愛らしい。


「……分かったわ! 『ラ』よ! コブ『ラ』!」


「おっ、鋭いですね母さん」


「えっ、どういうこと? コブラはわかるけど、カメは?」


 姉がキョトンとしている。


「後ろに『ラ』を付けると言葉になるんだよ、姉さん。『カメ』なら『カメラ』。『オペ』なら『オペラ』」


「あーーっ!! なるほど! カメラ! オペラ! ……うわー、悔しい!」


「Oh! Leo, あなた解説も上手ね! さすが私の息子!」


 ソフィアが俺を抱き寄せる。甘い香水の香り。


 他愛のないクイズ番組で一喜一憂する、穏やかな家族の時間。ビジネスの戦場で擦り切れた神経が、温かいお湯に溶けるように癒やされていくのを感じた。


 この笑顔を守るためなら、俺はどんな非合理なリスクも背負える。行動経済学の理論など、家族の前では無力だ。


 夕食後、家族が寝静まった深夜。


 俺は自室のシアタールームで、借りてきたDVDを再生した。


『ガタカ』。


 スクリーンの中で、主人公のヴィンセントは、遺伝子的に劣った「不適正者」でありながら、宇宙へ行くという夢を叶えるために、事故で半身不随となったエリート「適正者」ジェロームの生体IDを買い取る。


 血液、尿、皮膚片。あらゆる証拠を偽装し、完璧なエリートになりすます主人公。


 その姿は、痛々しいほどの執念に満ちている。


「……なりすまし、か」


 ブランデーグラスを傾けながら、俺は呟いた。


 俺もまた、偽っている。


 15歳の少年の皮を被り、41歳の精神を隠して生きている。未来の記憶という「不正解」を使って、成功者というIDを手に入れている。


 画面の中で、ヴィンセントは言う。


『僕に救えるのは僕だけだ』


 そして、彼にIDを提供したジェロームは、自らの銀メダルを見つめながら炎の中に消えていく。


 運命は遺伝子では決まらない。だが、その運命を覆すために必要な代償は、あまりにも重い。


 エンドロールが流れ、ジュード・ロウ演じるジェロームの最期が脳裏に焼き付いて離れない。


「……俺は、どこまで演じきれるだろうな」


 俺はグラスに残った琥珀色の液体を飲み干した。


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