第53話 衣替えの白と試着室の密約
6月1日。衣替えの日。
湿気を帯び始めた東京の空気が、夏服の白さによって一瞬だけ爽やかに浄化される朝。
私立桜花学園の校門をくぐる生徒たちは、冬服のブレザーを脱ぎ捨て、白いワイシャツやブラウスに袖を通していた。
視界に広がる「白」の面積が増えるだけで、学園全体の色彩が変わったように感じる。これもまた、集団心理に作用する視覚効果の一つだ。
2限目、倫理。
窓から入る風がカーテンを揺らす教室で、哲学担当の老教師が静かに問いを投げかけた。
「……さて。サルトルは『実存は本質に先立つ』と説いた。人間はまずこの世に存在し、その後に自らのあり方を決定していくという意味だが、この思想が現代社会において持つ意義について、君たちの言葉で説明できる者はいるか?」
重い問いだ。
単なる知識の披露ではなく、自身の生き方と照らし合わせた解釈が求められている。
クラスメイトたちが視線を逸らす中、教師の目は迷うことなく俺の席へと向けられた。
「西園寺くん。君ならどう考える?」
俺は、夏服のワイシャツの襟を正し、静かに席を立った。
41歳の記憶を持つ俺にとって、この問いは「転生」という現象そのものへの問いかけにも等しい。
「はい。サルトルが否定したのは、あらかじめ決められた『運命』や『役割』に縛られる生き方です。現代社会において、私たちは生まれや環境、あるいは『キャラ』といったレッテルを貼られがちですが、それらは後天的に覆すことが可能です。……つまり、人間は何にでもなれる自由を持ち、同時にその自由に対して全責任を負うという『覚悟』こそが、現代を生きる我々に必要な指針であると考えます」
俺は淀みなく答えた。
教師は深く頷き、感嘆の息を漏らした。
「……自由への覚悟、か。15歳にしてその境地に達しているとは。素晴らしい」
着席すると、隣の城戸隼人が半袖から覗く筋肉質な腕を組み、「お前、マジで人生何周目だよ……」と呆れたように囁いた。
俺は小さく肩を竦める。
2周目だとは、口が裂けても言えない。
放課後。
俺は姉の摩耶に呼び出され、表参道に来ていた。
「夏服が欲しいから付き合いなさい!」という理不尽な命令だが、スポンサーを連れ回したいだけなのは明白だ。
そして、そこにはもう一人、スペシャルゲストがいた。
「よっ! 久しぶりね、レオ」
天童くるみだ。
今日の彼女は、変装用の黒縁メガネとキャスケットを被っているが、その下から覗く圧倒的な小顔と、モデルのようなプロポーションは隠しようがない。
白のノースリーブニットに、流行りのカプリパンツ。
肌の露出は控えめだが、ボディラインの美しさが際立っている。
勝気でキュートな美貌は、表参道の洗練された空気の中でも一際輝いていた。
「こんにちは、くるみさん。……今日はオフですか?」
「うん。CM撮影も終わったし、ちょっと息抜き。摩耶に誘われたの」
「そ。レオの財布を当てにしてるわけじゃないからね! ……たぶん」
姉の摩耶が、悪戯っぽく笑いながら俺の腕に絡みついてくる。
今日の姉は、パステルブルーのサマードレスを着ている。
愛らしいルックスは、黙っていれば深窓の令嬢そのものだ。中身が残念なブラコンでなければ、もっとモテるだろうに。
俺たちはブランドショップが立ち並ぶ通りを歩き、とある高級ブティックに入った。
姉が「これ可愛い!」と次々に服を手に取り、試着室へと消えていく。
店員にチヤホヤされながらファッションショーを繰り広げる姉を、俺とくるみさんはソファに座って待っていた。
「……ねえ、レオ」
ふいに、くるみさんが声を潜めて言った。
姉が試着室に入り、カーテンが閉まった瞬間を見計らったかのようなタイミングだ。
「はい?」
「あんたさ……昨日、何してた?」
「昨日ですか? 学校に行って、その後は……」
言いかけた俺の言葉を遮り、くるみさんが立ち上がった。
そして、俺が座っているソファに詰め寄り、両手をついて俺を囲い込んだ。
いわゆる「壁ドン」、いや「ソファドン」の体勢だ。
至近距離。
彼女の大きな瞳が、俺を逃さないと言わんばかりに覗き込んでくる。
甘い柑橘系の香水の匂いが、鼻孔をくすぐる。
「……とぼけないでよ。見たんだから」
「何を、でしょう」
「昨日! 渋谷で! ……なんかフワフワした女の子と、楽しそうに歩いてたじゃない!」
彼女は少し頬を膨らませ、拗ねたような表情を見せた。
なるほど。花村結衣先輩とのソニプラデートを目撃されていたのか。
変装していたとはいえ、渋谷のど真ん中だ。誰に見られていてもおかしくはない。
「……ああ、花村先輩のことですね。彼女が買い物をしたいと言うので、少し付き合っただけですよ」
「ふーん。……『付き合っただけ』にしては、随分とデレデレしてたみたいだけど?」
「デレデレなどしていません。エスコートしていただけです」
「嘘おっしゃい! ……あんた、あの子みたいな天然系が好みなわけ?」
嫉妬。
その感情が、彼女の言葉の端々から滲み出ている。
ただの仕事の打ち合わせならいざ知らず、プライベートで他の女性と親しくしていたことが、彼女の独占欲を刺激したようだ。
18歳のトップアイドルに詰め寄られる15歳の社長。
傍から見れば羨ましいシチュエーションだが、彼女の目は笑っていない。
俺は動じることなく、ゆっくりと顔を近づけた。
彼女が「っ……」と息を呑み、わずかに身を引く。
その隙を逃さず、俺は静かな、しかし確信に満ちた声で囁いた。
「……くるみさん。嫉妬ですか?」
「は、はぁ!? 違うわよ! オーナーの素行調査よ!」
「そうですか。……光栄ですね」
俺は彼女の瞳を見つめ続けた。
「僕が誰と歩こうと、僕が見ている未来には、常にくるみさんがいます。……くるみさんという最高傑作を、誰よりも輝かせること。それが僕の最優先事項ですから」
「……っ!」
くるみさんの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
反論しようと口を開きかけ、言葉にならずに閉じる。
その可愛らしい反応に、俺は口元を緩めた。
「……それに、昨日の彼女はただの先輩です。僕が『特別』扱いして携帯を渡したのは、世界で一人だけですよ」
「……卑怯。そういうとこ、ホント嫌い」
彼女は悔しそうに呟き、パッと身体を離した。
ちょうどその時、試着室のカーテンが開き、新しいドレスに着替えた姉が出てきた。
「じゃーん! どうかなレオ、くるみ! ……あれ? 二人とも顔赤くない?」
「き、気のせいよ! ほら、似合ってるわよ摩耶!」
くるみさんは慌てて姉の方へ向き直った。
その背中越しに、俺は小さく息を吐いた。
冷や汗をかいたが、悪くないスリルだ。
彼女の気持ちが俺に向いていることを確認できたのは、大きな収穫と言える。
買い物を終えた俺たちは、渋谷へと移動した。
「体動かしたい!」という姉の提案で、アミューズメント施設内にある卓球場へ。
1999年当時、卓球はまだ地味なスポーツという印象が強かったが、渋谷の最新スポットでは、ブラックライトの中でプレイするおしゃれな卓球が流行り始めていた。
「負けた人が夕飯奢りね! いきます!」
姉がサーブを打つ。
意外にも、フォームは綺麗だ。
俺とくるみさんがペアを組み、姉と対戦する変則ダブルス。
カコン、カコン、と軽快な音が響く。
くるみさんは運動神経が良い。ダンスで鍛えた反射神経で、鋭いスマッシュを決めてくる。
「はいっ! レオ、頼んだ!」
「任せてください」
彼女が拾ったボールを、俺が的確にコースを狙って打ち返す。
即席ペアだが、息はぴったりだ。
ハイタッチをするたびに、くるみさんの指先が俺の手に触れる。
そのたびに彼女が少し照れたように視線を逸らすのが、何とも言えず愛おしい。
「ちょっ、あんたたち! イチャイチャしてないで真面目にやりなさいよ!」
「してませんよ、姉さん。……ほら、隙だらけです」
俺は冷静に姉の逆をつくスマッシュを決めた。
結果は、俺たちペアの圧勝。
「もー! 二人がかりなんて卑怯よ!」
「ハンデを申し出たのは姉さんでしょう」
悔しがる姉を尻目に、俺とくるみさんは顔を見合わせて笑った。
ブティックでの緊張感とは違う、リラックスした空気。
このバランス感覚こそが、長く関係を続ける秘訣だ。
夕方。
姉とくるみさんを見送った後、俺は一人で渋谷の会員制スポーツジムへと向かった。
遊びでかいた汗とは違う、自分自身を鍛え上げるための汗を流すためだ。
トレーニングウェアに着替え、フリーウェイトエリアへ。
ベンチプレスで大胸筋を、スクワットで下半身を追い込む。
15歳の肉体は、負荷をかければかけるほど素直に成長する。
41歳の精神が悲鳴を上げそうになっても、肉体の若さがそれをねじ伏せる。
限界のその先へ。
1時間のワークアウトを終え、ラウンジで休憩を取る。
カウンターで受け取ったのは、よく冷えたスポーツドリンクだ。
アミノ酸とクエン酸が配合された、疲労回復に特化したスペシャルブレンド。
「……ふぅ」
一気に飲み干すと、乾いた細胞の一つ一つに水分が染み渡っていくのを感じる。
窓の外には、夕暮れの渋谷の街が広がっている。
今日一日、表参道での駆け引き、渋谷での遊戯、そしてジムでの鍛錬。
全てが俺の血肉となり、明日への活力となる。
ふと、ポケットの中の携帯電話を取り出し、着メロサイトのアクセス数を確認する。
右肩上がりのグラフ。
くるみさんを起用したCMの効果が出るのはこれからだが、予兆はすでに現れている。
「……悪くない」
俺は呟き、ジムを後にした。
ジムを出ると、大通りに黒塗りのハイヤーが静かに停まっていた。
後部座席に乗り込むと、冷房の効いた快適な空気が、火照った体を包み込んだ。
運転席には、秘書の如月舞が座っている。
「お疲れ様です、社長。……良い汗をかかれたようですね」
バックミラー越しに、舞の涼しげな瞳が俺を捉える。
今日の彼女は、いつものダークカラーではなく、季節に合わせたライトグレーのスーツを纏っていた。
インナーは白いシフォンブラウス。
素材が変わるだけで、彼女の持つ「陶器のような白さ」がより一層引き立ち、初夏の風のような清涼感を与えている。
19歳にしてこの完成された美貌は、夜の渋谷でも異彩を放っていた。
「ああ。適度な運動は思考をクリアにする。……舞も、衣替えか? よく似合っているよ」
俺が声をかけると、舞は一瞬だけ目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。……社長にお褒めいただけると、新調した甲斐があります」
「新調したのか。経費で落として構わないと言ったはずだが」
「いえ、これは私の個人的な楽しみですので。……社長のお目に叶うよう、自分なりに選ばせていただきました」
彼女は謙虚に言うが、そのセンスの良さは疑いようがない。
車が滑らかに発進する。
流れる夜景を眺めながら、俺はふと口を開いた。
「……今日は、姉さんとくるみさんと食事をしたよ」
「はい、予定表で把握しております。……天童様も、随分と元気になられたようですね」
「ああ。少し元気になりすぎて、俺に食ってかかってくるくらいだ」
「ふふ、社長に食ってかかる女性なんて、そうはいませんよ。……彼女なりの信頼の証でしょう」
舞の声には、嫉妬の色はなく、むしろ姉のように温かい響きがあった。
彼女は自分の立ち位置を完璧に理解し、俺の周囲の人間関係さえも肯定的に受け入れている。
その献身的な姿勢に、俺はいつも救われている。
「……舞。君とも、たまには息抜きが必要だな」
「社長のお役に立てる時間が、私にとっての休息です。……ですが」
彼女は信号待ちで振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「沙耶が言っていましたよ。『社長さんは最近モテ期だから、気を引き締めなさい』って」
「……柚木さんか。彼女には敵わないな」
俺は苦笑した。
舞と沙耶。タイプの違う二人の女性に見守られながら、俺の毎日は回っている。
それは、何にも代えがたい贅沢な時間だ。
帰宅後。
シャワーを浴びてリフレッシュした俺は、リビングの床に座り込んだ。
目の前には、作りかけの1000ピースのパズルが広がっている。
『ニューヨークの摩天楼』。モノクロームの写真だ。
空とビルの境界線が曖昧で、難易度は極めて高い。
無心になってピースを埋めていく。
今日、くるみさんに言った言葉。
『君という最高傑作を、誰よりも輝かせる』。
それは嘘ではない。本心だ。
だが、同時にそれは、彼女を俺のシナリオの中に閉じ込める「鎖」でもある。
俺は彼女を利用しているのか、それとも愛しているのか。
その境界線もまた、このパズルのように曖昧だ。
カチッ。
一つのピースが、吸い込まれるように嵌まった。
エンパイア・ステート・ビルの先端。
かつて俺が目指し、そして挫折し、再び目指そうとしている頂点。




