第44話 紙片の錬金術と鉄板の舞踏
日曜日の朝、俺はリビングのソファでコーヒーを飲みながら、テレビ画面に映し出される通販番組を眺めていた。
大げさな身振り手振りで商品の魅力を連呼する外国人司会者と、それに感嘆の声を上げる吹き替えの観客。
「高枝切り鋏」や「腹筋マシン」が飛ぶように売れるこの光景は、一見滑稽に見えるが、マーケティングの視点で見れば非常に興味深い。
「希少性の演出」「権威付け」「社会的証明」。
昨日読んだ『影響力の武器』の理論が、そのまま実演されている。
「……だが、俺が投資すべきは、この作られた熱狂の裏側にある『歪み』だ」
俺はテレビを消し、外出の準備を整えた。
今日は現場視察の日だ。
向かった先は、オタク文化の聖地・秋葉原。
駅を降りると、そこには独特の熱気が渦巻いていた。Windows 98の発売以降、自作PCブームが加熱し、同時にアニメ・ゲームショップには若者たちが群がっている。
俺はあるカードショップに入店した。
ショーケースの中には、『ポケモンカードゲーム』のレアカードが並んでいる。
日本では1996年の発売から3年が経過し、ブームは定着期に入っていた。子供たちが小遣いで買える価格で流通しており、手に入らないということはない。
「……やはり、日本市場は飽和しつつあるな」
俺は呟き、携帯電話を取り出した。
舞への直通回線だ。
「玲央様、おはようございます。昨日の件でしょうか?」
「ああ、舞。追加のオーダーだ。至急手配してほしい」
俺はショーケースのガラスに映る自分の顔を見つめながら、冷静に指示を出した。
「アメリカ市場で販売されているポケモンカードの英語版、その『第1弾』の未開封ボックスを買い占める」
「アメリカ、ですか?」
「そうだ。あちらではアニメ放映が始まったばかりで、爆発的なブームが起きている。だが、供給が追いついていない。……今の現地価格は、1ボックスで約100ドル。日本円にして11,000円から12,000円といったところだ」
当時の為替レートは1ドル=120円前後。
俺の手元には、運用可能な資金の一部がある。
「手元資金1,500万円のうち、500万円を投入する。これで約400ボックス確保できるはずだ。エージェントを使って現地のショップ、問屋から根こそぎ回収しろ」
「承知いたしました。……しかし、それほどの量をどうなさるおつもりで?」
「寝かせるんだよ、舞。これはただの紙切れじゃない。20年後には、ダイヤモンド以上の価値を持つ『資産』に化ける」
俺は確信を持って断言した。
未来において、初期版の未開封ボックスは数千万円、あるいは億単位で取引されることになる。
500万円の投資が、数十億円に化ける錬金術。
重要なのは保存状態だ。
「確保した在庫は、湿気のない暗所の倉庫で厳重に保管してくれ。シュリンクに傷一つつけないように」
「かしこまりました。玲央様の先見の明、信じて動きます」
通話を終え、俺は店を出た。
秋葉原の喧騒が、今は宝の山のファンファーレのように聞こえた。
午後、俺は視察を兼ねて渋谷へと移動した。
センター街は若者たちで溢れかえっている。
その雑踏の中で、見覚えのある制服の一団が目に入った。
日向翔太だ。
その傍らには、クラスメイトの高城藍と、桜木マナの姿がある。
どうやら偶然遭遇したようだが、翔太の態度は明らかに「チャンス」と捉えているようだった。
「おーい、藍! マナ! 奇遇だなー。これからカラオケ行かね? 俺が歌ってやるよ」
翔太はヘラヘラと笑いながら、二人の進路を塞ぐように立ちはだかった。
その無神経な距離の詰め方に、高城藍は露骨に眉をひそめている。
彼女はショートカットが似合う活発な美人だが、その瞳には翔太に対する軽蔑の色がはっきりと宿っていた。
「ちょっと日向、邪魔なんだけど。私たち買い物中なの」
「いいじゃんかよー。藍ちゃん最近冷たくね? マナもなんか言ってやれよ」
翔太は同意を求めるようにマナに目を向けた。
以前のマナなら、おどおどしながら翔太に従っていただろう。
だが、今の彼女は違う。
春風のような柔らかなボブヘアを揺らし、その大きな瞳で真っ直ぐに翔太を見据えた。
その立ち姿は、儚げな美少女から、芯の通った一人の女性へと脱皮しつつある美しさを湛えていた。
「ごめんね、翔太くん。私たち、この後予定があるから」
「はあ? 予定って何だよ。俺より大事な用事かよ」
「……ええ、大事な友達との時間だから」
マナは静かに、しかしきっぱりと告げた。
その言葉の重みに、翔太は言葉を詰まらせる。
「俺より大事なものがあるわけがない」という彼の歪んだ前提が、音を立てて崩れていく。
「行くよ、マナ」
「うん」
藍に促され、二人は翔太の脇をすり抜けて歩き出した。
取り残された翔太は、しばらく呆然としていたが、やがて苛立ちを隠せない様子で虚空を蹴り上げた。
日曜日、多くの若者で賑わう渋谷の真ん中で、彼は誰からも相手にされない道化師だった。
「……自業自得だな」
俺はビルの陰からその様子を見届け、静かに踵を返した。
マナの成長は順調だ。これなら、もう俺が過度に干渉する必要もないだろう。
喉の渇きを覚えた俺は、渋谷駅近くのジューススタンドに立ち寄った。
新鮮な果物をその場でミキサーにかけてくれるこの店は、ビタミン不足の現代人にとってのオアシスだ。
「『キウイ&アロエジュース』を一つ」
渡されたカップの中身は、鮮やかな翠緑色をしていた。
一口含むと、キウイの爽やかな酸味とアロエの独特な食感が口いっぱいに広がる。
5月の陽気で火照った体に、冷たい液体が染み渡っていく。
添加物まみれの清涼飲料水とは違う、生命力そのもののような味だ。
一息ついた俺は、そのままドラッグストアへと足を向けた。
柚木沙耶がアルバイトをしている店舗だ。
自動ドアをくぐると、店内の空気がひんやりと心地よい。
レジカウンターの奥に、彼女の姿があった。
白衣を身に纏い、棚卸しのリストをチェックしている横顔は、理知的でクールな美しさを放っている。
長い黒髪を後ろで束ね、眼鏡をかけたその姿は、まさに「知的なリケジョ」の理想形だ。
俺が近づくと、彼女は気配に気づいて顔を上げた。
俺を認めた瞬間、そのクールな表情がふっと緩み、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「あら、いらっしゃい。今日は何の視察? 若き社長さん」
「ただの買い物客ですよ、柚木さん。……少しお疲れのようですね」
俺は彼女の目元に、隠しきれない疲労の色を読み取った。
大学の講義、レポート、そしてアルバイト。彼女の日常は過密だ。
「まあね。昨日は舞に付き合って朝まで長電話しちゃったから」
「それは申し訳ない。俺の秘書がご迷惑を」
「ふふ、いいのよ。あの子が楽しそうに仕事の話をするの、嫌いじゃないから」
彼女は微笑みながら、手元の作業を再開しようとした。
俺は陳列棚を歩き、ある商品を持ってレジに戻った。
「これをください」
俺が差し出したのは、ドイツ製の高級入浴剤『クナイプ』のボトルだ。
香りはホップ&バレリアン。「グーテナハト」と銘打たれた、深いリラックス効果のある入浴剤である。
「……あら、いいお値段のやつ選ぶじゃない」
「柚木さんへの差し入れです。今日はこれでゆっくり温まってください」
「えっ……」
彼女は目を丸くし、それから少し頬を染めた。
「客が店員に商品を買ってプレゼントするなんて、新手のナンパ?」
「ただの福利厚生の一環だと思ってください。舞の親友である柚木さんが倒れたら、間接的に俺の業務にも支障が出ますから」
「……素直じゃないわね、相変わらず」
彼女は苦笑しながらも、その商品を大切そうに受け取った。
「ありがとう。使わせてもらうわ」という彼女の声は、先ほどよりも少し弾んで聞こえた。
ドラッグストアを出て、駅の方へ向かおうとした時だった。
スクランブル交差点の人混みの中で、一人の女性とすれ違った。
地味な色のカーディガンに、ロングスカート。手には分厚い参考書を抱えている。
「……涼さん?」
俺が声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。
早坂涼。姉の親友であり、教師を目指す女子大生だ。
普段の地味な服装に隠されているが、彼女の顔立ちは目鼻立ちのはっきりした正統派の美人だ。
ただ、その自信のなさそうな振る舞いが、彼女の輝きを薄いベールで覆ってしまっている。
「あ、レオ……! びっくりした、こんなところで会うなんて」
「奇遇ですね。勉強の帰りですか?」
「うん、図書館で教育実習のレポート書いてて……。アタシ、要領悪いからさ。人より時間かけないとダメなんだよ」
彼女は恥ずかしそうに参考書を抱え直した。
その謙虚さ、いや自己評価の低さは彼女の課題だが、同時に人を安心させる美徳でもある。
「時間をかけることは無駄ではありませんよ。涼さんのその誠実さは、きっと生徒にも伝わります」
「……そ、そうか? サンキュな、ボン。……でもさ、アタシ、ガラじゃねーし……上手く笑えてるか自信ねーよ」
彼女はポカンとした後、花が咲くように、しかし少し照れくさそうに笑った。
元不良という過去を持つ彼女だが、その笑顔には少女のような純粋さがある。
「ボンってさ、マジで中身ジジイなんじゃねーの? たまに人生3周目くらいに見えるんだけど」
「……失敬な。まだピチピチの15歳ですよ」
軽口を叩き合い、俺たちは駅までの短い距離を並んで歩いた。
彼女との会話は、ビジネスの戦場とは違う、穏やかな安らぎをもたらしてくれた。
帰宅後、俺はエプロンを締め、キッチンの前に立った。
今夜のメニューは「お好み焼き」と「焼きそば」。
いわゆる「粉もん」だが、俺が作ればそれは至高のキュイジーヌへと昇華する。
食材は妥協しない。
小麦粉は、製粉会社から直接取り寄せた最高級の薄力粉。
キャベツは春の甘みを蓄えた高原キャベツ。
そしてメインの豚肉は、脂の甘みが強い「平牧三元豚」のバラ肉を用意した。
まずは生地作りだ。
山芋をたっぷりとすり下ろし、出汁と共に粉に混ぜ込む。
空気を含ませるようにふんわりと混ぜるのがコツだ。ここで混ぜすぎるとグルテンが発生し、食感が固くなってしまう。
キャベツは粗めのみじん切りにし、食感を残す。
鉄板を200度に熱し、生地を流し込む。
ジュワーッという音と共に、香ばしい香りが立ち上る。
その上に豚バラ肉を隙間なく並べ、ひっくり返す。
ここからは我慢の時間だ。押さえつけず、豚の脂で生地を揚げ焼きにするようなイメージで火を通す。
その横で、焼きそばに取り掛かる。
麺は一度湯通ししてから鉄板へ。こうすることで麺がほぐれ、モチモチとした食感になる。
具材は豚肉とイカ、そしてたっぷりのもやし。
ソースは、ウスターソースとオイスターソース、そして隠し味に蜂蜜をブレンドした特製ソースだ。
一気に絡めると、甘辛い焦げた香りが部屋中に充満し、食欲を暴力的に刺激する。
「……よし」
お好み焼きが焼き上がった。
表面はカリッと、中はトロトロ。
特製ソースを塗り、マヨネーズを高い位置から細く網目状にかける。
鰹節と青のりを踊らせれば、完成だ。
俺はダイニングテーブルに料理を並べた。
ドリンクは二種類。
一つは、昔懐かしい瓶のラムネ。ビー玉を押し込む瞬間の清涼感と、炭酸の刺激が、お好み焼きの濃厚さをリセットしてくれる。
そしてもう一つは、最高級のビール『ヱビス』のロング缶。
黄金色の液体をグラスに注ぐと、きめ細やかな泡が盛り上がる。
(法律上は褒められたことではないが、自宅というプライベート空間での嗜みは大人の特権だ。精神年齢に肉体が追いついていないのが歯がゆいが、味覚はすでに成熟している)
「いただきます」
熱々のお好み焼きをヘラで切り、口へ運ぶ。
サクッ、フワッ、トロッ。
三段階の食感の後に、出汁の旨味と豚の脂の甘み、そしてソースのコクが波状攻撃を仕掛けてくる。
すかさずビールを流し込む。
ホップの苦味と麦のコクが、口内の脂を洗い流し、完璧な調和を生み出す。
「……最高だ」
焼きそばも絶品だ。モチモチの麺に絡むソースの香ばしさは、箸を止まらせない魔力がある。
合間に飲むラムネの甘さも、子供時代の夏祭りを思い出させ、ノスタルジックな気分にさせてくれる。




