第43話 影響力の武器と未完成の教師
5月の爽やかな風が吹き抜ける土曜の朝。本日は本来なら、第四土曜日で学校は休日のはずだが、創立記念日との兼ね合いで、半日授業が行われる予定だ。
俺は通学中の電車内で、一冊の分厚いハードカバーに視線を落としていた。
ロバート・B・チャルディーニ著『影響力の武器――なぜ、人は動かされるのか』。
人間の行動心理を「返報性」「一貫性」「社会的証明」「好意」「権威」「希少性」という6つの原理で解き明かしたこの名著は、ビジネスにおける交渉術のバイブルであると同時に、人間関係という不確定なゲームを攻略するためのルールブックでもある。
「……一貫性の原理。人は一度決定を下すと、その決定と一貫した行動を取ろうとする圧力を受ける」
俺は心の中で反芻する。
これは日向翔太や、彼を取り巻く環境にも当てはまる。一度「自分は特別だ」と思い込んだ人間は、現実がその認識を否定し始めても、無理やりつじつまを合わせようとして自滅していく。
逆に、桜木マナのように一度「変わる」と決めた人間は、その新しい自分に相応しい行動を取ろうと努力し、成長のスパイラルに入る。
「次は、渋谷駅――」
アナウンスが流れ、俺は本を鞄にしまった。
周囲の学生たちが週末の予定に浮き足立つ中、俺の脳内はすでに、数時間後に控えた「新たなビジネス」の構想で埋め尽くされていた。
1限目の授業が始まる直前、1年A組の教室は普段とは違う種類の熱気に包まれていた。
今日から3週間、教育実習生がやってくるという噂が駆け巡っていたからだ。
男子生徒たちが「美人だといいな」「女子大生だろ?」と無邪気な期待を膨らませる中、チャイムと共に担任が入ってきた。
そして、その後ろから一人の女性が姿を現した瞬間、教室中の空気が一変した。
息を呑むような、純白の衝撃。
年齢は20歳前後だろうか。艶やかな黒髪はストレートのロングヘアで、歩くたびにサラサラと清楚に揺れている。
肌は陶器のように白く透き通り、大きな瞳には意思の強さと、春の日差しのような優しさが同居していた。
グレーのタイトスカートのスーツは、彼女のスレンダーながらも健康的なスタイルを上品に引き立てている。
派手な装飾は一切ない。しかし、その素材の良さと内側から滲み出る「品格」は、クラスのどの女子生徒とも一線を画す、大人の女性としての圧倒的な美貌を放っていた。
「……すげぇ、本物の美人だ」
「女優みたいじゃん……」
男子たちの感嘆の声がさざ波のように広がる。
彼女は教壇の中央に立つと、緊張した面持ちで、しかし凛とした声で口を開いた。
「初めまして。皆さんと一緒に勉強させていただくことになりました、高村遥です。教科は現代文を担当します。未熟な点もあるかと思いますが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
深々とお辞儀をする姿からは、彼女の誠実さと「教師」という職業への真摯な想いが伝わってきた。
誰もが彼女に好感を抱き、敬意を払おうとした、その時だった。
「よっ! 遥姉ちゃん、久しぶり!」
空気を読まない大声が、静寂を切り裂いた。
声の主は、教室の中央付近に座る日向翔太だった。彼は椅子にふんぞり返り、まるで自分の手柄かのようにヘラヘラと手を振っている。
教室がざわめく。
「え、日向の知り合い?」
「姉ちゃんってどういうこと?」
困惑の視線が集まる中、高村実習生の顔が一瞬、強張った。
しかし、彼女はすぐに気を取り直し、教育者としての毅然とした態度で翔太に向き直った。
「日向くん。学校では『高村先生』と呼びなさい。ここは家ではありませんよ」
正論だ。公私の区別をつけるための、至極真っ当な指導。
だが、翔太にはその意図が通じない。
「えー、いいじゃん別に。ケチだなー」
彼は唇を尖らせ、つまらなそうに呟いた。
周囲の空気が急速に冷えていくのを、彼は感じ取れていない。
「TPO」という概念の欠如。
かつての「近所のお姉ちゃん」に対する甘えを、そのまま教室という公的な場に持ち込んでいるのだ。
(……救いようがないな)
俺は冷ややかに観察していた。
高村実習生の瞳の奥に、困惑と微かな失望の色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。
彼女は真面目だ。一生懸命に教師になろうとしている。
その神聖な職場を、かつての「可愛い弟分」に土足で踏み荒らされたのだ。この小さな違和感は、やがて修復不可能な亀裂へと成長するだろう。
2限目の英語の授業中、教師が意地の悪い難問を出題した。
大学入試レベルの文法事項を含んだ、誰も手を挙げないような問題だ。
教師の視線が教室内を彷徨い、そして俺のところで止まった。
「では、西園寺。この一節を訳し、そこで使われている仮定法のニュアンスを説明してみろ」
俺は静かに立ち上がった。
教科書を見るまでもない。
「はい。『もし彼がその時、真実を知っていたならば、歴史は変わっていたかもしれない』。ここでの仮定法過去完了は、事実とは異なる過去を想定するだけでなく、書き手の『歴史が変わらなかったことへの無念』や『運命の不可逆性』に対する嘆きが含意されています」
完璧な回答。さらに文脈の裏にある情感まで補足した解説に、教師は目を見開き、満足そうに頷いた。
「……正解だ。よく勉強しているな、座っていいぞ」
着席する際、視界の端で高村実習生が熱心にメモを取っているのが見えた。
彼女は教室の後ろで授業見学をしていたのだ。
俺と目が合うと、彼女は驚いたように、しかし感心したような表情で小さく会釈をした。
俺も礼儀正しく会釈を返す。
翔太が見せた「馴れ馴れしさ」とは対極にある、「知性と礼節」によるコミュニケーション。
彼女の中で、俺という存在が強烈にインプットされた瞬間だった。
放課後、俺は図書室へと向かった。
カウンターで借りていた『失敗の本質』と『影響力の武器』を返却する。
司書の女性は、高校生が借りるには渋すぎるラインナップに苦笑していたが、俺は気にせず新たに2冊の本を借りた。
『ロジスティクス管理入門』と『データベース設計の基礎』。
次のビジネスに必要な知識だ。
帰宅後、俺は自室のワークチェアに深く身を沈め、舞に電話をかけた。
土曜の午後だが、彼女はすでに俺の指示を受けて動いているはずだ。
「お疲れ様です、玲央様。ご指示の件、進捗はいかがでしょうか」
「あぁ、舞。例の2つのプロジェクトについて、詳細を詰めた。メモの用意はいいか?」
俺は机上のホワイトボードに書かれた数字と図式を眺めながら、淡々と、しかし熱を込めて語り始めた。
「まず一つ目。オンラインFX取引プラットフォームの構築だ」
【プロジェクトA:FX革命】
投資額:システム構築・銀行提携保証金として3,000万円。
戦略:現在、1ドル=122円前後。円安トレンドにあるが、既存の銀行の外貨預金は手数料が高すぎる。往復で数円も抜かれるのは詐欺に近い。
俺たちが提供するのは、スプレッドを極限まで狭めたリアルタイム取引だ。
マーケティング:「外貨預金より手数料が安い」「24時間取引可能」という殺し文句で、主婦層やサラリーマンをターゲットにする。
後に「ミセス・ワタナベ」と呼ばれることになる、日本の個人投資家たちの爆発的なエネルギーを、俺たちのプラットフォームで総取りする。
未来予測:この事業の利益率は凄まじい。数年で数百億円規模の企業価値を生むだろう。レバレッジ規制が入る前の「黄金時代」を支配する。
「システムは堅牢性が命だ。絶対に落ちないサーバーと、約定力の高いカバー先を確保しろ。金に糸目はつけるな」
「承知いたしました。優秀なエンジニアチームを編成済みです」
舞の回答は頼もしい。
そして、俺は二つ目のプロジェクトへと話題を移した。
「次は、もっと泥臭いが、確実に『足元の金』を拾うビジネスだ」
【プロジェクトB:ネット宅配買取&アービトラージ】
事業内容:「箱に詰めて送るだけ」のネット宅配買取サービス。特にトレーディングカード、ゲーム、古本に特化する。
立ち回り:物流拠点:埼玉や千葉など、地価の安い場所に巨大倉庫を借りる。大量のアルバイトを雇用し、物流のハブとする。
データベース構築:バーコードを読み取るだけで、市場価格に基づいた査定額が瞬時に出るシステムを開発する。当時のブックオフなどは店員の「目利き」に頼っていたが、俺たちは「データ」で勝負する。
仕入れ戦略:自社の着メロサイト利用者に「要らないゲームを売って、着メロ代を稼ごう」という広告を打つ。金のない若年層から、大量の在庫を安く仕入れることができる。
「そして、ここからが錬金術だ。仕入れた商品をどうすると思う?」
「……国内で再販、でしょうか?」
「それもやる。だが本命は『裁定取引』だ」
俺は手元のカードを一枚、指で弾いた。
『ポケモンカード』。
日本ではブームが定着し、おもちゃ屋に行けば定価で買える。
だが、海の向こうのアメリカでは、アニメ放映開始直後で爆発的なブームが起きているにも関わらず、供給が全く追いついていない。
「今、アメリカの『eBay』では、日本のポケモンカードが信じられない高値で取引されている。特に初期版のリザードンなどは、宝石並みの価値がつく」
「なるほど……。安く仕入れた日本の在庫を、海外のオークションで売るのですね」
「その通りだ。これは『駿河屋』のようなモデルを10年前倒しにしつつ、越境ECで利益を最大化する戦略だ」
為替でマクロ経済を支配し、物販でミクロの需要を刈り取る。
この両輪が回れば、俺の資産は桁が変わるだろう。
「完璧な布陣です、玲央様。すぐに手配いたします」
「頼んだよ、舞。……ああ、それと。今日から教育実習生が来ている」
「実習生、ですか?」
「高村遥という女性だ。真面目だが、少し『教師』という幻想に囚われすぎているきらいがある。……まあ、俺が気にかけることでもないが」
少しだけ含みを持たせて、俺は通話を切った。
夕方、気分転換に散歩に出た俺は、いつもの公園でベンチに座る天童くるみを見つけた。
彼女は深めの帽子を目深に被っていたが、そのオーラまでは隠しきれていない。
俺が隣に座ると、彼女はパッと顔を輝かせた。
「あ、レオ! お疲れ様」
「奇遇だね、くるみさん。仕事の帰り?」
「うん。今日は雑誌の取材だったの。レオのおかげで、最近すごく忙しくなっちゃって」
彼女は嬉しそうに、少しだけ疲れた表情で微笑んだ。
以前の「売れないアイドル」の悲壮感は消え、今はプロフェッショナルとしての自信が垣間見える。
彼女の顔立ちは、やはり美しい。派手なアイドルメイクを落とした素顔に近い状態でも、肌のきめ細やかさと目鼻立ちの整い方は、万人が振り返るレベルだ。
「忙しいのは良いことだけど、無理はしないで。君の健康は、事務所の、いや俺にとっての最重要資産だからね」
「もう、また『資産』とか言うー。……でも、ありがとう。レオと話すと、なんか安心する」
彼女はそっと俺の肩に頭を預けようとして、慌てて「あ、誰かに見られたらマズイよね」と身を引いた。
その仕草が愛らしく、俺は苦笑した。
「スキャンダル対策も完璧だね。……今度、栄養価の高い差し入れを持っていくよ」
「本当? レオの手料理、また食べたいな」
他愛のない世間話。
巨額の金が動くビジネスの世界とは違う、穏やかな時間。
俺はこのバランスを大切にしていた。彼女たちの笑顔を守るためにも、俺は強くあり続けなければならない。
帰宅後、俺はリビングの窓辺に置かれた観葉植物に向かった。
青々と茂る葉は、部屋の空気を浄化し、俺の精神を安定させてくれる。
俺はキッチンの棚から、小さなボトルを取り出した。
『ハイポネックス』。植物用の液体肥料だ。
しかし、ただ与えるのではない。
「……適量は、水1リットルに対して1ミリリットル」
スポイトで慎重に計量し、ジョウロの水に溶かす。
薄すぎても効果がなく、濃すぎれば根腐れを起こす。
投資と同じだ。適切なリソースを、適切なタイミングで投下する。
「大きくなれよ」
俺は慈しむように、根元へ水を注いだ。
土が水を吸い込み、葉が微かに震える。
植物も、ビジネスも、そして人間関係も。
丁寧な観察と、適切なケアがあれば、必ず期待に応えてくれる。




