第39話
火曜日。
中間試験明けの授業は、消化試合のような空気で進んでいく。
窓の外には、初夏の陽光が降り注いでいる。
二限目の休み時間。俺は教室の窓際で、文庫本を片手に校庭を眺めていた。
視線の先には、体育の授業でテニスをしている女子生徒たちの姿がある。
その中で、一際目を引く存在がいた。
桜木 マナだ。
白い体操服に、紺色のブルマ。
健康的な手足が躍動し、ラケットを振るたびにショートカットの髪がサラサラと揺れる。
汗に濡れた肌は、太陽の光を反射して真珠のように輝いている。
遠目にも分かるその圧倒的な「ヒロインオーラ」。
クラスの男子たちが、教科書を見るふりをして窓の外を盗み見ているのも無理はない。彼女はこの学園に咲いた、唯一無二の「光」なのだから。
だが、俺の視点は少し違う。
彼女が輝けば輝くほど、その影に潜む闇も濃くなる。
光を守るためには、影を支配する力が必要だ。
チャイムが鳴る。
俺は本を閉じ、午後のビジネスモードへと意識を切り替えた。
今日は「城」での重要な作戦会議がある。
放課後。
俺は学校を出て、渋谷の雑踏へと紛れ込んだ。
公園通りを抜け、少し奥まった場所にある真新しいオフィスビル。
その最上階の一角が、俺が設立した『株式会社レオ・キャピタル』の仮オフィスだ。
セキュリティゲートを抜け、重厚な扉を開ける。
そこには、一九九九年の高校生には不釣り合いな、洗練された空間が広がっていた。
イタリア製の革張りソファ、ガラスのデスク、そして壁一面に設置された最新鋭のサーバーラック。
「……遅いぞ、社長。待ちくたびれたぜ」
「あら、主役は遅れて登場ってわけ? 生意気ね」
先客が二人、ソファで寛いでいた。
相棒の城戸隼人。
そして、当社の「顔」である天童 くるみだ。
くるみは仕事の合間を縫って駆けつけたのだろう。
大きめのサングラスをテーブルに置き、足を組んで雑誌を読んでいる。
今日の彼女は、鮮やかな真紅のオフショルダートップスに、黒のタイトスカート。
一八歳とは思えない完成されたプロポーション。露わになったデコルテの白さが、赤い服とのコントラストで艶めかしく強調されている。
ふわりと巻かれた茶髪からは、甘いココナッツの香りが漂う。
不機嫌そうに頬杖をつく仕草さえも、一枚の絵画のように様になっている。さすがは国民的アイドルだ。
「すまない。学校の掃除当番でな」
「社長が掃除当番? 笑えない冗談ね」
俺は苦笑しつつ、デスクの椅子に深々と腰掛けた。
隼人が身を乗り出してくる。
「で、師匠! 例の話、マジなのか!? GT-Rを一〇台も買ったって!」
「ああ、事実だ。昨日、全額キャッシュで決済を済ませた」
「すげえぇぇ! じゃあ、俺たち乗り回せるのか!? 首都高でゼロヨンか!?」
隼人の目が少年のように輝いている。
だが、俺は無慈悲に首を横に振った。
「残念ながら、お前がハンドルを握ることはない。俺も乗らない」
「……は?」
「あの一〇台は、納車された瞬間に『永久凍結』する」
俺の言葉に、くるみが眉をひそめた。
「凍結って……どういうこと? まさか、飾っておくだけ?」
「飾ることもしない。空調の効いた暗室の倉庫で、カバーを掛けて厳重に保管する。走行距離はゼロキロのまま。エンジンオイルも抜いて、完全に時を止める」
くるみが呆れたように溜息をついた。
「バカなの? 車は走ってなんぼでしょ。一〇台も買って、乗らないなんて……ただの金持ちの道楽じゃない」
「道楽ではない。これは『タイムカプセル投資』だ」
俺は立ち上がり、ホワイトボードに数字を書き込んだ。
「いいか。今回俺が購入したのは、R34型スカイラインGT-R。その中でも希少な『V-spec』や限定色の『ミッドナイトパープルⅡ』だ。総額で約五〇〇〇万円」
俺はペン先を走らせる。
「一九九九年の今、これはただの『速い国産車』だ。だが、二五年後……二〇二四年。この車の価値はどうなっていると思う?」
二人は顔を見合わせた。想像もつかないだろう。
俺は答えを書く。
『一台あたり三〇〇〇万円~五〇〇〇万円以上』
「はあぁ!? 五千万!?」
「一台でか!? フェラーリより高いじゃねーか!」
隼人とくるみが絶叫する。
俺はニヤリと笑った。
「理由がある。アメリカには『25年ルール』という法律がある。右ハンドルの日本車は、製造から二五年経過しないとアメリカに輸入・登録できないという規制だ」
「……つまり?」
「二〇二四年になれば、この規制が解禁される。その時、世界中の富裕層、特に『ワイルド・スピード』や『グランツーリスモ』で育った世代が、喉から手が出るほどこの車を欲しがる」
俺はホワイトボードを叩いた。
「その時、市場に出回っているGT-Rの大半は、走り潰された中古車だ。だが、俺が持っているのは? 『未走行』の状態を維持した、世界で唯一の艦隊だ」
走行距離ゼロ。純正パーツ完備。空調保管。
それはもはや車ではない。国宝級の「芸術品」だ。
一台四〇〇〇万円で売れたとして、一〇台で四億円。
もしかしたら、オークション形式にすればもっと跳ねるかもしれない。
「四億……。五千万が、寝かせておくだけで四億……」
くるみがゴクリと喉を鳴らした。
彼女も芸能界という「水物」の世界で生きている。資産価値という言葉には敏感だ。
彼女の瞳の色が変わる。呆れから、畏怖へ。
「あんた……本当に高校生? 頭の中、どうなってるの?」
「ただの歴史の観測者だよ。……これは、内燃機関という時代の徒花への、俺なりの敬意と別れだ」
二五年後には、世界はEVへとシフトしているだろう。
ガソリン臭い野獣たちが覇権を握っていた、最後の一九九九年。
その空気を真空パックして未来へ送る。
ロマンと実益を兼ねた、最高の遊びだ。
ミーティングを終え、隼人とくるみが帰った後。
俺は一人、オフィスの窓から夕暮れの渋谷を見下ろしていた。
ノックの音が響く。
入ってきたのは、俺の秘書にして、この壮大な計画の実務担当者だ。
「……お疲れ様です、社長」
如月 舞。
一九歳の彼女は、今日も完璧なダークスーツに身を包んでいる。
その美貌は、精巧なビスクドールのように冷たく、美しい。
黒髪のボブカット、切れ長の瞳、血色の薄い唇。
彼女は分厚いファイルをデスクに置いた。
「GT-R一〇台の保管契約、完了しました。場所は港区の湾岸エリアにある、美術品専用の定温・定湿倉庫です」
「セキュリティは?」
「万全です。二四時間の有人監視に加え、指紋認証システムを導入しました。社長と私以外、誰もあの『青い野獣たち』に触れることはできません」
「完璧だ。維持費はかかるが、必要経費だ」
舞は淡々と報告を続ける。
定期的なエンジン始動、バッテリーの管理、ボディカバーの交換サイクル。
彼女は車の知識などなかったはずだが、俺の指示を受けて短期間で完璧に学習したようだ。
「……それにしても、社長」
舞がふと、人間味のある表情――微かな呆れと、深い崇拝が混じった笑み――を浮かべた。
「二五年後の未来を見据えて、車を漬物のように漬け込むとは。……やはり社長は、凡人とは時間の感覚が違いますね」
「漬物とは風流だな。だが、美味しく熟成されるはずだ」
「ええ。その時、この車たちがいくらで売れるのか……私が責任を持って管理させていただきます」
舞の手が、そっと俺のコーヒーカップに伸びる。
空になったカップを下げ、新しいコーヒーを淹れる所作。
その指先は白く、美しい。
「……ところで舞。昨日の『叙々苑弁当』の件だが」
「はい。摩耶様には、厳重に抗議しておきました。『社長の胃袋をジャンクフードで汚染するな』と」
「……ほどほどにしておけよ。姉さんが泣いていたぞ」
「ふふ。摩耶様の涙など、ワニの涙です」
舞は冷ややかに言い放つ。
彼女にとって、俺以外の人間は等しく「排除すべきノイズ」か「管理すべきリソース」でしかない。
この狂信的な忠誠心があるからこそ、俺は安心して背中を預けられる。
「頼りにしているぞ、舞」
「勿体無いお言葉です。……全ては、社長の覇道のために」
舞は深々と一礼した。
夕日が差し込むオフィスで、彼女の影が長く伸びる。
一九九九年五月一八日。
一〇台のGT-Rは、深い眠りにつく。
次に目覚めるのは二〇二四年。
その時、俺は四〇歳。
世界はどう変わっているだろうか。
そして、俺の隣には誰がいるだろうか。
俺は熱いコーヒーを啜りながら、遠い未来に思いを馳せた。
種は蒔かれた。あとは待つだけだ。




