第37話
日曜日。
中間試験という名の拘束から解放された最初の休日。
俺は昼近くまで泥のように眠り、遅めのブランチを摂りながら、気怠げにテレビのリモコンを操作していた。
画面には、海外直輸入の通販番組が流れている。
金髪の司会者が、大袈裟なジェスチャーで包丁を振り回していた。
『見てくれボブ! この切れ味! 熟したトマトも、硬いカボチャも、まるでバターみたいに切れるんだ!』
『ワオ! 信じられないわナンシー! 研がなくても十年持つの!?』
……胡散臭い。
だが、そのデモンストレーションには妙な説得力がある。
俺はキッチンの包丁スタンドに目をやった。
自炊に凝り始めて一ヶ月。そろそろ道具をアップグレードしたいと考えていたところだ。
特に、和食を作る上で「切れ味」は味に直結する。繊維を潰さずに切ることで、食材の劣化を防ぎ、舌触りを滑らかにするのだ。
「……買うか」
俺は受話器を取り、ダイヤルを回した。
「ミラクル・ブレード・セット」。一万四八〇〇円。
十年持つかは知らないが、今夜の料理には役に立つだろう。
投資家たるもの、生産性を上げるツールへの投資を惜しんではならない。
午後。
俺は渋谷の街を歩いていた。
目的は夕食の買い出しだが、少し足を伸ばして「バイク用品店」のショーウィンドウを眺めていた。
先日購入したGT-Rは納車待ちだが、男という生き物は、エンジンがついている乗り物全般に惹かれる習性がある。
店の前には、数台のカスタムバイクが停まっている。
その中の一台、黒塗りのカワサキ・ゼファーに寄りかかっている人影があった。
「……あ。西園寺」
早坂 涼。
一八歳の早大生にして、元ヤンキー。
今日の彼女は、無骨なライダースジャケットに、細身のデニムをブーツインしている。
その立ち姿は、ファッション雑誌のモデルのように様になっているが、纏っている空気は鋭利なナイフのように危険だ。
ショートカットの髪が風に揺れ、切れ長の瞳が俺を捉える。
化粧っ気はないが、陶器のように白い肌と、整った鼻筋が、彼女の素材の良さを際立たせている。
「美しい」というより「カッコいい」。だが、ふとした瞬間に見せる憂いを含んだ表情が、男の庇護欲を強烈に刺激するタイプだ。
「奇遇だな、早坂。……それはお前のバイクか?」
「ああ。久しぶりにエンジンかけたんだ。バッテリー上がっちまうからな」
涼は愛おしそうにタンクを撫でた。
その手つきは、普段の荒っぽい言動とは裏腹に、とても繊細だ。
「いい趣味だ。ゼファーか。渋いな」
「……お前、単車分かるのか?」
「知識としてな。空冷四発の音は悪くない」
「ふん。……インテリ坊っちゃんにしちゃ、話が通じるじゃねえか」
涼が口元をわずかに緩める。
彼女の警戒心が、また一枚剥がれ落ちた音がした。
「西園寺。お前、GT-R買ったんだってな」
「……情報が早いな。どこで聞いた?」
「くるみから聞いた。あいつ、『生意気な年下が生意気な車買った』ってボヤいてたぞ。……で、いつ乗せてくれんだ?」
「残念だが、俺はまだ一五歳だ。無免許運転で捕まる趣味はない」
俺は肩をすくめた。
涼は「あ、そっか。お前ガキだったな」と鼻で笑う。
「早坂。……三年後、俺が免許を取ったら、俺のGT-Rとお前のバイクで勝負するか?」
「はぁ? 三年後? ……随分と気の長い話だな」
涼は呆れたように笑った。
だが、その瞳には好戦的な光が宿っている。
「でもまあ、お前がその時までビビって逃げてなけりゃ、信号グランプリくらいなら付き合ってやってもいいぜ。……負けたら泣くなよ、オーナー」
「望むところだ。……その時まで、腕を磨いておけ」
俺たちは短く言葉を交わし、別れた。
彼女がヘルメットを被り、エンジンを始動させる。
野太い排気音を残して走り去る背中を見送りながら、俺は思った。
三年という時間は、投資の世界では一瞬だ。
その時、俺たちの関係がどうなっているか。それもまた一つの楽しみだ。
バイク屋を後にした俺は、デパ地下へと向かった。
今日の夕食のテーマは決まっている。
「究極のアジフライ」だ。
……先日に「アジの南蛮漬け」を作ったばかりではないか、というツッコミは無用だ。
今はアジの旬、真っ盛りなのだ。
前回は「揚げてから漬ける」料理だったが、今回は「揚げたてを食らう」料理だ。似て非なるものである。
鮮魚コーナーで、俺は再び目を光らせる。
狙うは、刺身でもいける最高鮮度のマアジ。
今日は長崎産ではなく、島根県産の『どんちっちアジ』が入荷していた。
脂質含有量一〇%以上という、トロのようなアジだ。
これを二尾、三枚おろしではなく「背開き」にしてもらう。フライにするなら、この形状が最もふっくら仕上がるからだ。
付け合わせには、新キャベツ。
巻きが緩く、葉が柔らかいものを選ぶ。
そして、味噌汁の具にはシジミ。肝臓を労るための選択だ。
最後に、酒。
アジフライにはビールだ。それも、揚げ物の油を洗い流しつつ、旨味を増幅させるプレミアムな一本。
『ヱビスビール』の瓶。
完璧だ。
俺は両手に食材を抱え、帰路についた。
帰宅し、エプロンを締める。
キッチンに立つ俺は、投資家から料理人へとジョブチェンジする。
まずは「新キャベツの千切り」から。
今日届くはずの「ミラクル包丁」はまだ来ないので、愛用の牛刀を研ぎ石でタッチアップする。
新キャベツは繊維が柔らかい。力を入れず、包丁の重さだけでリズミカルに刻んでいく。
トントントン……。
髪の毛のように細い千切りが山のように積み上がっていく。これを氷水に放ち、シャキッとさせる。
次に「アジフライ」の下準備。
背開きにしたアジに、軽く塩コショウを振る。
重要なのはここからだ。
衣を作る。小麦粉と卵、少量の水を混ぜ合わせた液にアジを潜らせる。
そして、パン粉。
市販の乾燥パン粉ではない。食パンをフードプロセッサーで砕いた「生パン粉」を使う。
ふんわりとした生パン粉を、優しく、しかし確実に纏わせる。これがサクサク感の鍵だ。
揚げ油を熱する。温度は一七〇度から一八〇度。
アジを投入する。
ジュワァァァッ……!
重厚な音が響き、香ばしい匂いが立ち上る。
アジは火が通りやすい。揚げすぎは厳禁だ。
衣がきつね色になり、泡が小さくなった瞬間を見極め、引き上げる。
余熱で中に火を通すため、バットの上で一分間休ませる。
その間に、「シジミの味噌汁」を仕上げる。
砂抜きしたシジミを水から煮出し、貝の口が開いたら火を止める。
味噌を溶き入れ、刻んだ万能ネギを散らす。
「……完成だ」
ダイニングテーブルに並ぶ、黄金色の芸術品。
大判のアジフライが二枚、山盛りのキャベツ、そして湯気を立てる味噌汁。
俺はヱビスビールの栓を抜き、グラスに注ぐ。
「頂きます」
まずは何もつけずに、アジフライをガブリ。
サクッ……。
軽やかな音と共に、粗めの生パン粉が砕ける。
その直後、ふわりとした身から、熱々の脂とジュースが溢れ出す。
……美味い。
どんちっちアジの脂乗りは半端ではない。魚というより、上質な肉を食べているようだ。
そこへ冷えたヱビスを流し込む。
ホップの苦味が、口の中の脂を切り、爽快感が駆け抜ける。
次は、自家製のタルタルソース(ゆで卵、玉ねぎ、ピクルス、マヨネーズ)をたっぷりと乗せて。
濃厚×濃厚。
カロリーの暴力だが、この背徳感がたまらない。
箸休めにキャベツ。
シャキシャキとした食感と、春キャベツ特有の甘みが、口の中をリセットする。
そして、シジミの味噌汁。
コハク酸の旨味が五臓六腑に染み渡る。
一人で食べるアジフライ。
誰にも邪魔されず、ソースで食べるか、醤油で食べるか、あるいは塩とレモンか。
そのすべての選択権が俺にある。
これぞ独身貴族の醍醐味だ。
食後。
至福の満腹感と共に、俺はリビングのソファに深く沈み込んだ。
今夜の映画の時間だ。
選んだのは、一九九八年公開のサスペンスアクション『交渉人(The Negotiator)』。
サミュエル・L・ジャクソン演じる人質交渉人が、横領の濡れ衣を着せられ、逆に立てこもり犯となって真犯人を暴こうとする物語だ。
ケビン・スペイシー演じるもう一人の交渉人との、極限の心理戦。
俺は画面を見つめた。
主人公は叫ぶ。
『嘘をついている奴の目は泳ぐなんて大嘘だ。奴らは目を見て嘘をつく』
言葉。情報。心理誘導。
銃弾よりも鋭い「言葉」の応酬。
俺のやっていることも同じだ。
「未来の知識」というカードを使って、周囲の人間と交渉し、誘導し、自分の望むシナリオへと書き換えていく。
日向翔太による印象操作、鷹森への罠、ヒロインたちへの救済。
すべては一種の「交渉」だ。
映画の中で、二人の交渉人が互いの手を読み合い、信頼とも敵対ともつかない奇妙な絆を結んでいく。
俺にとっての「交渉相手」は誰だ?
この世界そのものか。あるいは、運命という名の脚本家か。
「……面白い」
俺は呟いた。
嘘の中に真実を混ぜ、真実の中に毒を混ぜる。
ビジネスも、人間関係も、すべては情報の非対称性をどう利用するかにかかっている。
映画が終わる頃、俺の頭の中はクリアになっていた。
アジフライのカロリーはエネルギーに変わり、映画の教訓は戦術に変わった。
一九九九年五月一六日。
明日からまた、日常という名の交渉の場が始まる。
俺はリモコンを置き、静かに目を閉じた。
準備は万端だ。




