第25話 休日の秘書と埃なき部屋
ゴールデンウィークも終盤に差し掛かり、東京の街は行楽に出かける人々で賑わっていたが、ここ港区の高層マンションの一室は、静寂に包まれていた。
俺は、リビングのソファに深く身を預け、窓の外に広がる青空を見上げていた。
昨日の鷹森恒一の自首というビッグニュースにより、学園内での憂いは一つ消えた。
城戸隼人の未来も守られた。
ビジネスの方も、着メロ事業とサーバー事業の仕込みは完了し、あとは芽が出るのを待つフェーズに入っている。
つまり、今の俺は珍しく「手持ち無沙汰」な状態にあった。
「……たまには、何もしない一日も悪くない」
淹れたてのコーヒーを一口啜る。
『セントヘレナ』の華やかな香りが鼻孔をくすぐる。
時計の針は午前10時を回ろうとしていた。
今日は来客の予定もない。一人で読書でもして過ごそうかと思っていた矢先、インターホンが鳴った。
エントランスのコンシェルジュからだ。
『西園寺様、如月様がいらっしゃいました』
「……舞か。通してくれ」
休日に呼び出した覚えはない。
何か緊急のトラブルでもあったのだろうか。
俺は少し身構えつつ、玄関のドアを開けた。
エレベーターホールから現れたのは、いつものカチッとしたスーツ姿ではなく、柔らかな私服に身を包んだ如月舞だった。
淡いベージュのシフォンブラウスに、膝丈のフレアスカート。
黒髪のストレートヘアは、今日はハーフアップにまとめられており、うなじの白さが際立っている。
陶器のように滑らかな肌と、吸い込まれるような大きな瞳。
19歳の彼女が持つ本来の可憐さと、秘書として培われた知性が混ざり合い、独特の品格を醸し出している。
すれ違う住人たちが、思わず振り返るほどの美女だ。
「体調はもう万全か?」
「おはようございます、社長。……先日は申し訳ありませんでした」
舞は深々と頭を下げた。
その手には、書類鞄ではなく、有名洋菓子店の紙袋が提げられている。
「おはよう、舞。トラブルか?」
「いいえ。……昨日の鷹森の一件、正式に懲戒解雇の手続きが進んでいるとの報告を受けましたので、そのご報告に。それと……」
彼女は少し言葉を濁し、紙袋を掲げた。
「……差し入れです。連日の激務でお疲れかと思いまして」
「そうか。わざわざすまない。上がってくれ」
俺は彼女を招き入れた。
ビジネスライクな報告だけなら電話でも済む話だ。
わざわざ足を運んでくれたということは、彼女なりに俺を気遣ってのことだろう。
あるいは、彼女自身も少し息抜きがしたかったのかもしれない。
リビングのテーブルに、舞が持ってきたケーキを並べる。
『キル フェ ボン』の季節のフルーツタルトだ。
色とりどりのフルーツが宝石のように輝いている。
俺はコーヒーを淹れ直し、彼女の前に置いた。
「いただきます。……美味しいですね」
舞は一口食べると、頬を緩ませた。
普段の鉄仮面のような秘書の顔ではない。
甘いものに目がない、年相応の女の子の顔だ。
「鷹森の件、迅速な対応に感謝する。舞の情報収集能力がなければ、ここまでスムーズにはいかなかった」
「恐縮です。……あの男の悪行は、調べれば調べるほど吐き気がするものでした。城戸様だけでなく、多くの生徒が犠牲になっていたようです」
舞の声色が少し硬くなる。
彼女自身、かつて理不尽な借金取りに追い詰められた経験がある。
権力を笠に着て弱者を踏みにじる人間に対し、人一倍強い怒りを持っているのだ。
「だが、これで終わった。被害を受けた生徒たちのケアも、理事会を通じて手配させてある」
「はい。……社長の采配には、いつも救われます」
彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
その瞳に宿る絶対的な信頼と敬愛。
それを受け止めるたび、俺は背筋が伸びる思いがする。
「……さて、仕事の話はここまでにしよう。せっかくの休日だ」
俺は話題を変えた。
これ以上、暗い話でタルトの味を損ねる必要はない。
「舞は、普段の休日は何をしているんだ?」
「私、ですか? ……そうですね。溜まっていた家事を片付けたり、図書館に行ったり……あとは、資格の勉強でしょうか」
「真面目だな。もっとこう、友人と遊んだりとかは?」
「……沙耶がたまに連れ出してくれますが、基本的にはインドア派ですので」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
柚木沙耶。舞の親友であり、先日俺とも知り合った心理学科の大学生だ。
あの奔放な沙耶と、生真面目な舞。
正反対の二人だが、だからこそ上手くいっているのだろう。
「沙耶とは、高校時代からの付き合いだったか」
「はい。……私が一番辛かった時期も、彼女だけは変わらずに接してくれました。社長に救っていただく前、私が退学を考えていた時も、彼女はずっと止めてくれて……」
舞は遠くを見るような目をした。
1997年、雨の日の記憶。
俺が介入するまでの間、彼女を支えていたのは沙耶だったのだ。
「良い友人を持ったな」
「はい。……私にとって、社長が『光』なら、沙耶は『風』のような存在です。……ふふ、少し詩的すぎましたね」
舞は照れ隠しにコーヒーを飲んだ。
その横顔は、とても穏やかだった。
俺と出会う前の彼女にも、当然ながら人生があり、大切な人々がいた。
その当たり前の事実を、俺は改めて噛み締めた。
彼女は単なる「有能な秘書」ではない。一人の人間なのだ。
「……社長は、いかがですか? 学校生活は」
「退屈はしないよ。……城戸のような騒がしい友人もできたし、手のかかる先輩や、放っておけない同級生もいる」
「ふふ、賑やかそうですね。……社長が年相応の顔を見せられる場所があること、私は嬉しく思います」
舞は慈母のような微笑みを浮かべた。
彼女にとって、俺が「15歳の少年」として笑っている姿を見ることは、一種の救いなのかもしれない。
41歳の中身を持つ俺が、本当に「年相応」になれているかは怪しいが、少なくとも彼女を安心させることはできているようだ。
一時間ほど歓談した後、舞は「お邪魔いたしました」と帰っていった。
玄関まで見送ると、彼女は最後に一度だけ振り返り、深く一礼した。
その背中を見送りながら、俺はふと思った。
彼女にも、もっと報いなければならない、と。
金銭的な報酬だけでなく、彼女の人生そのものを豊かにする何かを。
部屋に戻ると、再び静寂が訪れた。
だが、先ほどまでの「手持ち無沙汰」な感覚はない。
舞との会話で、心が整った気がする。
「……よし。やるか」
俺はシャツの袖をまくり上げた。
掃除だ。
一度スイッチが入ると、俺は止まらない。
単なる整理整頓ではない。部屋の空気を入れ替える儀式だ。
まずはリビング。
ソファのクッションを叩き、ラグに掃除機をかける。
プラズマテレビの画面を専用のクロスで磨き上げる。指紋一つ許さない。
観葉植物のパキラの葉に積もった埃を、一枚一枚丁寧に拭き取る。
植物も生き物だ。呼吸を妨げる埃は天敵だ。
次にキッチン。
シンクの水垢を研磨剤で磨き落とし、鏡のように輝かせる。
コンロ周りの油汚れも徹底的に除去する。
料理をする人間にとって、キッチンの清潔さは料理の味に直結する。
換気扇のフィルターも交換し、冷蔵庫の中身も整理した。
賞味期限切れの調味料など論外だ。
そして、書斎。
ここが本丸だ。
デスクの上に積み上がった資料や専門書の山。
不動産物件の図面、株式チャートのプリントアウト、着メロ事業の企画書。
それらをカテゴリごとに分類し、ファイリングしていく。
不要な書類はシュレッダーにかける。
情報の断捨離だ。
古い情報を捨てなければ、新しい情報は入ってこない。
作業の途中、一冊のスケッチブックが出てきた。
先日、クローゼットの奥から見つけたものだ。
パラパラとめくると、幼い頃の俺と、見知らぬ少女の絵が出てくる。
……この少女は、誰だ?
俺の記憶にはない顔だ。
だが、見ていると胸の奥が微かに疼くような、懐かしさを感じる。
マナでも、くるみでもない。
もしかしたら、俺が忘れている「大切な誰か」なのかもしれない。
「……今は、考えても分からないか」
俺はスケッチブックを一番上の引き出しにしまった。
いつか、この謎が解ける時が来るだろう。
全ての掃除を終えた頃には、日は西に傾きかけていた。
窓を開け放つと、五月の風が部屋を通り抜けていく。
埃っぽさは微塵もなく、磨き上げられた床や家具が夕日を反射して輝いている。
空気の密度が変わったようだ。
「……悪くない」
俺は満足げに頷き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
冷たい水が、乾いた喉を潤す。
部屋が片付くと、思考もクリアになる。
頭の中のノイズが消え、今やるべきこと、これからやるべきことが明確な輪郭を持って浮かび上がってくる。
モバイルEC事業の立ち上げ。
サーバーファームの構築。
ハンセン・ナチュラル株の買い増し。
そして、学園での人間関係の構築。
全ては順調だ。
だが、油断は禁物だ。
成功の絶頂にこそ、落とし穴がある。
鷹森のような分かりやすい敵は排除したが、ビジネスの世界にはもっと巨大で、狡猾な敵が無数に潜んでいる。
Amazon、楽天、ソフトバンク。
彼ら巨人たちと渡り合うためには、一瞬の隙も見せてはならない。
俺は窓辺に立ち、東京の街を見下ろした。
夕暮れの空が、紫から群青へとグラデーションを描いている。
美しい街だ。
この街で、俺は頂点を目指す。
そのためには、足元を常に清浄に保ち、襟を正していなければならない。
今日の掃除は、その決意表明のようなものだ。




