第23話 筋肉への投資と早すぎた動画革命
ゴールデンウィークの連休中日。
俺は、朝のリビングでコーヒーを飲みながら、テレビショッピングを眺めていた。
画面の中では、海外のマッチョな男性と笑顔の女性が、奇妙な器具を使って腹筋運動を繰り返している。
『アブ・スライダー』のような健康器具だ。
「たった数分で理想の腹筋が!」という謳い文句と共に、特別価格が表示される。
「……なるほど。健康への投資は惜しむべきではないな」
俺は受話器を取り、ダイヤルを回した。
注文したのは『筋肉体操セット』一式。
自室のトレーニング環境をさらに充実させるためだ。
電話を切った後、俺はふと、昨夜舞から送られてきた新規事業の提案書に目を落とした。
『インターネットカフェ事業展開案』。
これから普及するインターネットを体験できる場所を提供する、というアイデアだ。
確かに需要はある。だが、俺は首を横に振った。
「却下だ。……店舗ビジネスは固定費が高すぎる」
家賃、内装費、人件費、そしてPCのメンテナンスコスト。
これだけのコストをかけても、客単価はたかが知れている。
飲食店も同様だ。在庫リスクと廃棄ロス、そして労働集約型のモデルはスケールしにくい。
俺が目指すのは、あくまで「情報」と「仕組み」で稼ぐビジネスだ。
サーバーの中に構築されたシステムが、俺が寝ている間もチャリンチャリンと小銭を稼ぎ続ける。
そのモデル以外に興味はない。
午後。
俺は気分転換に渋谷の街へ出た。
連休中ということもあり、スクランブル交差点は人で溢れかえっている。
人混みを抜け、スペイン坂にあるジューススタンドへ向かう。
ここは新鮮なフルーツをその場で絞ってくれる人気店だ。
「……『アボカドバナナソイミルク』を一つ」
注文したのは、美容と健康に良さそうな一杯だ。
濃厚なアボカドとバナナの甘みを、豆乳がまろやかにまとめている。
ストローで吸い上げると、冷たい液体が喉を潤した。
ビタミンとタンパク質の補給完了だ。
カップを片手に、映画館通りを歩く。
『渋谷パンテオン』や『渋東シネタワー』の壁面には、巨大な映画ポスターが掲げられている。
『マトリックス』の公開が秋に控えていることを知り、俺の心は少し踊った。
映像コンテンツの力は凄まじい。
映画館には長蛇の列ができている。人々は「動く映像」による物語を求めているのだ。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
インターネットでの動画配信だ。
もし、この映画やドラマを、自宅のPCや携帯電話で見られるようにしたらどうなるか?
YouTubeやNetflixのような世界だ。
だが、俺はすぐにその思考を打ち消した。
「……いや、時期尚早だ」
現在の通信インフラは、ISDNが主流。
ADSLすら普及していないこの環境で動画を流せば、画質は紙芝居レベルになり、バッファリングで止まってばかりだろう。
何より、動画データは重すぎる。
現在のサーバーコストと回線使用料で動画配信を行えば、アクセスが増えれば増えるほど赤字が垂れ流され、即座に破産する。
YouTubeが登場するのは2005年。ブロードバンドが当たり前になるまで、あと数年は待たなければならない。
今はテキストと静止画、そして軽いMIDIの時代だ。
半歩先を行くのは天才だが、一歩先を行くのは変人――そして破産者だ。
俺は冷静に未来へのロードマップを引き直した。
映画館の前で思索に耽っていると、横から声をかけられた。
「……あれ? ボンじゃん」
聞き覚えのある、少しハスキーで涼やかな声。
振り返ると、そこに早坂涼さんが立っていた。
今日の彼女は、白のノースリーブニットに、ベージュのチノパンというシンプルな装い。
だが、そのシンプルさが、彼女の日本人離れしたスタイルの良さと、透き通るような肌の白さを際立たせている。
ショートカットの黒髪が風に揺れ、長い首筋が露わになっている。
周囲の男性たちが、すれ違いざまに彼女を二度見していくのが分かる。
圧倒的な透明感。
彼女自身は無自覚なようだが、その存在感は渋谷の雑踏の中でも異彩を放っていた。
「……涼さん。こんにちは」
「奇遇だね。一人で映画?」
「いえ、ポスターを見ていただけです。涼さんは?」
「アタシは友達と待ち合わせ。……の予定だったんだけどさ、ドタキャンされちゃって」
彼女は苦笑いしながら携帯電話を振ってみせた。
「暇になっちゃった。……ねえレオ、少し付き合ってよ」
「構いませんが……どこへ?」
「んー、とりあえず座れるとこ。喉渇いちゃった」
俺たちは近くのカフェのテラス席に座った。
彼女はアイスティーを、俺は先ほどのジュースのゴミを捨てて、アイスコーヒーを注文した。
「……大学生活には慣れましたか?」
「ぼちぼちかな。講義は面白いし、サークルも……まあ、勧誘はうざいけど」
彼女はストローを回しながら言った。
元不良のオーラが消え、普通の女子大生としての生活を楽しんでいるようだ。
だが、その瞳の奥には、教師を目指すという芯の強さが宿っている。
「勧誘ですか。涼さんなら、選び放題でしょう」
「まさか。アタシ、そういうチャラいノリ苦手だし。……それに、今は勉強が楽しいんだ。アンタのおかげで、また机に向かう気になれたからさ」
彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見た。
俺が彼女を助けたこと。
それが、彼女の中で大きな転機になったのだと改めて感じる。
「……それは光栄です。ですが、あまり根を詰めすぎないでくださいね。息抜きも必要です」
「分かってるって。……だからこうして、年下の生意気な男の子とお茶してるんじゃない」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔の破壊力たるや。
年上の余裕と、少女のようなあどけなさ。
俺の理性が、心地よく揺さぶられる。
「……そういえばさ。高校、どう? 友達とかできた?」
ふと、彼女が姉のような顔つきで聞いてきた。
心配してくれているのだろう。
「ええ。城戸という、威勢のいい友人が一人」
「へえ、レオと仲良くなるなんて、どんな物好きな子なんだろ。……でも、良かった。アンタ、ちょっと大人びすぎてるから心配してたんだよ」
涼さんは安堵したように目を細めた。
「彼は裏表のない、良い男ですよ。俺も彼には助けられています」
「そっか。……ふふ、ボンのマブダチか。今度紹介しなよ」
姉御肌な彼女らしい気遣いだ。
鷹森との一件については、まだ彼女に話す必要はないだろう。
心配させるだけだ。
俺が裏で処理すればいいことだ。
30分ほど世間話をして、俺たちは店を出た。
「ありがとな、付き合ってくれて。……おかげで暇つぶしになったよ」
「こちらこそ。有意義な時間でした」
「またな、ボン。……あ、今度学食にでもおごりにおいでよ」
「ええ。喜んで」
彼女は手を振り、颯爽と歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は改めて彼女の魅力を再確認した。
守るべき女性であり、対等に話せる友人。
彼女との関係も、大切に育てていきたいものだ。
涼さんと別れた後、俺は東急本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は焼肉だ。
スタミナをつける必要がある。
精肉コーナーで、最高級の黒毛和牛を選ぶ。
松阪牛のカルビ、仙台牛のロース、そして厚切りの牛タン。
美しいサシが入った肉は、芸術品のようだ。
さらに、新鮮なレバーとホルモンも購入する。
野菜コーナーでは、肉を巻くためのサンチュとエゴマの葉をたっぷりと。
ナムル用の豆もやし、ほうれん草、ゼンマイ。
そして、本場韓国から取り寄せたという熟成キムチとカクテキ。
タレは市販のものではなく、自分で調合するための材料を揃える。
飲み物はビールだ。
『ザ・プレミアム・モルツ』の瓶。
濃厚な肉の脂には、香り高いプレミアムビールがよく合う。
両手に重い荷物を抱え、俺は帰宅した。
帰宅後、すぐに調理に取り掛かる。
まずはナムルだ。
野菜をそれぞれ茹で、水気を絞る。
ごま油、塩、すりおろしニンニク、鶏ガラスープの素で和える。
シンプルだが、塩加減が命だ。
豆もやしのシャキシャキ感、ほうれん草の甘み。
これだけで立派な酒の肴になる。
次にタレを作る。
醤油ベースに、擦りおろした梨とニンニク、コチュジャンを混ぜ合わせ、一煮立ちさせてから冷ます。
梨の酵素が肉を柔らかくし、フルーティーな甘みを加える。
レバーは牛乳に浸して臭みを抜き、ごま油と塩で下味をつける。
準備万端。
ダイニングテーブルに無煙ロースターをセットする。
一人焼肉だが、妥協はしない。
「……いただきます」
まずは牛タンから。
熱したプレートに乗せると、ジュウッという音と共に香ばしい匂いが立ち上る。
表面の色が変わった瞬間に裏返し、サッと炙る程度で引き上げる。
レモン汁と塩で。
サクッとした歯ごたえと、溢れる肉汁。
そこにビールを流し込む。
……至福だ。
続いてカルビ。
タレに潜らせた肉を焼く。焦げた醤油と脂の匂いが食欲を刺激する。
サンチュに肉、キムチ、ナムル、そして少しのご飯を乗せ、包んで頬張る。
野菜の瑞々しさが脂っこさを中和し、いくらでも食べられる。
ホルモンは、皮目からじっくりと焼く。
脂が弾け、炎が上がる。
口に入れると、甘い脂が溶け出し、濃厚な旨味が広がる。
一人で黙々と肉を焼き、ビールを飲む。
この没入感が、思考をクリアにしてくれる。
ビジネスの戦略も、人間関係の悩みも、肉の前では些細なことだ。
完食し、片付けを終えた後、俺はバスルームへと向かった。
このマンションに入居する際、最も拘ったのがこの風呂だ。
総檜造りの浴槽。
窓からは東京の夜景が一望できるビューバス仕様だ。
湯船には、42度の適温に沸かした湯が満ちている。
俺は入浴剤ではなく、本物の檜のチップと、柚子を浮かべた。
浴室に木の香りと柑橘の香りが充満する。
服を脱ぎ、湯船に身を沈める。
「……ふぅ」
思わず声が漏れる。
お湯が全身を包み込み、筋肉の緊張を解きほぐしていく。
焼肉の匂いも、日々の疲れも、全てが洗い流されていくようだ。
ジェットバスのスイッチを入れる。
背中と足裏に当たる水流が、心地よいマッサージ効果をもたらす。
窓の外には、眠らない街・東京の光の海。
その光の一つ一つに、人々の営みがある。
俺はその頂点に立ち、この街を見下ろしている。
傲慢かもしれない。だが、この景色を見るために、俺は戦っているのだ。




