10 帰ってきた日常
「もうそろそろ、花見のシーズンだね」
トスナルは、とろんとしたやる気のない目をして事務所の窓から顔を出し、自分にただ云い聞かせるようにして、そっと呟いた。
あたりを漂う、甘い花の香り。
クンネは、あの時以来、事務所に顔を出さなくなった京子のソファーの上に丸まって、目を閉じたままだった。けれど、その右耳はピクリと動いて、トスナルの方を向いたのだ。
この日も、誰も訪れることのなかった「トスナル探偵事務所」は、ゆっくりと時間ばかりが過ぎ去っていった。
「なあ、クンネ……ボク、この事務所をたたもうと思うんだ」
トスナルが、久しぶりに外の景色から目を外し、部屋の中へと視線を移す。聞こえないフリをした、クンネ。
「クンネ、聞こえないの? ボクさあ、この事務所を――」
「事務所閉めて、そのあと、どうする?」
寝そべったまま、トスナルの方には顔も向けずにクンネが云った。
「ど、どうするって……そんなこと、まだ何も考えてないよ」
「オマエみたいなやつが、魔法使い探偵の仕事以外に、何ができるってんだ?」
クンネは尻尾をきゅんと振り上げると、顔を素早くトスナルに向けて、じろりと睨みつけた。
「パセナルの件で、オマエが深く傷ついたのはわかる。だからオレもこうして何カ月も気力のないオマエを辛抱して見続けてきた。でも、オマエには、探偵しかないんだ。パセナルのためにもな……」
「……」
「それにさあ――」
きゅうううう
それは、最近ほとんど大した食べ物にありつけないクンネのおなかが、事務所の主に抗議をした音だった。
やれやれ、とクンネが、自分のおなかを右前足でさすっていた、そのとき。
ガチャリ
事務所の入り口のドアが、ノックもなく開いたのだ。
「あら、クンネちゃん、そこは私の場所よ。おどきなさい」
懐かしい、威圧的で、そして氷のように冷たい、あの声。
「お、お京さん!」
危うく窓から落ちそうになったトスナルは、すらりと背の高い、スカイブルーのドレスと白い帽子に身を包んだ女性が、事務所の入り口付近に仁王立ちしたのを、確認した。
帽子のつばで京子の表情が見えないことが、返ってトスナルの恐怖を誘う。
「お京さん、久しぶり!」
クンネは、ガチガチに固まったトスナルを尻目に、勢い良くジャンプして、京子の胸に飛び込んでいった。
「お久しぶりね、クンネちゃん。どうせお腹を空かしてると思って、ゴールドのカニ缶、持ってきたわよ」
京子が、ずっしり重そうな紙袋を持ち上げ、クンネに見せる。
うびぐひゃ!
狂気の声か、何かの爆発的音波のようなものを発しながら、床へと飛び降りたクンネ。
まるでびっしり積もった雪を喜ぶ犬のように、部屋中を走り回っている。
トスナルの方へとゆっくり向かいながら、京子が帽子を脱いだ。懐かしい、冷たく美しい眼差しが、トスナルの目に突き刺さる。
「どう、元気だった、探偵さん?」
「お、お京さん、どうしてここに? あの後、お京さんは缶詰会社の社長になったんでしょう? こんなところに来る暇などないはずだよ――」
「うん、確かになったわよ、社長に。お父さまがいなくなってしまったのだし、仕方がなかったのよね。でも、もう大丈夫」
「だ・い・じょ・お・ぶ?」
「そう、大丈夫なの。副社長にね、これからぜーんぶ会社のことは、任せることにしたから。あっ、ちなみに副社長は、姉の和美なんだけど」
部屋の片隅で立ち尽くす、トスナル。京子は、一度満面の笑みを浮かべると、かつての定位置、自分のソファーの真ん中に、どさっと腰かけた。
「あら、久しぶりに再会したフィアンセに、お茶の一杯もないわけ?」
「はい、た、只今、お入れします!」
催眠術から覚めたように突然キビキビと動き出したトスナルは、慌ててヤカンに水を入れると、コンロに火を点けた。
(フィアンセって……あれはただのゲームだったんだろ?)
トスナルは、ドキドキしながら急須を傾け、久しぶりに棚から出した京子の大きな湯呑に、トクトクとお茶を注いだ。
「ふん、お茶の淹れ方は、進歩してないようね。今まで何やってたのよ」
ごくごくと熱い液体にもへこたれず、豪快にお茶を喉に流しこむ、京子。
そのとき、あまりに部屋中を駆け回りすぎてぐったりとしていたクンネが、ぴょんと起きあがった。
「そういえばね、お京さん! 預かってた例のモノ、机の引き出しにあるよ」
「例のモノ? ああ、あれね!」
京子は嬉しそうに湯呑をコタツに置いて立ち上がると、事務所の机の引き出しを探り出した。
「あった、あった、婚約指輪」
京子が、パカリとゴージャスに飾られたその箱を開けると、そこには輝くばかりの金の指輪が二つあった。
トスナルが、抜き足、差し足、忍び足――その場から逃げ出そうとする。
京子は慌てずに、がっしりとトスナルの首根っこを捕まえ、無理矢理、片方の指輪をトスナルの左手の薬指にはめ込んだ。
「ク、クンネ、たすけてくれ!」
探偵事務所・所長のSOS信号を無視した、黒猫。
(さっすが、最強の魔女)
クンネの体が、少し震えている。
力を使い果たしかのように、崩れ落ちたトスナル。
と、そのとき、床にあったトスナルの専用席であるみかん箱がトスナルの頭に当たり、彼にとどめを刺した。白目をむいて、意識を失う魔法使い。
京子は、残った指輪を自分の指にはめ、喜び勇んで、その指を高らかにかかげた。
「さあ、美人秘書が事務所に戻ってきたからには商売繁盛間違いなし! がんばりましょうね、クンネちゃん!」
「そ、そうですね。がんばりましょお!」
えいえい、おー
こうして、いつもの「日常」が、この町外れの探偵事務所に戻ってきたのであった。
<完>