病院生活
しばらくすると、富士見さんが到着した。彼女の話によると、大雨のせいで崖崩れをしている所があって、そこを迂回するため、予定よりも時間がかかったらしい。いずれにせよ、彼女の到着は私を安心させた。
検査が終わると、私は病室へ運ばれた。病室は個室で誰にも気兼ねせずにすんだ。さすがに集団事務所が指定した病院とあって、検査結果がすぐにわかった。もうすでにデング熱のことは分かっていたが、本来なら熱が下がってから減るはずの血小板が、すでに平常の半分まで減っていたことが分かった。
どうやら、私はデング出血熱と言う重症の方になったらしい。つくづく、ついてないな…。そう思わずにはいられなかった。もし、血小板が平常時の十分の一まで減ったら、この病院でも対応できなくなるらしいので、そのときはアメリカへ緊急輸送されるとのこと。
この事実は私を不安にさせたが、どうすることもできなかった。とにかくよく寝て、食べられるだけ食べて、薬をきちんと飲むことしかできなかった。
オルデナプスに運ばれた次の日、発症から四日経った。あれほどひどかった目の奥の痛みと熱はすっかり下がった。薬の力もあっただろうが、デング熱は発症から四〜五日経つと、熱は自然と下がる。
しかし、食欲はまだわかない。また、血小板はどんどん減り続けて、通常の四分の一まで減った。今度は体中に発疹ができたり、突然体中が熱くなって汗が止まらなかったりしてびっくりした。
冨士見さんの話では熱が下がってから表れるデング熱の典型的な症状だと教えてくれた。もし冨士見さんがいなかったら、カナは間違いなくパニックになっていただろう。
さらに次の日、発症から五日目にはほんの少しだが、食欲も回復してきた。しかし、血小板は平常の七分の一まで減った。ここまで減ると、万が一転んだ際に血が止まらずに、危険が広がりかねないので、むやみにベッドから出歩かないように医者から言い渡された。また、常に左腕から点滴されるようになった。
さらに、脱水症状と鉄分不足を補うために、すごくまずい変な味のジュースを無理矢理飲まされることとなった。世の中にはこんなまずいものがあるのか…。そう思うぐらい、本当にまずかった。飲む時に気を張っていなければ、違った意味で気を失いそうだった。
このようなことを記録に残すのは、若干気がはばかられるが、あのジュースはゲロの味がした。薬みたいなものだから、多少まずいのは仕方ないとしても、ゲロの味はさすがに頂けない。せめて、飲むのに問題のない味付けぐらいはしてもらないと…。体が弱り切っている時にあれでは拷問だ。
発症から六日目。血小板の減り具合が心配されたことから、血液検査の回数が一日一回から三回に増やされる。朝の検査ではとうとう血小板が十分の一にまで減った。これ以上減るようなら、緊急輸送の準備に入るらしい。もうすでに緊急輸送の手続きが進められていた。
ところが昼の検査では十分の一からほんのわずかだけ減った。減るスピードが急に落ちたのである。そこでもう少しだけ様子を見ることとなった。夜に鳴ると、血小板がほんの少しだけ増えた。どうやら、最悪の事態は免れたらしいが、まだ細心の注意が必要だった。
発症から七日目、朝の検査で九分の一まで血小板が増えた。ほんの少しずつだが、もとの健康な体に戻ってきているようだ。昼の検査で七分の一、夜の検査では四分の一まで戻った。このように一度戻り出せば、もう大丈夫だと医者も看護士も健康相談員の富士見さんも言っていた。
私は緊急輸送でアメリカに行くことを覚悟していただけに急激な回復に安心するとともに、ちょっとだけがっかりしたことを覚えている。アメリカに緊急輸送までされたらどうなるのか知りたいと言う気持ちが少なからずあったからだ。
発症から八日目、朝の検査で血小板がいつも三分の二まで戻った。もう退院しても大丈夫と言うことだったので、退院することになる。しかし、デング熱の後遺症は血小板の減少だけではない。体力が極度に減少するので、体に思うように力が入らない状態がさらに一週間ほど続く。
退院の手続きは富士見さんが病後の私に代わって行った。さらに、肝臓にも悪い影響を与えるので、一ヶ月近くは肝臓の数値が悪くなる。そのため、約一ヶ月は一滴も酒が飲めない。
そう言うわけで、他の人々と同じように退院後一週間は集団事務所横の隊員連絡所で病後の静養をすることとなった。結局、私が病院にいる間にナコク遺跡での日本文化紹介はすっかり終わっていた。珍しく、あれほど必死になって練習や準備をしていたと言うのに…。もう、一一月も中旬にさしかかっている。




