後編
夜は、月がより大きく見えた。
昼とは違って、夜の黒との境界線がはっきりするから、その分大きく見えるのだ。
僕は、その月へと、より近づく場所にいた。
この街ではひときわ高い、二十四階建てのビルの屋上。
そこに辿り着いた時、僕はもう息も絶え絶えだった。
なにせ電気も止まっているから、エレベーターは使えない。
階段のせいで膝は疲労で笑っているけれど、なんとか手に持った物は落とさずにここまで来られた。
施錠が忘れ去られていたここへ来たのは、もう何日も前。
その時はなんとなくだったけれど、今日は明確な目的があった。
息が整うのを待ってから、空間を隔てる高い柵に近づく。
頭上にあるものは、それをやすやすと超えて、銀光のシャワーを降らせてくる。
「満天の月、かあ」
月は数々の星を押しのけて、そんな表現を生み出した。
ほかに誰もいない、と思っていたから呟けたことだったのに。
「言い得て妙だねー」
それでも僕は、後ろから聞こえてきたその声に驚くことはなかった。
振り返って見上げると、給水塔の上にその人はいた。
「湊さん」
女神様、と呼びそうになったことは多分、一生の秘密になるだろう。
ショートパンツ、タンクトップ、寝ぐせが跳ねたままのセミロング、そしてどこか疲れたような顔。
見慣れているはずなのに、ゆらりと立っている湊さんは月明かりの下で、煌々と輝いて見えた。
「やあ、凪くん。こんなところで会うなんて、奇遇だね」
月の光で満たされた。
そんな表現が浮かぶ声で呼びかけてきた湊さんは、給水塔から飛び降りてきた。
あ、と僕が驚きの声を発する間もなく、湊さんは危なげなく屋上の床に着地した。
足元がサンダルで不安定なのに、意外としか言いようがなかった。
湊さんは疑惑の視線を向けてきた。
「凪くん、きみ今、運動不足のニートなのに、とか思わなかった?」
「いいえ」
「割りとわかりやすいところあるよね、きみって」
そうだろうか。
こんな、最後が迫る中でも、ぼうっとしているような人間なのに。
その名の通り、ずっと凪いだ心を抱えている欠陥品なのに。
想いを、素直に出せない奴なのに。
「湊さんは、どうしてここに?」
「きみが前に言ったんだよ。ここ、いい眺めだって」
「そうでしたっけ」
言ったかもしれない。
けれど、それを湊さんが覚えていてくれたことを、やっぱり意外に思ってしまう。
それを察したのか、話しながら近づいてきていた湊さんは、首を傾げて再び、不審そうな目を向けてきていた。
距離が近い。
僕の背は、湊さんより少し高く、彼女を見下ろす形になる。
だから、その白い肌やタンクトップの胸元に、釘付けになりそうだった。
「まあ、いいけど」
湊さんの視線が僕の手元にそれて、少しほっとする。
僕の手には、昼にも飲んだルイボスティーのペットボトル。
そして、湊さんが好きな缶コーヒーがあった。
ちゃんとお金は、レジに置いてきた。
「そのコーヒーをわたしに見立てて、最後の晩餐でもしようと思った?」
今度こそ、動揺は顔に出てしまったと思う。
こんな時に、こんな高い所に来て実行することなんて、一つだろう。
湊さんは、得心したとばかりに頷いた。
「わたしも、死のうと思ってたんだよねー」
「え」
湊さんの吐露は、僕を激しく揺さぶった。
それこそ、人生でこんなに動揺したことはないだろう、と思うほどに。
その隙を突いたように、缶コーヒーの重みは僕の手から、湊さんの手に移っていた。
月下に奏でられる、プルタブの音。
湊さんの白い喉が動く。
月を見上げるその姿は、幻影のごとく儚く見えた。
「わたしが、おっかなびっくりで行ったコンビニに、きみがいたんだっけ」
理解が遅れて脳に届く。
それはおそらく、僕たちが初めて会った時のこと。
「お釣りをわたしの手に触れないように、そっと渡してくれたこと、ちゃんと覚えてるよ」
接客業にありがちなトラブルを、避けるための注意事項。
それだけのことだったのに。
「それで安心できたのかな。だから、きみがいる時を狙ってコンビニに行ってた。いない時は、ドアのところで帰ってたなあ」
「……すみません」
「いいよー」
湊さんは横顔を見せたままだ。
へらり、と口元から吐息が漏れる。
僕は、吐息を溶かす夜風になれたら、となんとなく思った。
「それでいつだったか、お礼代わりに、お釣りは雨宮くんにあげるよ、って言ったんだよね」
「そうでしたね。急に名前を呼ばれて、びっくりしました」
「ネームプレートに書いてあったからね。わたしは、お釣りを無理やり握らされて、びっくりしたなあ」
「あの時は、すみませんでした」
「いいよー」
と今は言ってくれているけれど、その時はお釣りを返せたのはいいものの、逃げ出されたんだっけ。
次の日、また来てくれて、ほっとしたことを思い出す。
湊さんの横顔には、笑みが浮かんでいる。
「思えば、あれが久しぶりの温もりで……嬉しかったな。それで味を占めちゃったんだと思う」
「だから、毎回お釣りはいらないと言ってきたんですね」
「白状しちゃうと、そう」
それはお約束となり、今日まで続いていた。
「それでいつの間にか、きみの名前が凪くんだってことを聞き出したり、わたしから自己紹介とかしたり。割とお仕事の邪魔したっけ」
「……まあ、楽しかったのは事実です」
「だったら嬉しいな」
邪魔されて少し迷惑だった、という内心は伝わらずに済んだようだった。
湊さんの口から、深いため息が漏れる。
「だから、もう充分。今日はパーティもできたし、満たされた、だから――って思ってここに来たのに」
細めた目が、僕に向いた。
それは、諦観と微笑が混じった、不思議な表情だった。
「ずるいよ、最後にきみと会えるなんて」
「僕は嬉しかったですよ、最後に会えて」
本当は、最後にはしたくない。
ずっと、あんなやり取りを続けていたかった。
けれど、世界はこんなありさまで。
僕はこんなつまらない奴で。
だからこそ、あれでもう充分。
僕のほうこそ、そう思っていたのに。
湊さんは、いつの間にか缶コーヒーではなく、一振りの剣を手にしていた。
――剣だって?
とうとうおかしくなったのか、と僕は自分の認識を疑った。
けれど、月明かりを照り返すその輝きは本物で、それを軽々振るう湊さんの姿も確かにある。
でも湊さんの口元には、あのへらりとした笑みは浮かんでいなかった。
瞳に明確な意思を込めた湊さんが、そこにいた。
「……湊さん?」
「わたし、遠い国にいたって言ったよね」
湊さんは僕の呼びかけには応えず、剣の柄をやり投げをする時のように持ち替えて、肩に担いだ。
剣の切っ先が、月に向かう。
「あれは嘘なんだ。実際は――異世界。そこで、魔王を倒してきたの」
「……魔王?」
「そう。そこに至るまでに散々、人の醜さを見せつけられて、諦めて、もう生きるのがいやになっちゃって。月が落ちてくるのも、ちょうどいいか、って放っておくつもりだった」
湊さんの視線も、剣と同じく月に向く。
そこには、力みも何もない。
なら――何があるのだろうか。
「でも、いやだな、って。世界が――きみとの場所がなくなるのは、いやだなって」
湊さんは、剣を持つ腕に力を込めた。
もう片方の腕は、発射台さながらに月を指す。
「だったら、月だって倒してみせる。――そう思えたんだ」
剣が投げつけられた。
その動きは速く、目で追えなかった。
投げた先を見ても、小さな点がかすかに浮かんでいただけで、それもすぐに見えなくなった。
戸惑う僕を見返すのは、湊さんのいたずらっぽい笑みだった。
「目を閉じて。爆発が来るよ」
「え、あ、はい?」
戸惑いは強くなるばかりだ。
それでも、言われた通り目を閉じた。
次の瞬間、大気の悲鳴が耳をつんざいた。
そして、瞼を貫く虹色の色彩が、脳まで届いて踊り狂う。
身体がぐらつきそうになり、混乱で自我さえ吹き散らされそうだった。
けれどそれは、両肩に添えられた力強さ、唇への柔らかな感触、そしてかすかなコーヒーの香りが引き留めてくれた。
しばらく、持っていかれそうな身体をこらえるだけの時間が続く。
そしてそれは、身体からすべての感触が離れることで終わりを告げた。
「終わったよ」
そんな、耳元での囁きを残して。
僕が恐々と目を開けると、暗さがあたりを満たしていた。
見えるのは、すぐ近くに立つ湊さんだけだった。
けれど、暗さで表情はわからない。
――あれだけうるさかった、月明かりが、ない。
僕は反射的に、夜空を見上げた。
「……え?」
もう、それはどこにも見当たらなかった。
都会特有の、星が瞬かない夜空があるだけだった。
そこに欠けているのは、時にくっきりと、時にぼんやりと浮かび上がっているはずの、月。
それが投げかけてくる月明かりも、もうどこにも見当たらない。
最初から世界に存在していなかったみたいに。
「ごめんね。押し返せたらよかったんだけど、わたしは倒すことしかできないから」
僕の反応をどう受け取ったのか、湊さんの縮こまったような気配が伝わってくる。
もしかして、怒られる、とでも思っているのだろうか。
そんなはずないのに。
何を言おうか、と思った僕が感じたのは、手に走った鈍い痛み。
それはずっと握りこんだままの、ルイボスティーのペットボトルだった。
僕は持ち上げて、キャップを捻ると湊さんに差し出す。
「お疲れさまでした。湊さんの好きなやつじゃないですけど、よければ」
暗がりの中で煌めいた――おそらく潤んだのは、湊さんの瞳だったのだろうか。
ペットボトルが湊さんの口元に運ばれていく。
「ぷはぁ」
そして、僕の胸元に押しつけられてくるペットボトル。
飲め、ということだと理解して、一瞬ためらって、それを呷る。
表情を隠す暗がりに、感謝しながら。
飲み終えると、沈黙が横たわった。
けれど、それもすぐに湊さんに上書きされた。
「凪くん、お昼に言ってくれたよね」
「なんのことです?」
「逃げたらわたしに会えなくなる、って」
「……え。あ、はい。言いましたね」
ここでそれを確認されるとは思わず、緊張を抑えきれなかった。
へらり、とした笑みは暗がりでもう見えない。
真剣な問いだけが届いてきた。
「あれって、告白?」
月が消えた、なんて重大であろう事実は、もうどうでもいい。
「月が綺麗ですね」という言い回しがもう使えないことに、内心で唸ってしまった。
それなら、どうやって伝えればいい?
もうどうしようもなく、あの月より大きくなってしまったこの想いを。
おそらく僕は――人生で一番、頭を悩ませたのだった。
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