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月が綺麗ですね、とはもう言えない  作者: 緋色


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2/2

後編

 夜は、月がより大きく見えた。

 昼とは違って、夜の黒との境界線がはっきりするから、その分大きく見えるのだ。

 僕は、その月へと、より近づく場所にいた。

 この街ではひときわ高い、二十四階建てのビルの屋上。

 そこに辿り着いた時、僕はもう息も絶え絶えだった。

 なにせ電気も止まっているから、エレベーターは使えない。

 階段のせいで膝は疲労で笑っているけれど、なんとか手に持った物は落とさずにここまで来られた。

 施錠が忘れ去られていたここへ来たのは、もう何日も前。

 その時はなんとなくだったけれど、今日は明確な目的があった。

 息が整うのを待ってから、空間を隔てる高い柵に近づく。

 頭上にあるものは、それをやすやすと超えて、銀光のシャワーを降らせてくる。

「満天の月、かあ」

 月は数々の星を押しのけて、そんな表現を生み出した。

 ほかに誰もいない、と思っていたから呟けたことだったのに。

「言い得て(みょう)だねー」

 それでも僕は、後ろから聞こえてきたその声に驚くことはなかった。

 振り返って見上げると、給水塔の上にその人はいた。

(みなと)さん」

 女神様、と呼びそうになったことは多分、一生の秘密になるだろう。

 ショートパンツ、タンクトップ、寝ぐせが跳ねたままのセミロング、そしてどこか疲れたような顔。

 見慣れているはずなのに、ゆらりと立っている湊さんは月明かりの下で、煌々(こうこう)と輝いて見えた。

「やあ、(なぎ)くん。こんなところで会うなんて、奇遇だね」

 月の光で満たされた。

 そんな表現が浮かぶ声で呼びかけてきた湊さんは、給水塔から飛び降りてきた。

 あ、と僕が驚きの声を発する間もなく、湊さんは危なげなく屋上の床に着地した。

 足元がサンダルで不安定なのに、意外としか言いようがなかった。

 湊さんは疑惑の視線を向けてきた。

「凪くん、きみ今、運動不足のニートなのに、とか思わなかった?」

「いいえ」

「割りとわかりやすいところあるよね、きみって」

 そうだろうか。

 こんな、最後が迫る中でも、ぼうっとしているような人間なのに。

 その名の通り、ずっと凪いだ心を抱えている欠陥品なのに。

 想いを、素直に出せない奴なのに。

「湊さんは、どうしてここに?」

「きみが前に言ったんだよ。ここ、いい眺めだって」

「そうでしたっけ」

 言ったかもしれない。

 けれど、それを湊さんが覚えていてくれたことを、やっぱり意外に思ってしまう。

 それを察したのか、話しながら近づいてきていた湊さんは、首を傾げて再び、不審そうな目を向けてきていた。

 距離が近い。

 僕の背は、湊さんより少し高く、彼女を見下ろす形になる。

 だから、その白い肌やタンクトップの胸元に、釘付けになりそうだった。

「まあ、いいけど」

 湊さんの視線が僕の手元にそれて、少しほっとする。

 僕の手には、昼にも飲んだルイボスティーのペットボトル。

 そして、湊さんが好きな缶コーヒーがあった。

 ちゃんとお金は、レジに置いてきた。

「そのコーヒーをわたしに見立てて、最後の晩餐でもしようと思った?」

 今度こそ、動揺は顔に出てしまったと思う。

 こんな時に、こんな高い所に来て実行することなんて、一つだろう。

 湊さんは、得心したとばかりに頷いた。

「わたしも、死のうと思ってたんだよねー」

「え」

 湊さんの吐露(とろ)は、僕を激しく揺さぶった。

 それこそ、人生でこんなに動揺したことはないだろう、と思うほどに。

 その隙を突いたように、缶コーヒーの重みは僕の手から、湊さんの手に移っていた。

 月下に奏でられる、プルタブの音。

 湊さんの白い喉が動く。

 月を見上げるその姿は、幻影のごとく儚く見えた。

「わたしが、おっかなびっくりで行ったコンビニに、きみがいたんだっけ」

 理解が遅れて脳に届く。

 それはおそらく、僕たちが初めて会った時のこと。

「お釣りをわたしの手に触れないように、そっと渡してくれたこと、ちゃんと覚えてるよ」

 接客業にありがちなトラブルを、避けるための注意事項。

 それだけのことだったのに。

「それで安心できたのかな。だから、きみがいる時を狙ってコンビニに行ってた。いない時は、ドアのところで帰ってたなあ」

「……すみません」

「いいよー」

 湊さんは横顔を見せたままだ。

 へらり、と口元から吐息が漏れる。

 僕は、吐息を溶かす夜風になれたら、となんとなく思った。

「それでいつだったか、お礼代わりに、お釣りは雨宮(あまみや)くんにあげるよ、って言ったんだよね」

「そうでしたね。急に名前を呼ばれて、びっくりしました」

「ネームプレートに書いてあったからね。わたしは、お釣りを無理やり握らされて、びっくりしたなあ」

「あの時は、すみませんでした」

「いいよー」

 と今は言ってくれているけれど、その時はお釣りを返せたのはいいものの、逃げ出されたんだっけ。

 次の日、また来てくれて、ほっとしたことを思い出す。

 湊さんの横顔には、笑みが浮かんでいる。

「思えば、あれが久しぶりの温もりで……嬉しかったな。それで味を()めちゃったんだと思う」

「だから、毎回お釣りはいらないと言ってきたんですね」

「白状しちゃうと、そう」

 それはお約束となり、今日まで続いていた。

「それでいつの間にか、きみの名前が凪くんだってことを聞き出したり、わたしから自己紹介とかしたり。割とお仕事の邪魔したっけ」

「……まあ、楽しかったのは事実です」

「だったら嬉しいな」

 邪魔されて少し迷惑だった、という内心は伝わらずに済んだようだった。

 湊さんの口から、深いため息が漏れる。

「だから、もう充分。今日はパーティもできたし、満たされた、だから――って思ってここに来たのに」

 細めた目が、僕に向いた。

 それは、諦観と微笑が混じった、不思議な表情だった。

「ずるいよ、最後にきみと会えるなんて」

「僕は嬉しかったですよ、最後に会えて」

 本当は、最後にはしたくない。

 ずっと、あんなやり取りを続けていたかった。

 けれど、世界はこんなありさまで。

 僕はこんなつまらない奴で。

 だからこそ、あれでもう充分。

 僕のほうこそ、そう思っていたのに。

 湊さんは、いつの間にか缶コーヒーではなく、一振りの剣を手にしていた。

 ――剣だって?

 とうとうおかしくなったのか、と僕は自分の認識を疑った。

 けれど、月明かりを照り返すその輝きは本物で、それを軽々振るう湊さんの姿も確かにある。

 でも湊さんの口元には、あのへらりとした笑みは浮かんでいなかった。

 瞳に明確な意思を込めた湊さんが、そこにいた。

「……湊さん?」

「わたし、遠い国にいたって言ったよね」

 湊さんは僕の呼びかけには応えず、剣の柄をやり投げをする時のように持ち替えて、肩に担いだ。

 剣の切っ先が、月に向かう。

「あれは嘘なんだ。実際は――異世界。そこで、魔王を倒してきたの」

「……魔王?」

「そう。そこに至るまでに散々、人の醜さを見せつけられて、諦めて、もう生きるのがいやになっちゃって。月が落ちてくるのも、ちょうどいいか、って放っておくつもりだった」

 湊さんの視線も、剣と同じく月に向く。

 そこには、力みも何もない。

 なら――何があるのだろうか。

「でも、いやだな、って。世界が――きみとの場所がなくなるのは、いやだなって」

 湊さんは、剣を持つ腕に力を込めた。

 もう片方の腕は、発射台さながらに月を指す。

「だったら、月だって倒してみせる。――そう思えたんだ」

 剣が投げつけられた。

 その動きは速く、目で追えなかった。

 投げた先を見ても、小さな点がかすかに浮かんでいただけで、それもすぐに見えなくなった。

 戸惑う僕を見返すのは、湊さんのいたずらっぽい笑みだった。

「目を閉じて。爆発が来るよ」

「え、あ、はい?」

 戸惑いは強くなるばかりだ。

 それでも、言われた通り目を閉じた。

 次の瞬間、大気の悲鳴が耳をつんざいた。

 そして、瞼を貫く虹色の色彩が、脳まで届いて踊り狂う。

 身体がぐらつきそうになり、混乱で自我さえ吹き散らされそうだった。

 けれどそれは、両肩に添えられた力強さ、唇への柔らかな感触、そしてかすかなコーヒーの香りが引き留めてくれた。

 しばらく、持っていかれそうな身体をこらえるだけの時間が続く。

 そしてそれは、身体からすべての感触が離れることで終わりを告げた。

「終わったよ」

 そんな、耳元での囁きを残して。

 僕が恐々(こわごわ)と目を開けると、暗さがあたりを満たしていた。

 見えるのは、すぐ近くに立つ湊さんだけだった。

 けれど、暗さで表情はわからない。

 ――あれだけうるさかった、月明かりが、ない。

 僕は反射的に、夜空を見上げた。

「……え?」

 もう、それはどこにも見当たらなかった。

 都会特有の、星が(またた)かない夜空があるだけだった。

 そこに欠けているのは、時にくっきりと、時にぼんやりと浮かび上がっているはずの、月。

 それが投げかけてくる月明かりも、もうどこにも見当たらない。

 最初から世界に存在していなかったみたいに。

「ごめんね。押し返せたらよかったんだけど、わたしは倒すことしかできないから」

 僕の反応をどう受け取ったのか、湊さんの縮こまったような気配が伝わってくる。

 もしかして、怒られる、とでも思っているのだろうか。

 そんなはずないのに。

 何を言おうか、と思った僕が感じたのは、手に走った鈍い痛み。

 それはずっと握りこんだままの、ルイボスティーのペットボトルだった。

 僕は持ち上げて、キャップを捻ると湊さんに差し出す。

「お疲れさまでした。湊さんの好きなやつじゃないですけど、よければ」

 暗がりの中で煌めいた――おそらく潤んだのは、湊さんの瞳だったのだろうか。

 ペットボトルが湊さんの口元に運ばれていく。

「ぷはぁ」

 そして、僕の胸元に押しつけられてくるペットボトル。

 飲め、ということだと理解して、一瞬ためらって、それを(あお)る。

 表情を隠す暗がりに、感謝しながら。

 飲み終えると、沈黙が横たわった。

 けれど、それもすぐに湊さんに上書きされた。

「凪くん、お昼に言ってくれたよね」

「なんのことです?」

「逃げたらわたしに会えなくなる、って」

「……え。あ、はい。言いましたね」

 ここでそれを確認されるとは思わず、緊張を抑えきれなかった。

 へらり、とした笑みは暗がりでもう見えない。

 真剣な問いだけが届いてきた。

「あれって、告白?」

 月が消えた、なんて重大であろう事実は、もうどうでもいい。

 「月が綺麗ですね」という言い回しがもう使えないことに、内心で唸ってしまった。

 それなら、どうやって伝えればいい?

 もうどうしようもなく、あの月より大きくなってしまったこの想いを。

 おそらく僕は――人生で一番、頭を悩ませたのだった。

読んでくださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
率直に一言を言わせてください、このお話好きです! まさか勇者だったとは……でも、最後に守るものが……ってかっこよすぎる! そして、月が綺麗ですねって言えないってそれは言えないです(笑) 物理的になくす…
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