前編
よろしくお願いいたします。
月が落ちてくるらしい。
それを聞いた時、僕は乾いた笑いでごまかした。
けれど、テレビのニュースキャスターが死んだ表情で告げた報道は、世論を小突いて転がした。
――各国宇宙機関は、月との衝突は不可避との見解を発表しました。
その日のうちに街から人が消え、公共サービスが止まった。
僕が通っていた大学も、今後の案内をしなくなった。
実感できたのは、大学に行ったはいいものの、誰もいなかった時だった。
「それもそうか」
妙に納得して、その日は一人暮らしのアパートに帰った。
そして、手持ち無沙汰な時間を過ごして、いつものバイト先のコンビニへ。
奇跡的に略奪された様子もなく、電気も陳列も昨日のままだった。
誰もいないスタッフルームに入ると店の制服に着替えて、カウンターに立つ。
こんなご時世、客が来るはずもない。
しかし、僕はその時――十六時を待っていた。
やがてその時間ぴったりに、自動ドアが開いて来客を出迎えた。
来客は女性で、見慣れたタンクトップにショートパンツ、足元はサンダルだった。
その人は店内に入ってくると、どこか眠たげに目を細めて歩み寄ってくる。
「おはよう、凪くん」
「もうお昼をだいぶ過ぎてますよ、湊さん」
いつものお約束の挨拶を交わす、僕こと雨宮凪と、常連客の相沢湊さん。
彼女がへらりと笑って小首を傾げると、寝ぐせの強いセミロングが揺れる。
二十三歳と言っていたので僕の四つ上になるけれど、それにしては毎度だらしないと思わされてしまう。
湊さんは、備えつけの買い物かごを手にすると、店内を一周。
そしてかごの中に小さな山を築いて、カウンターへと戻ってきた。
お酒のつまみ、スナック菓子、そしてブラックコーヒーの缶とルイボスティーのペットボトル。
「お会計よろー」
「セルフレジがありますよ」
「お姉さん、機械苦手なんだー」
「はいはい」
これもまた、お約束のやり取りだった。
バーコードを読み取っていく作業の何が面白いのか、湊さんは興味津々に僕の手元を覗き込んでくる。
けれど湊さんはタンクトップ。
僕は迫ってくる胸元に視線を奪われないように、努めて淡々とこなしていく。
湊さんはショートパンツのポケットから取り出した、くしゃくしゃの紙幣を押しつけてきた。
「釣りはいらねえぜー」
「そういうわけにはいきませんよ」
またもお約束。
僕は、湊さんがひらひら振る手を引き寄せると、お釣りの小銭を握らせた。
彼女の手はしっとりとしていて、否が応でも女性を意識させる。
名残惜しく感じながら手を離し、店員としての礼をする。
「お買い上げ、ありが――」
僕の言葉が途切れてしまったのは、店内の照明が落ちたからだった。
ついさっきまで動いていたレジのモニターも、何も映していなかった。
しん、と静寂が店内を満たす。
「あちゃー、全部止まっちゃったかー」
湊さんの視線は、壁際の冷蔵庫に向いていた。
静寂の正体は、わずかに響いていた冷蔵庫の駆動音が途切れたからだ、と気づいた。
それらが、明確に判を押してくる。
もう店じまいなのだ、と。
「……長らくのご愛顧、ありがとうございました」
別に、自分が店長というわけではないけれど。
気づけば、そんな風に深く頭を下げていた。
「あははー。じゃあ、乾杯しよっかー」
炭酸が抜けたみたいな声が聞こえてくる。
顔を上げると、そこには困ったような顔の湊さんがいた。
次いで差し出されてきたのは、ルイボスティーのペットボトルだった。
いつの頃からか、湊さんの買い物に混ざるようになった、僕への差し入れだった。
「今日は特別に、ね」
湊さんは、目を細めてほほ笑んだ。
僕は苦笑で応え、ペットボトルを受け取った。
缶コーヒーのプルタブを開ける音と、キャップを捻る音が続く。
「お月様にかんぱーい」
「……乾杯」
手元の飲み物を打ち合わせると、僕たちの視線は自然と、店の大きなガラス窓へと運ばれた。
そこには、もう空はほぼ見えなかった。
文字通り、のしかかってくる大きな月が映るだけ。
映画のスクリーンではなく、紛れもない現実だった。
「これはこれでオツだよね」
カウンター越しに立つ湊さんは、窓ガラスに視線を向けたまま、どこかお気楽だった。
オツとは何のことだろう、と僕は首を傾げてしまう。
間近に迫る月を眺めながら、コンビニでお互い好きな飲み物を傾ける、この時間のことだろうか。
それよりも僕は、湊さんの気怠げな横顔を見て、思うことがあった。
「お疲れさまでした」
思わず出た僕の言葉に、湊さんは驚いた表情で振り返ってきた。
そして浮かべたのは、泣き笑いだった。
「……ありがとう、凪くん」
顔を隠すように呷られる、コーヒーの缶。
僕は目を逸らすついでに、再度ガラス越しの月を見やる。
しばしの後に聞こえてきたのは、袋を開ける音だった。
カウンターに目を落とすと、前に湊さんが一番好きだと言っていた、スナック菓子の袋が手に取りやすいように大きく開けられていた。
「パーティしよー」
湊さんはやはり、気怠げに。
それでも、嬉しそうに笑った。
僕も釣られて、頬が緩む。
「お手拭きをつけ忘れていましたね」
「お箸もー」
「承知いたしました」
そんな会話の間にも、袋を開ける音は続く。
僕も袋を開けていく。
そうしてカウンターの上は、色とりどりのビュッフェになった。
「いっただきまーす」
湊さんは声に出して、僕は手を合わせてから、それぞれ指や箸を伸ばす。
「背徳的でいいねー」
「確かに」
にこやかな湊さんに、僕は苦笑するしかない。
ふと、カウンター越しに向かい合う店員と客、という構図から思いつく。
「……バーってこんな感じなんですかね」
「立ち飲み居酒屋の方が近いかなあ」
「そうなんですね。僕、まだお酒の席に行ったことがなくて」
「真面目か! 誘われたりとかないの?」
「そういう相手、いないんですよね」
「そうかー。わたしもなんだよねー」
湊さんは、へらり、と笑った。
それでもお酒の場を知っているということは、一人で行ったことがある、ということだろうか。
そんな想像を膨らませる。
「凪くんにだから、言うんだけどねー」
その切り出しに、どきり、とした。
「お姉さん、ある日突然――遠い国に呼ばれてね」
続けたその言葉は、表現を選んだのか、半ばでくぐもった。
しかし、その後は吹っ切れていた。
「若かったからかな。頼られたと思って、めっちゃ頑張ったんだ。でも、ある時に気づいてさ。これって、ただのワンオペじゃない? って」
箸で運ばれたスナック菓子を噛む音が、一区切りを伝えてくる。
「振り返ると、感謝された覚えもなくて、ただひたすら命令されてる感じだったかなー。もう嫌になっちゃって、とにかく仕事を終わらせよう、って感じでまた頑張ったんだっけ」
「……それは」
どう答えればいいか、わからない。
けれど湊さんは、僕の返答を期待していないように、今度は酒のあて――ジャーキーに指を伸ばした。
「で、なんとか終わらせて、報酬に金銀財宝だけはもらえて、やっと帰ってこれたんだよね。でも、対人恐怖症になっちゃってて、近くのコンビニに行くのが精いっぱい」
「……なるほど」
「あっ、今、『だからニートでも平気なのか』って思わなかった!?」
「そんなことはありません」
澄まして返したものの、言い当てられて慌てた内心を抑えきれたかどうか。
それよりも、抗議で身を乗り出してきた湊さんに、よほど揺さぶられる。
露出の多い格好、そして口元から漂うブラックコーヒーの残り香。
バーでもないのに、アルコールに晒されているみたいだった。
「ま、それはともかく」
湊さんの口元に浮かんだのは、小さなほほ笑みだった。
「だから、お疲れさまって言われて、嬉しかったよ」
「……それはどうも」
僕は勝手に上がってくる体温をどうにもできず、短い返事を絞り出すことしかできなかった。
思わず落とした視線の先のつまみは、だいぶ数を減らしていた。
「でも、わたしも大概だけど、きみも結構な物好きだよね」
視線を上げると、湊さんは店内を見渡していた。
「こんな時に、コンビニバイトしてるんだもん」
「それはまあ、どこに逃げたらいいかもわかりませんし」
きっとそれは、今言うべきことだと思った。
「逃げたら、湊さんに会えなくなりますし」
湊さんは、二度三度と瞬きを繰り返して。
「……おお」
と、呻き声をあげた。
そうして、イカの炙り焼きを、ぱくり。
もぐもぐとして飲み込んだ後、困惑を目に宿らせた。
「……そう来るとは、思ってなかったなあ」
「すみません。ご迷惑になるかとは思ったんですが」
カウンターには、湊さんが好きなスナック菓子の、最後のひとかけらが残っているだけだった。
パーティはもう終わる。
そして、この交流も。
トリガーとなるお菓子のひとかけらが、しなやかな指に持ち上げられる。
そのお菓子越しに、僕と湊さんの視線が絡み合う。
「あーん」
「むぐ」
突然迫ってきたお菓子は、僕の口の中に突っ込まれた。
それだけではなく、指先まで。
一瞬だけ口腔で蠢いた指先は、何かを思う暇もなく引き抜かれて、そのまま湊さんの口元へ。
そして、お菓子の粉を舐め取るように、舌を動かした。
湊さんは見慣れた、へらりとした笑みを浮かべて、身を翻す。
ドアの前に立つと首を傾げて、もう自動では開かないと思い出したのだろう、両手で引き開けた。
僕は慌てて口の中のお菓子を飲み込む。
店の中と外を区切る線の上に立つと、湊さんは後ろ手を振った。
「じゃあね」
「お元気で」
僕はそんな挨拶だけを返せた。
月に埋め尽くされる空に、消えていくような湊さん。
その後ろ姿を見送って、僕は深く一礼した。
きっと、これでいい。
こんな、何を考えているかわからないような奴からの想いなんて、これ以上は迷惑だろうから。
僕はコンビニの制服を脱ぎ捨てた。
――それでも、想いに反して火照っていた身体は、なかなか冷めてくれなかった。
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