五主島
海風が気持ち良かった。
映画の主人公になったつもりか、近藤は船の舳先に立ち、目を細めながら前方を凝視していた。阿佐部は近藤の斜め後ろに黙って立っていた。風が強く、目を開けていられなかった。
阿佐部たち二人は船の上にいた。
愛媛県宇和島市の宇和島港から西方、約二十八キロの海上に日振島がある。
豊後水道に浮かぶ日振島は有人島だ。四平方キロほどの小さな島で、海岸線は歩いて一周しても二時間ちょっとしかかからない。磯釣り、一本釣りなど、魚釣りのメッカとして知られる。屈曲の多い入江が描き出す景色は絶景で、海蝕洞や岩礁群など、変化に富んだ四季折々の景観を楽しむことができる。
観光以外にも、承平天慶の乱で有名な藤原純友縁の島として有名である。
平安中期、関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友が、ほぼ同時期に造反の烽火を上げ、時の朝廷を大いに慌てさせた。
平清盛が武家政権を樹立するのは、まだ百年以上も後のことで、純友が旗揚げした頃は藤原氏の全盛期と言えた。藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まる直前の出来事だった。
将門の反乱は新皇僭称後、わずか二ヶ月で鎮圧されてしまったが、純友は瀬戸内海の小島、伊予国日振島に盤踞し、二年に亘り、海賊として猛威を振るい続けた。
天慶二年(九三九年)、藤原純友は中央から派遣されてきた受領の苛斂誅求に耐え兼ね、備前・播磨国の介を襲撃した。翌、天慶三年には、淡路国、讃岐国の国府を襲撃し、ここに敢然と朝廷へ叛旗を翻した。そして、太宰府を襲撃するに及び、ついに朝廷より追討を受けることになる。
僥倖の矢により将門の乱を平定できた朝廷は小野好古を追捕使長官とする追討軍を派遣した。兵力を純友の反乱の平定に集中することができたのだ。
天慶四年(九四一年)の博多湾の戦いで、純友は朝廷の追捕使の船団と一戦し、一敗地に塗れ、伊予国、日振島に逃れた。
その後、純友は追捕使に討たれたとも、捕まって獄中死したとも、南海に逃げ去ったともいわれている。
日振島には当時の砦跡や、純友が使用したと伝えられる井戸などの遺跡が残っている。
島は大分県と四国の間に位置しており、九州との縁が深い。戦国時代、日振島は再び脚光を浴びる。
天正十四年(一五八六年)、天下統一を目論む豊臣秀吉は軍を九州に進めた。九州平定である。豊臣家への臣従を拒む島津氏を討伐するためだ。島津勢と豊臣勢は豊後の国、戸次川の河原にて激突した。戸次川の戦いだ。
まとまりを欠いた豊臣勢は島津勢に散々に打ち負かされた。豊臣方だった土佐の長宗我部元親は島津軍の包囲を受けた。かろうじて包囲を突破することができたが、この戦で嫡男の信親を失っている。戦に敗れた元親が落ち延びた先が日振島だった。
日振島の周辺には、大小、様々な小島が点在している。
日振島の南五キロの海上に、海食による断崖で囲まれた五主島という島がある。古老の口碑によれば神功皇后が三韓征伐の帰途、悪天候のため九州と四国の間に流された征討軍が暗夜に五個の灯明を見たという。船を進めるとそこに小島があった。この故事により島は五主島と名付けられた。
藤原純友の時代には海賊が住んでいたという逸話があり、海賊島とも呼ばれている。
戦後、島の開墾が行われる。引揚者が島に入植した。更に、農林省の指導により五主島移住計画が立案され、国費による開発が進められた。公衆電話、火力発電所などが、次々と建設され、電気が供給され、学校が建てられた。
島のインフラは急ピッチで整備が進んだ。
だが、度重なる台風の襲来と野ネズミの被害に見舞われ、学校の建設から程なくして島を捨てる島民が相継ぐようになってしまった。そして、六十年代の中頃には、島民の全てが離島してしまい、無人島となった。
島の開発は徒労に終わってしまった。
阿佐部たちはその五主島を目指していた。柴崎高尚の証言の内容を確認する為だった。県警を放り出された柴崎は取材に訪れていた愛媛放送局の人間に拾われた。玄関まで送って行った阿佐部はその様子を目撃していた。
「頼む。俺を保護してくれ! 殺される。大事件なんだ。俺の話を聞いてくれ」柴崎は愛媛放送局の人間に、そう売り込んでいた。
愛媛放送局に確認すると、柴崎はカメラの前で事件について一部始終を語っており、その証言内容が残されていると言う。
「その映像、見せてもらえませんか」と頼み込み、愛媛放送局で阿佐部と近藤は柴崎の残したインタビュー映像を確認した。
阿佐部たちが聴取した内容と同じだった。
そして、もう一度、その証言内容を確認する為に五主島に向かっているのだ。
こんな漁船ではなく、立派なクルーズ船だったらしいが、あの日、柴崎高尚もこうして五主島を目指していた。この海を見ていたはずだ。




