柴崎高尚の証言(六)②
洗面台に放り投げた包丁を握りなおした。
鏡に自分の顔が映っていた。土気色の顔色に削げ落ちた頬、目だけが異様にぎらぎらと輝いていた。鏡の中の顔は他人の顔に見えた。
――これが人を殺した男の顔だ。
自分の顔がまるで自分でないようで怖かった。
バスルームを出ようとするとドアに鍵がかかっていることに気がついた。自分でかけたのだろう。まるで覚えがなかった。村田を殺して、一人切りになったのなら鍵をかける必要などなかった。だが、日野が生きているとなると、バスルームに鍵をかけて閉じこもったのは正解だったかもしれない。お陰で命拾いした。そう思った。
ゆっくりとバスルームを出た。
真っ暗だった。黄鶴楼に戻って来たのは日暮れ前だったが、部屋は夕闇に塗りこめられていた。どのくらい、バスルームで気を失っていたのか分からなかった。
包丁を手に廊下に出た。
廊下に灯りがついていた。考えて見れば、無線は通じないが電気は来ていた。地下にある自家用発電機がちゃんと動いていたようだ。水も来ていた。地下水をくみ上げるポンプが動いている証拠だ。
階段を降りた。ドキリとした。廊下の隅に村田の遺体が見えた。慌てて目を逸らした。今にも村田が起き上がってきて、再び襲い掛かって来そうな気がした。足早に階段を降りた。
床に転がっていた金属バットを拾った。武器はひとつでも多い方が良い。
食堂に入った。厚い絨毯の上に、血痕が落ちていた。村田が手にしていた包丁から滴れ落ちた血だ。厨房に向かった。厨房へは食堂からしか入れない。
厨房の前まで来ると息を整えた。えい! と勢いよくドアノブを回した。
床に日野の顔があった。
日野は入口に顔を向け、仰向けになって床に倒れていた。かっと目を見開き、口を半開きにして、への字に歪めていた。口角から血泡を吹いていた。血だまりの中に浮いているようだった。背後から刺されたからだろう。背中から出血したのだ。首筋から顎にかけて、飛び散った血潮が張り付いていた。
想像以上に凄惨な殺害現場だった。だが、俺は別のことに気を取られていた。
何に気を取られたのかって? 日野の死体は不飲酒戒と書かれた前掛けを掛けていたからだ。俺にだって分かる。それがどんな意味を持っているのか。
俺は地蔵から近道を通って黄鶴楼に戻って来た。地蔵は前掛けをしていた。黄鶴楼に戻った時には、日野は死んでいたはずだ。村田が日野を殺したのだとすると、一体、何時、前掛けを取りに行ったのだ? 前掛けを取りに行ったとすると俺とすれ違っていなければおかしい。俺が帰ってくる前に前掛けを取りに行ったのだとすると、地蔵が前掛けをしていたのが変だ。
つまり、日野に前掛けを掛けたのは村田ではないということになる。村田との死闘の後、俺がバスルームで気を失っている間に、誰かが地蔵まで行って前掛けを取って来たのだ。
まさか。まさか。俺は厨房を後にすると、村田の死体のもとに走った。確かめなければならない。村田が前掛けをしているかどうか。階段を降りて来る時、村田の死体から目を逸らしたのではっきりと見ていなかった。
玄関ロビーに出る。隅に転がった村田の死体に目を向けた。何がどうなっているのだ⁉ 村田の死体は前掛けをしていた。前掛けには不殺生戒と書かれていた。
混乱した。俺か? 無意識の内に俺がやったのか? そんなはずない! もう何が何だか分からなかった。
四十年前に島に逃げ込んだという殺人鬼が一人、また一人と黄鶴楼の住人を殺害していったのか? もう沢山だ。全て、どうでも良い。こんなとこにいられるか⁉ 薄気味の悪い屋敷とはおさらばだ。この屋敷は海賊の怨霊に祟られている。そう思った。
玄関を駆け抜け、外へ出た。
食糧補給の船が来るのは水曜日だと水谷が言っていた。今日が何曜日なのか分からなくなっていたが、もう屋敷には居たくなかった。
港に向かった。そこでフェリーを待つつもりだった。夢中で駆けた。途中で、手に持っていたバットと包丁を叢に投げ捨てた。必死に駆けた。
一気に坂を駆け下りた。港に駆け込むと、足がもつれてどうと転んだ。激しく二度、三度、回転がった。もう少しで海中へ転落するところだった。
俺は仰向けになって、ぜいぜいと荒い息をついた。そして咳き込んだ。体中を痛みと疲労が襲って来た。
と、その時、
――ごおおおお~!
と大地が震えた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。地震だと思った。港を破壊した、地震がまた来たのだと思った。
急に、辺りが明るくなった。
振り返ると、黄鶴楼から火花が上がるのが見えた。
ぐわぐわと不気味な轟音を建てながら黄鶴楼が崩れて行く。
古びたビルを爆破して解体する映像を見たことがあるだろう? 丁度、あんな感じだ。巨大な塔が重力に引っ張られるように地面へ吸い込まれて行った。
亜由美、長谷川、水谷、日野、そして村田の遺体を飲み込みながら。
やがて、全てが暗闇に包まれた。その後、少し遅れて、ぶわと砂塵が襲ってきた。砂嵐のようだった。あっという間に俺を包み込んだ。
ゲホゲホと咳をしながら、蹲った。
砂塵が通り過ぎ、再び、静寂と暗闇が辺りを支配した。俺はのろのろと立ち上がると、近くの廃屋に向かった。
もう嫌だ。こんなところにはいたくない。こんなところにいたら、殺されてしまう。間一髪だった。もう少し、黄鶴楼を飛び出すのが遅かったら、今頃、瓦礫の下に埋もれていたはずだ。危なかった。地下にあった自家用発電機が爆破したのかもしれない。とにかく、この島にいては危険だ。本能がそう訴えていた。
空き家に行くと戸板があった。俺は戸板を抱えたまま埠頭の先端まで歩くと、ざんぶと海に投げ入れた。そして、海に飛び込んだ。少しでも島から離れたかった。
戸板に摑まり、体を乗せて、サーフィンのパドリングのようにして沖へ沖へと漕ぎ出して行った。




