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塞ぐ  作者: 海原ろこめ
第三章
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第二節

 朝陽が射す北橋高校前。文化祭が開催されるとはいえ、外から見た校舎は特に変化がない。

 普段と異なる点といえば、正門横に二つの看板が設置されている事だろう。

 まず。左の門横に設置された看板の上の方に、ゴシック体で「文化祭」と大きく描かれていた。

 看板の真ん中に描かれている絵は、半袖の制服を着た男子生徒と女子生徒が『トビ』を眺めているという構図だ。

 男子生徒と女子生徒はこちらに背を向けて立っており、『トビ』は青空を旋回して飛んでいる。

 看板の下には、「君のように優雅には飛べないけど、僕らは僕らなりに羽ばたくよ」と明朝体で達筆に書かれている。

 次に。右の門横に設置された看板には、妖精のように空を飛んでいる男女のシルエット(男女の輪郭の中は黒く塗り潰されている。)が描かれている。

 妖精のように、と言ったが、男女の背中には羽は生えていない。

 看板の背景は、青空ではなく大雨が降っているものの、綺麗な虹が架かっている。

 だが。左横の看板では描かれていた『トビ』の姿はなく、文字も右下に書かれた「吾唯足知」という四字熟語のみだった。

 しかし、シンプルなお陰か、男女が両手を繋ぎ、お互いに支え合いながら、懸命に羽ばたいている様子がより際立っている。


 もう六月中旬の為、華那は白の半袖シャツにグレーチェックのネクタイとスカートという夏服姿である。

 なぜか看板から嫌そうに目を逸らしつつ華那は正門を足早に通り過ぎた。

 猫背と内股歩きになっている。

 そのまま、道の両端に木々が空高く生い茂る北橋高校の敷地内を進んでいく。

 北橋高校美術部は──今日開催される文化祭準備の為に、試験が終了した日から昨日まで忙しく作業をしていた。

 部に所属している華那も、校門前に設置されているこれらの看板作りや、個人作品である油絵を描いた。

 ちなみに、校内の生徒、教師、そして来校者に配布されるパンフレットのイラストは、文化祭で引退する三年の部員が担当した。

 ふと、視界が地面を捉えている事に気づいて、華那は顔を上げた。

 猫背はダメだ、と思ったのだ。

 背筋を伸ばすと、青い空が眼前に広がる。

 だが、華那には青空が霞んで見えた。

 太陽の光が眩しいから、霞んで見えるのではない。

「自分のフィルター」を通して見る事により、どうしても霞んで見えてしまうのだ。

 今は特に、不安、恐怖、そして孤独の"ネガティヴフィルター"がかかっている状態である。

 ここ最近は、梅雨の中休みで晴れの日が続いているのだが、心が晴れるどころか、疎ましいとさえ思っていた。

 多分、空の明るさが、今、自分が抱いている感情とあまりにもかけ離れている為にショックを受けるのだろう。

 今日は文化祭で授業が行われない。だから、黒の学生鞄は家に置いてきた。

 唯一の持ち物である紺色のリュックサックの肩紐を、華那は両手でぎゅっと強く握り締めていた。

 不安を紛らわす為だ。

 と、後方から自分とは異なる足音と自転車の音が聞こえた。


「──おはよう、華那」


 続けて聞こえたのは、落ち着いた低音の品のある声。

 華那は素早く振り返った。

「……あっ、雪弥! おはよう」

 二つの音の主は雪弥だった。

 白の半袖シャツに黒ズボンという涼しげな夏服姿。

 また、普段肩にかけているエナメルバッグではなく、今日はカーキ色のリュックサックを背負っている。

 艶のある黒短髪。整った目鼻立ち。陶器のように透き通った頬。口元には憂いを感じさせない爽やかな微笑み。そして、絵画の背景のように、雪弥の背後には澄み渡った青空が広がっている。

 なんか、水彩画みたい──!

 華那は驚嘆して、その後、胸の内で冷静に呟いた。

 もし、今の風景をそのまま画用紙に写し取れたら、迷いなく額縁に入れて飾る……!

「華那、お前何かあったのか? すげぇ暗い顔してる」

 雪弥の指摘に、華那は思わず言葉に詰まった。

 まさか雪弥に気づかれるとは思っていなかった。自分が青空に似合わない、曇った表情をしている事に。

 雪弥は無言で自転車をカラカラと押して華那の右隣にやってきた。

 華那と雪弥の二人は、肩を並べて静かに歩き始める。

 華那はやはり猫背で、雪弥は背筋がまっすぐ伸びた状態で自分の右側で自転車を押しながら歩いている。

 ──雪弥にはバレたらダメだ!

 華那は何とか誤魔化そうと、無表情でかぶりを振った。

「別に何もないよ」

 その後すぐに、雪弥に「雪弥こそ」と心配そうな声で言う。

 すると、雪弥は一瞬無表情になり、やがて「何の事だよ?」とにこりと微笑んだ。

「あっ! そういや、さっき看板見たけど、あれって美術部が描いたんだよな?」

 するりと話題を変えた雪弥に、触れない方が良かったかな、と後悔しながら華那は答えた。

「うん、そうだよ」

「俺には絶対描けねぇと思った。華那も描いたんだろ?」

「うん。看板は基本、全員参加だし」

「デケェのに、細部まで丁寧に色塗りされてた。……やっぱ、作業は大変だったのか?」

「うん……。まあまあ」

 素っ気ない返答をしてしまった。

 こんな態度では、雪弥に可愛げがない、と思われてしまうだろうか。

 それは嫌だ、と華那は思う。

 風花なら、「大変だったけど、めちゃくちゃ楽しかったよ。皆で何かをやり遂げるのってやっぱ最高!」って、可愛い笑顔で答えたのかなぁ……。

 そんな事を想像した途端、胸がきゅっと痛んだ。

「後、美術室に展示する用の油絵も描いたんだよな?」

「何でそんな事訊くの? 興味あるの」

 雪弥の質問に答えた華那の声は、明らかに尖っていた。

 華那は提出期限前に花の油絵を無事に完成させた。

 だが、その出来栄えに納得していないのだ。

「いや……、興味あるから訊いたんだ。俺、去年の文化祭の時も見に行ったけど、華那の絵は繊細な色使いで独創性もあって……すげぇよかったと思う。だから、今年も楽しみにしてたんだ」

 えっ、見てたの!?

 華那は思わず叫びそうになった。

 去年の文化祭の時も、美術室に油絵を展示した。

 だが、雪弥は絵を褒めるどころか、話題に出すことさえなかった。

 その為──今、雪弥に称賛を受けた状況が信じられず、華那は生まれて初めてひらひらと舞う雪を見た子猫のように目を丸くした。

 とくとくと鼓動が音を立て始める中、華那は口を開く。

「楽しみだなんて、期待しないでよ!」

 声は自分でも分かるほど上ずっていた。

 自分が納得していない絵を雪弥に見られるのは恥ずかしい。

 失敗したって言えば見に行かないかもしれない。

 そう思った華那は「ちょっと失敗したから!」と付け加えた。

「普段絵も描かなくて、美術に詳しくない素人の俺からしたら、作品の良し悪しなんてさっぱり分かんねぇし……。だから多分、失敗にも気づかないと思うぞ。それからさ……、お前が描いた絵なら絶対素晴らしいと思うから心配しなくても大丈夫だよ」

 雪弥の言葉に、華那の心臓はドクンと跳ねた。

 え、お前が描いた絵なら絶対素晴らしい? それって──、

「冗談でしょ? 私なんかより……、風花が描いた絵の方が凄いんだよ?」

「冗談なんかじゃねぇ。……いや、どうして急に円井まるいの話が出てくるんだよ?」

「だって……、」

 華那はためらいがちに口を開いた。

「美術部のみんなが風花の絵をめちゃくちゃ褒めてたから! 私の作品はね……、その絶賛されてる風花の絵の右横に展示されるの」

 部活中に、風花は下書きの段階から美術部の顧問や何人もの部員から『うまっ!』と称賛されていた。確かに風花の絵は上手で、華那は自分の絵と風花の絵を見比べて落ち込んだ。そして、色を塗り終わって完成した絵を再び見比べて、ひどく落ち込む。

 それは、油絵の具の色使いや筆致、構図の巧みさ、完成度、全てが自分より上回っている事が一目瞭然だったからである。

 それだけではない。華那から見た風花は──まだ美術部に馴染めていない華那が悔しくなるほど、先輩や後輩たちと親睦を深めており、運動音痴な華那とは対照的に体育(実技)の成績が高く、いつまでも初恋を引きずっている華那とは違って彼氏持ちである。

 ただし、彼氏の件については、華那、雪弥、風花、陽翔の四人で試験勉強を行った時に、彼氏とは五月頃に別れた事を風花本人に教えてもらった。だが、喧嘩別れしたという彼氏とのトラブルも、風花は多分、一人で乗り越えた。そして、風花は陽翔の話をするだけで頬が赤く染まるので、現在は陽翔に好意を寄せているのだろう。つまり、風花は元彼を引きずらずに新しい恋に挑戦しているのだ。

 階段の遥か先に風花の小さな──米粒と同じ大きさの後ろ姿に向かって、自分が「待って!!」と哀しげに叫びながら必死に手を伸ばしている光景を思い浮かべながら、華那は口を開く。

「私は自分の絵なんて見たくないし、見に行かないつもりだったんだけど……。風花が『一緒に見に行こうよ!』って誘ってきて……、断れなくて見に行くことになっちゃったの」

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