覚悟を決める女たち
「ひっく……ひっく」
何者かに踏み潰された、倒れた書架。壁に無数に走る刃傷。
床には、様々な書物が乱雑に散らばっている。
惨状としか言えないマリーの私設書庫に、レイチェルの嗚咽だけが響く。
アリスはむすっとした表情。ルナリアは青ざめ、紫音は虚空を仰いでいる。
マリーが、真剣そのものの顔で、アリスに訊く。
「黒陽練が、ブラックドッグに呑まれた。それは間違いないのか?」
「見間違えるわけがないわよ。練を呑んだブラックドッグを瞬殺して腹を割いてやったけど、中は空どころか闇しかなかったわ」
「そのブラックドッグはどうした」
「他の奴らと同じ。息絶えたら消滅したわよ……何も残さずに」
アリスが黙り込み、一瞬、しんと部屋が静まった。
練がブラックドッグに呑まれた直後。アリスは背後にレイチェルをかばいながら、次々と召喚されるブラックドッグを魔法刃で駆逐し、召喚魔法陣を破壊した。
その間、数十秒。
練を呑んだブラックドッグも切り刻んだが、練の姿はすでになく。
倒した怪異は全て、塵と化し。そして蒸発するように消えた。
私設書庫の様子は、所有者のマリーにはリアルタイムで伝わっていたらしく、マリーとルナリア、紫音は急いで駆けつけた。
私設書庫のあるフロアは魔法セキュリティが高く、外敵を阻むために転移魔法が使えなかったせいで、マリーたちの対応は遅れてしまった。
たまたま書庫の前に、練に会うためにやってきたアリスだけが、状況に対応できたのである。
皆で泣きじゃくるレイチェルをなだめて事情をどうにか聞き出し、今に至る。
「ひっく……ごめ……ごめ、んなさい、です……レイチェルの、せい、で……」
大粒の涙を流しながら、途切れ途切れにレイチェル。
ルナリアが、その小さな身体を柔らかく抱く。
「知らなかったのでしょう。貴女のせいでは、ありませんよ」
「でも、でも……でもお……」
「練さまなら、きっと大丈夫。だから、自分を責める必要はありません」
練ならば、大丈夫。そのルナリアの言葉は、単なる気休めにすぎないようには聞えない。
真実、そう信じているかのようだった。
ルナリアは顔を青ざめさせてはいるが、決して、うろたえてはいない。
「先ほども、訊きましたが。貴女は確かに、カミルから護符を転移で受け取り、それを練さまに渡したのですね?」
「そう、なの、です……お守り、のはず、なの、です……」
マリーが苦いものを噛んだように顔をしかめる。
「カミル……あの小僧め……! 極小の転移魔法でセキュリティの穴を突くとは、やってくれたなっ」
ルナリアが真剣な表情をマリーに向けた。
「まだカミルの仕業だと決まったわけではありません。軽々に、私の弟のせいにしないでいただけますでしょうか、ハンマー公」
「……事ここに至っても、おぬしはそう言うか。甘い――いや。性根から、頑固なまでに善人なのだな。少々呆れるぞ、被害に遭ったのはおぬしの大事な黒陽練だというのに」
く、とルナリアが一瞬、下唇を噛んだ。
「……わかっております。だからこそ――カミルを、疑いたくはないのです。もし真実、カミルが謀ったことならば……私は。血を分けた弟を、許せなくなってしまいますから」
天を仰いでいた紫音が、片手で頭をかきつつ顔を下げた。そしてソニアの口調で言う。
「気持ちはわかるけれど、ルナリア。こっちはもう動いているわよ? カミルの身柄は、ひとまず抑えた。これから私が直接、話を聞いてくる」
「ソニア姉さま……どうか、お手柔らかに」
「今度ばかりは、それは聞けないお願いね。さっき、レイチェルから聞いた話だと、カミルはレイチェルに、練くんと二人きりの時に護符を渡せ、と言ったのでしょう? カミル、練くんを始末するためにその子も犠牲にする気だったのよ?」
「レイチェルも、ですか」
レイチェルが無言でルナリアにしがみつく手に力を込める。
ルナリアも抱き返す腕に少しだけ力を入れた。
淡々と紫音がソニアの口調で告げる。
「練くんとレイチェルをブラックドックに喰わせて、証人と証拠をまとめて消し去る。それがカミルの計画ね、きっと。でなければ、二人きりの時に、なんて指示はしないわよ」
むすっとした顔でアリスが口を挟む。
「今の私はルナリアの護衛だし、この私設書庫への立ち入りはルナリア同様に禁止されてる。それはカミルも知ってるだろうから、私の邪魔は入らないと思ったのかしら」
ソニアの口調で、紫音がアリスに語る。
「アリスの乱入前に、片付けられると考えたのかもしれないわ。でも、おそらく。練くんが、わずかにでもブラックドックに抵抗した。その一瞬が、アリスがレイチェルを助けるための時間になったのよ、推測でしかないけれどね」
「レン先生は、閃光の魔法で怪物の眼をくらましてくれましたのです。あれがなければ、レイチェルも一緒にあの時、食べられてしまっていたのです……」
ぼそぼそと、レイチェル。
「そうだったのですか。練さまは貴女を守ってくれたのですね――戻って来たら、一緒にお礼を言いましょう」
「レン先生。戻ってこられるのです?」
「ええ、きっと」
ルナリアがきっぱりと言ったが、レイチェル以外の誰もがわかっている。
練は、どことも知れない別次元へと飛ばされた。生還できる可能性など、ゼロに等しいと。
床に視線を落としたマリーが、一冊の本を見つけた。
『多元平行世界と異次元の可能性』
練が異次元探索の研究に使っていた、ブリタリアの古い本だ。
「黒陽練は、異次元について研究していたんだったな、最近。今となっては、その研究の成果に希望を託す他、あるまい」
「そうね」とソニア。
「こちらでもブラックドッグに詳しい人間をすでに呼んだわ。その者と相談し、何としても異次元の練くんを助け出すから――ルナリア」
「はい、ソニア姉さま」
「貴女とマリーは、こっちを心配しないで明日に備えなさい。練くんは必ず見つけてみせるけれど、ジオールド出現に間に合わせると約束はできないから」
「心得ました。夫の留守を守るのは、妻の役目です」
ふっと紫音の向こうでソニアが笑った気配がした。
「ぶれないわね、貴女はほんとうに。じゃあ、マリー。そっちはよろしく」
「おう、任せておけ。人間に化けた竜なんぞ、今度こそ鉄槌でぺしゃんこにしてくれる」
「ああ、そのことだけど! ルナリアもマリーも、あの少女の身体には、極力、傷を負わせないようにね!」
マリーが驚き顔になる。
「何を無茶なことを抜かしよる。事態の深刻さに頭が変にでもなったか、ソニア」
「いたって正常よ、私は。まあ、困った弟のせいでほとほと疲れてはいるけれど。確証がないから言うか悩んでいたけれど、言っちゃえば悩みが減るから言っちゃうわね」
一拍はさみ、ソニアが告げる。
「あの、ジオールド。宿主は練くんの従妹――麗ちゃんよ、ほぼ間違いなく。だから、傷つけちゃダメなの。納得した?」
「……なんと」とマリー。
「――旧神竜が、人に取り憑けるものなのですか?」とルナリア。
「だから確証はないのよ。状況から推測しただけだもの。手っ取り早いのは、そうね。明日、ジオールドに直接訊いてみて。正解なら、笑いながら肯定すると思うわよ、あのはた迷惑な『厄災』は」
「……承知いたしました」
「お願いするわね。それじゃ私はカミルをとっちめに行ってくるから! 何かわかったらすぐ伝えるから、紫音と一緒にいること。いいわね!」
ルナリアの返事を待たず、紫音が口を閉ざす。瞬きを一回し、口調が元に戻る。
「……ほんとうに、大変なことになったね。明日は僕とジェンカも、全力で貴女たちのサポートをするよ」
「あてにさせてもらうぞ、ソニアの『黄金人形』よ」
と、マリー。紫音が恐縮したように苦笑する。
「いちおう、人間相手に絶対に敗北が許されないよう、僕は造られていますが。人間サイズの旧神竜は想定外ですよ、学院長」
「何もかもが想定外の状況だ。言っても無意味だ、はっはっはっ」
「どうしてハンマー公さまは、お笑いになるのです?」とレイチェル。
「深刻な顔をしていても仕方がないからですよ。レイチェル、お腹が空きませんか? 何か食べるといたしましょう」
「食事です?」
途端、くぅぅぅ、とレイチェルの腹が鳴った。カーッとレイチェルが顔を赤くする。
「こ、これは。違うのですっ」
ルナリアは、にっこりと微笑んで見せる。
「ええ、きっと私のお腹の音でしょう。練さまのことは、心配しないで大丈夫。今、ここにいる私たちには、私たちにしかできないこと、やるべきことがあります。そのためには、まずは食事を」
「そうだね。腹が減っては戦ができぬ、という言葉がこの国にはあるしね。僕が食料を提供するよ、よく練と夜食に食べているカップ麺のストックが、寮の部屋にはあるからね」
「まあ。カップ麺。私、あれはまだ食べたことがないのです」
と、ルナリア。レイチェルの顔にも興味の色が浮かぶ。
「美味しいのです?」
「凄いよ? お湯を入れて数分、できたてのラーメンが食べられるんだ。しかも、とても美味しい。まるで魔法だよ」
紫音は軽くウインクをした。そして、冗談のような口調で言う。
「早く帰ってこないと。限定品まで全部のカップ麺、食べちゃうからね、練?」