アリスの正体
練たちが停学になって、さらに一日が過ぎ。
火曜日の夕方遅くなって、ようやくアリスから電話がかかってきた。
『や、停学仲間。調子はどう? ルームメイトも元気にしてる?』
「部屋に籠もっているだけだから俺は、別に。紫音はカーテンの向こうだ」
自分の机の席に座っている練は、首だけで背後を見た。部屋の仕切りのカーテンはしまっている。カーテンの向こうに紫音がいるはずだが、何をしているのかはわからない。
「千羽さんも停学なのか?」
『本国での対応が決まらない王女殿下も一緒に、とりあえず今週いっぱいね。さっき二人で、学院長にこってり怒られてきたわよ』
「帰ってきたばかりということか。それはお疲れさまだ」
『お疲れさまじゃないわよ、大疲れさまよ、ほんとに。日本の警察とブリタリアの警備部に、別々に何度も事情聴取されるし、ご飯は美味しくないし、お風呂にさえも入れなかったし。王女殿下は今シャワー浴びてるけど、音、聞く?』
アリスの声が若干遠くなり、さーっと軽い水音のようなものが聞こえてきた。スマートフォンをユニットバスのほうに向けたようだ。
『練さま。聞こえますか?』
水音に混ざってルナリアの声が聞こえたような気がして、練は軽く驚き、スマートフォンに当てた耳に意識を集中した。
聞こえてくるのは水音のみだ。変だな、と首を捻ったタイミングで、再び声がする。
『声、届いていますでしょうか。練さま』
ささやきよりも小さな声が、確実に、どこからか聞こえてきた。
(あの指輪じゃねえのか?)
と、グロリアス。練は机の引き出しを開けた。指輪を包んだハンカチの中央が、うっすらと光っている。おそらく指輪の宝石が放つ光だ。
『どう? シャワーの音、聞こえた? 男子ってこういうのに興奮するんでしょ?』
スマートフォンから再び、アリスの声。練は直感で、指輪のルナリアの声がアリスに聞こえたらまずいと思い、指輪をハンカチごと片手に握りこんだ。
「いや、俺は特に。それより、用件は?」
『何よ。用がなきゃ電話しちゃダメだとかいうわけ?』
「そういうつもりはないが、別に今、電話をする必要も特にはないような」
アリスの電話よりも、練はルナリアからの指輪の呼びかけが気になり、対応が雑になる。
『何よ、その言い方。停学で退屈してるかなって気を遣ったのに、ふんっ、だ! うじうじと好き勝手に魔法の勉強でもしてればいいんじゃないの、じゃあねっ』
アリスが怒り出し、通話が切れた。
練の左目の視界でグロリアスが声を上げて笑う。
(あははははっ、おまえ、女を怒らせるの上手えなあ!)
「……そんなつもりはないんだが。それより、今はこっちだ」
練はスマートフォンを机の上に置くと、指輪を握っていた手を開いた。
ハンカチの中から指輪をつまんで持ち、顔の前に持ってくる。
『……聞こえていないのでしょうか』
指輪から、ささやくように不安げなルナリアの声が聞こえた。
「すみません、応対が遅れました。聞こえています」
『ああ、よかった。こちらは声が出せずに念じているのみなので、伝わっている実感がありませんでした』
「なるほど。それでシャワーの音は聞こえないのか」
練は納得し、独り言のように言った。
『ふえっ? ど、どうしてシャワー中だと知っているのですっ?』
指輪からの声が若干大きくなった。強い念だと声が大きく伝わるようだ。
「先ほどアリスから電話があって。その時に、王女殿下がシャワー中だと聞かされまして」
『……千羽さん、そんなことを――い、意識してしまうではありませんか、裸なのを』
練はうっかり、ルナリアが裸でシャワーを浴びている場面を思い浮かべてしまった。
思わず顔が熱くなる。
(おーおー。おまえもこうゆう妄想するのか、健全でいいぜ!)
練の思考はグロリアスには筒抜けだ。
「い、いいだろ、別に」
練のグロリアスへの言葉に、ルナリアが反応する。
『よ、よろしいのですか、裸でっ?』
「あ、いや。そうじゃなくてですね……と、とにかく。何かご用でしょうか、王女殿下」
『そ、そうですね。あまり長くシャワーを浴びていると、千羽さんに余計な詮索をされてしまうかもしれません。手短に伺いますが、同室の江井紫音さん。何者かの間者という印象は、ありませんか?』
間者の意味を練は知らない。グロリアスが説明する。
(間者はスパイっつー意味だ。この国でも使われてるだろ、忍者漫画で見たことあるぜ)
「スパイ……」
その単語で練は、学院長室でのマリーと紫音の会話を思い出す。
第一王女ソニアと、第一王子カミルの名が、確かに会話に出てきた。
あの時は、何故その二人の名前が出るのかわからなかったが、スパイという単語で練も理解した。紫音が、ソニアかカミル、どちらかの指示でここにいると。
ただ、その目的まではわからない。
練は背後の仕切りのカーテンに再び目を向けた。そのタイミングでカーテンが開かれる。
「ひょっとして、僕の話題かな?」
紫音は穏やかに微笑しているが、瞳の奥の眼光は鋭い。
ただ立っているだけの紫音から強烈な威圧感を覚え、練は全身が凍るような気がした。
(……コイツ。ただ者じゃねえな、やっぱり)
「昨日のマリーとの話を聞けば、僕がカミル王子かソニア王女のどちらかと――いや、もしかしたら両方と関係があると思うよね。さて、どれが正解だと思う? とりあえず、カミル王子のスパイなら、ここで僕がすべきことは一つだよね?」
紫音の下げたままの片手に、魔法記述光跡の光が絡みつく。殺傷力のある攻撃魔法の記述だ。
「冗談はよしてくれないか、紫音。君はソニア王女の関係者だろう?」
「おや。どうしてそう思うんだい?」
「初めて会った時に言ったじゃないか。ルナリア王女を救ってくれて、ありがとうと。俺は、あの言葉を信じている」
この部屋での初顔合わせの時だ。確かに紫音は、練にそう礼を言った。
どうしてそんな礼を言われたのか、あの時の練にはわからなかった。
だが、ここに至ればさすがに推測がつく。
江井紫音という男子生徒を装った少女が、ソニア王女にかなり近い位置にいる存在だと。
「信用してくれているってことだよね。ありがとう、大好きさ」
紫音がウインクと共に練に投げキッスをした。
その芝居がかった行為を練はスルーした。椅子を回して紫音に向き直り、指輪に告げる。
「というわけだ、王女殿下。紫音はスパイかもしれないが、敵じゃない」
『練さまがそう仰るなら、私も信用いたします。となるとやはり千羽さんが――』
不意にルナリアの声が途絶えた。何か起きたらしい。
ルナリアはアリスに何らかの疑いを持っているような口ぶりだった。
もしアリスがルナリアを狙うカミルの配下で、正体がバレた場合。
強硬手段を取る可能性はかなり高い。
(やけになった人間ってのは、後先考えずに無茶するのが定番だ)
「紫音、どうしたら――」
練の声をスマートフォンの着信音が遮った。
ばっと振り返り、練は机の上のスマートフォンを手に取った。
アリスからの着信だ。練は紫音と視線を合わせ、頷き合ってから通話に応じる。
「――王女殿下に手を出すな、千羽さん」
練は、会話が紫音にも聞こえるように、スマートフォンをスピーカー通話に切り替えてから机に置いた。
『手なんか出せやしないわよ、護衛ドロイドが三体もいる聖騎士に。ジェンカの一人は半壊だけど、それでもまともにやりあったら、私のほうが分が悪いもの』
へえ、と紫音が感心したように声を漏らした。
「分が悪いけど勝てるというような口ぶりだね。さすがはサウザンドブレードといったところかな」
「サウザンドブレード?」と練。
「ブリタリアでの、千羽さんの通り名さ。アリス・アリス=ザ・サウザンドブレード。千の刃……サウザンドブレードは二つ名で、ファミリーネームじゃない。彼女にそんなものはないからね。そもそもアリス・アリスだって本名かどうか?」
『何でもかんでもしゃべっちゃうなんて悪趣味ね、ソニアの操り人形』
「おおっと。君こそ、そこまでにしてもらえないかな。僕にも僕の事情がある。それに――」
紫音の瞳に、ぬらりとした怪しい光が宿る。
「今。圧倒的に状況がまずいのは、君のほうだからね」
『はいはい。わかってますよ。というわけですから、王女殿下。私がカミル王子の手駒です』
ルナリアはアリスのそばにいるようだ。ユニットバスから連れ出されたらしい。
『サウザンドブレード……名前だけは聞き及んでいます、千の刃の魔法を駆使する暗殺者として。貴女がカミルの命で、私を殺しに来たのですか?』
スマートフォンからルナリアの声が聞こえた。
(ちょいと声が震えているが、暗殺者を前にして取り乱さないだけ褒めてやってもいいな)
「悠長にそんな話をしている場合じゃない! 暗殺者ならすぐに――」
声を荒げた練の肩を、紫音が片手で押さえ、いつもと違う口調で告げる。
「ここはルナリアに任せなさい。暗殺者との対峙は、王位継承権を持つものが越えなければならない壁だから」
(死んだ時は、ソイツが王の器じゃなかった、それだけのことだって)
「――でも」
『いいのです、練さま。これは私の問題です。ジェンカも動かないように』
『あい、姫さま』
ジェンカの返事の後、一瞬、静かになった。思わず練は緊張し、窓へと目を向ける。
窓越しに見える、向かいの建物が女子寮だ。前に紫音の迷彩系魔法で姿を消して女子寮のルナリアとアリスの部屋に行った時、部屋がほぼ正面だと知った。
――あの部屋のはず。
その部屋は、閉められたカーテンから光が漏れているだけだ。中の様子はわからない。