上機嫌な凡人、不穏な気配
秋葉原で再びルナリア暗殺未遂が起きた、あの日曜日。
練は深夜遅くまで、アリスからスマートフォンに連絡がないか待っていたが、なかった。
そして月曜日。食事等の目的以外で自室を出ることを禁止された練は、朝から右手と右目で自習をし、左手と左目はグロリアスの好きにさせている。
(ったくよう。こんな便利なものがあるんだったら、とっとと使わせろってんだ。おまえ、金だけは持ってんだからよ)
グロリアスが使っているのは、スマートフォンの電子書籍アプリだ。読んでいるのは漫画のコミックスの電子書籍である。
国立魔法技術学院高等部に入学して半月ほどが過ぎたが、漫画好きのグロリアスが希望する漫画喫茶には、まだ行けていない。
だから何か漫画を買おうと、グロリアスも秋葉原行きを楽しみにしていた。
だがルナリア暗殺未遂が起きたせいで、それどころではなくなってしまった。
グロリアスの不満を解消するために、練は今までグロリアスには教えなかった電子書籍アプリの使用を解禁したのだった。
「使うのは構わないが。スマホの残り容量には気をつけて、読み終えた漫画のデータはできるだけ消すようにしてくれ」
(あ? 消したら後で読めなくなるじゃねえかよ。嫌だぜ、そんなの!)
「大丈夫。電子書籍は読む権利を買うものだから、データを消してもダウンロードし直せる」
(お、そうなのか! っつかこの国って凄えなぁ。奇跡みてえな技術じゃねえか、これ)
「喜んでもらえて何よりだよ」
右目でノートの記述をチェックし、左目に読む気がなくても漫画が入ってくる。
そのせいか、普段の倍以上、頭が疲れるようだ。
だから、グロリアスと普通に会話をしてしまっていることに、練は気付かなかった。
「それはそうと、グロリアス。昨日、撃ち返した光術系攻撃魔法だけど――」
「練、さっきから誰と話をしているんだい? 電話? グロリアスって珍しい名前だね」
部屋を仕切っているカーテンの向こうから、紫音の声。
びくっと練は大きく身を震わせた。シャッとカーテンが軽い音を立てて開く。
「俺、そんなこと言ったか?」
首だけで振り返り、とりあえず練はとぼけてみた。右手でペンを持ち、左手は机に置いたスマートフォンのモニタに指を当てたままという不自然なスタイルだ。
紫音が不思議そうな顔をする。
「あれ。電話しているわけじゃなかったのか。それじゃ独り言? まさかその歳で、見えないお友達とおしゃべりしているってことじゃないよね? そんな寂しいことしなくても、僕ならいつでも話し相手になるよ?」
「……一人暮らしに慣れすぎて、独り言がくせになっているんだ。耳障りなら、すまない」
――左半身のコントロールを返せ、グロリアス。
(しゃあねえな。ほらよ)
正座でしびれた足に感覚が戻るように、練は左半身に実感が湧いた。
ペンを置くとスマートフォンを左手で持ち、椅子を回して紫音に向き直る。
「何か用か?」
「そろそろお昼だと思って。食堂くらいなら部屋を出ていいってことになっているよね」
「そうだな。朝は食べなかったし、昼は食堂に行こう」
練は紫音と共に、寮の大食堂に向かうことにした。
男子寮と女子寮の間、共用施設棟にある大食堂は、生徒で溢れていた。
一時間弱の昼休みに、高等部の生徒の大半が一斉に昼食をとりに来ているのだ。多少は分散する朝食や夕食と比べて、昼食時は特に混雑する。
練と紫音は、食券販売機のある大食堂入り口付近で立ち止まった。
「どうする、練? 僕たちは昼休みが終わっても時間あるし、食堂が空く頃に出直すかい?」
「先に食券だけ確保しよう。空いた頃だと売り切れだらけだ」
「それもそうだね」
食券販売機にも生徒の待機列ができているが、学生カードをタッチして食券を買うシステムのため、客の回転は速い。
列に並んだ練たちを見て、生徒たちがぼそぼそと会話する。
「停学コンビだぜ」
「何をしでかしたんだろ」
「王女殿下と千羽が今日、休んでるんだろ? 何か関係あるのかな」
「さてな。でも停学なんてよっぽどのことしたんだろうぜ」
生徒たちは、秋葉原の事件を知らない様子だ。練は聞かぬ振りをして考える。
――王女殿下と千羽さんが休んでいる? まだ事情聴取から戻っていないのか?
(その可能性はあるな。生徒たちが秋葉原の事件を知らねえってってことは、事件が報道されてねえってことだ。この国の政府も警察も事件の扱いに困っているんだろうよ)
――街角で異世界の王女が暗殺されかけたと、報道はできないか。
――この国だけじゃなく、諸外国も絶対に問題にする。
(だな。今現在、色んな事情でブリタリアと国交を持っているのは日本だけだ。それを面白く思ってねえ国なんざ、ごろごろあるだろうぜ)
――そういう国には、日本がブリタリアに贔屓されているように見えるだろうな。
(実際、贔屓されてんだ。空間の魔力分布にはむらがあって日本は特に濃い地域だからな。この海に浮かぶ島だってその濃い空間魔力を利用してるんだぜ?)
――学院島。もし、何らかの理由で空間魔力が薄れたらどうなるんだ。
(この島は巨大な魔法道具のようなもんだ。利用できる魔力が薄れたら、最悪、沈むかもな)
「大事じゃないか」
ぼそりと練は声に出した。隣の紫音に聞こえたようだ。
「大事って。どうかしたのかい?」
「あ、いや。気にしないでくれ、ちょっと考え事をしていただけだ」
「そうかい。でも何か悩んでいるなら、いつでも相談して欲しいかな? 君と僕の仲だしね」
「仲良く揃って停学する仲か。見下げ果てた不良だな、おまえたちは」
馬鹿にするような声を聞き、練と紫音は同時に振り返った。
嘲るような笑みを浮かべた道長が、そこにいた。
「いっそ退学届を出したほうがいいんじゃないのか? 特に、ノウ無しは。どうせ魔法は使えないのだからな」
道長の顔色は青白く頬はこけ、目の下に濃い影が浮かんでいる。
まるで数日間、眠っていないかのようだ。
紫音が皮肉っぽく道長に話しかける。
「やあ、これはこれはケアレスミスばかりで万年次席の三条院くんじゃないか。この前の課外授業選考テスト、採点に文句をつけにいったようだけど、結果は覆ったのかな? あ、覆らなかったからそんなに顔色が悪いんだよね、ごめんごめん」
道長の笑みが引き攣った。
「ふ、ふん。あんなテストで僕の真価がわかるわけがないだろう。そんなこともわからないのか、このどこの馬の骨とも知れぬ編入生が」
「ふーん。真価、ねえ。それなら、どういうテストなら明らかになるのかな?」
「僕と同じような高貴な人間には、僕の価値は理解してもらえている。別にテストなどで愚鈍な講師どもに証明する必要などない。今も重要な役割を果たしているところだ」
練は道長の言葉に引っかかるものを感じた。
「高貴な人間に、重要な役割?」
「ノウ無しなどに説明する必要はない。せいぜい停学を満喫して、だらだらと過ごすがいい」
「俺の心配より、自分の心配をしたほうがいいんじゃないか。ずいぶんと顔色が悪いぞ」
「ノウ無しと違って僕は忙しくてね。だらだらできるおまえが羨ましいったらないさ。さてと、また作業をしに行かないと」
道長が死人のような不健康な顔に嘲笑を浮かべたまま、立ち去った。
練と紫音は、食券販売機のほうに向き直る。
「言いたいことだけ言っていったね、彼。腹が立つよ。ねえ、練?」
「……いや、別に」
(やつれっぷりもだが、何か嫌な感じがあったな。あのガキを評価している高貴な奴って、どこの誰だ? 詐欺にでもあってんじゃねーのか)
道長のプライドがやたらと高いのは、練にもわかっている。
そこをつけ込まれて詐欺に遭う可能性は、少なからずあるように思えた。
とはいえ。練が何か忠告をしたとしても、道長が耳を貸すはずがない。
何より、停学中の身では向こうから接触してくれない限り、話をすることも難しい。
「紫音は、三条院の携帯の電話番号とかラインのアドレスとか、知っているか?」
「知るわけないよ。僕は彼にまったく興味がないから」
「……だよな」
練はちらりと肩越しに背後を振り返った。
生徒たちの人混みに紛れて、道長の姿はもう区別が付かない。
「自分を過大評価しすぎて、痛い目を見ないといいんだが」
ぼそりと呟いたが、その言葉が道長に届くはずはなかった。