第5話 あの人死んでないよね?
パチパチパチパチパチ
それは突然だった。
後方から唐突に聞こえてきた拍手の音に驚き、健登と弥命は同時に振り返る。
「いやぁ、ブラボーブラボー、実に素晴らしぃ、青春ですねぇ」
そう言いながら男性と思われる人物が両の手を打ち鳴らし立っていた。
思われるというのもこの人物が異様な身なりをしていたからだ。
まるで燕尾服のような正装に見えるが菱形の模様の入っている妙なデザインの服と、さらに異様なのは、その男の顔には仮面がつけてあった。
その面はなにか動物のような、しいて言うなら猫のような面、それも特段に気味の悪い物だった。
妙な奴に絡まれたな、声の感じからして三十後半くらいのおっさんかな? 健登は眉をひそめ、面倒なことはごめんだと思い無視を決め込むことにした。
相手にしないでこのまま弥命を送り帰してしまえば、自分一人だけならどうとでもなるだろうと思いその場を去ろうとしたのだが、弥命がまるで凍りついてしまったかのように仮面の男を睨みつけたまま動こうとしないのである。
それはいつもの弥命からは想像もできないような鋭い目つきに健登は一瞬息をのんだ。
「姫宮、行こうぜ」
弥命に近づき小声で言うが仮面の男から弥命は目線を外そうとしない。
いったいどうしたものかと健登は困惑してしまった。
迂闊だった……
弥命は自分の軽率な行動を悔やんだ、まさかこのタイミングで、今目の前にいる仮面の男は間違いなく邪悪なものだった。
姿を現すほんの一瞬前までは、まるで感じなかったこの禍々しい気配を対峙した瞬間から弥命は感じとっていた。
しかしながら、この山にこんな邪気をもつ者が侵入できるなんて、というのも神器の巫女を守る為にこの山一帯には強力な結界が張られているのである。
並みの悪霊や妖魔の類ならば近寄ることすらできないレベルのものである。
更にそれとは別に何重もの結界が張られているのだ。
「んー、結界があるのにどうして? って顔をしていますね、どうやって入ったかは教えられませんけど、結界というのは元来外からの侵入者には強いのですが中に入ってしまえばこの通り、それほど不自由はしないものなんですよ、もちろん結界の種類にもよりますけどね」
どうやらこの山に張られている結界は前者だと言いたいらしい。
仰々しく両手を広げ五体満足であることをアピールする仮面の男はさらに続ける。
「それにしてもこれは僥倖、まさか神器の姫巫女様が護衛も付けずにこんな人気のない所にいるなんて、まさに潜在一隅のチャンスではないでしょうか」
やはりそうだった。
この男は弥命を狙って現れたのだ、いや正確には弥命の魂に宿る神器を狙ってだ。
神の力を宿す神器、その力は絶大なものである、もしもそれを手にし自在に操ることができれば、弥命が水谷に送り迎えをされていたのもこういった事態を防ぐ為でもあったのだ。
しかし弥命とて守られるだけの存在ではない、己自身も戦巫女として幼いころから鍛錬を積んできている。
たとえ神器を解放することができなくとも戦う術は身に付けているのだが、今はまずい。
そう、なにも知らない健登の存在が弥命の邪魔になってしまっているのだ。
そんなことも露知らず健登は訳のわからないことを喋っている男にいい加減うんざりしていた。
もともと我慢強い性格ではないので、感情的に相手に言い返してしまう。
「さっきからあんた何言ってんだ? 酔っぱらってんの? いい加減にしないと警察呼ぶぞ、まったくよぉいい歳こいたおっさんが高校生に絡んで恥ずかしくねえのかよ、行こうぜ姫宮」
弥命の手を取り自転車の置いてある所に戻ろうとする健登だが。
「おおっと、まだ用事は済んでねえぜぼうず」
いつの間にか別の男が現れ二人の前に立ちはだかる。こちらは二十代そこそこのガラの悪い男だった。
「おいっ、捕まえるのはJKの方なんだろ?だったらガキの方はぶっ殺しちまっても構わねえよなっ!!」
仮面の男に聞いたのだろう、なにやら物騒なことを口走っている。
そして仮面の男は感情のない声でその質問に答える。
「そうですね……気の毒ですがしかたないです……その少年にはご退場願いましょうか」
まずい、こいつらはまともじゃない。
事態は飲み込めていないが直感的に健登はそう感じ取っていた。
一刻も早く弥命を連れて一度山を下り交番に駆け込んだ方がいい、坂道を駆け上がって弥命の家に逃げ込むよりも自転車で一気に坂を下った方が逃げやすいだろう、あとは相手の隙をどう突くかそんなことを健登は考えていた。
弥命はというと、いつでも応戦できるように身構えつつ、この窮地をどう切り抜けるか思考を巡らせていた。
昨晩見せた戦巫女用の戦闘舞具を使う所を健登に見られるわけにはいかないが、そんなことも言っていられない。
自分が原因で危険な状況に巻き込んでしまったのだ、なんとしても健登は守らねばならない。
「そういうわけなんで、サクっと死んでくれやガキ」
そう言いながら男はジーンズの後ろポケットから折りたたみナイフを取り出すと右手だけで器用に刃を引き出す。
その一瞬、健登は足元の砂利を掴みながら男との間合いを詰めて、それを思いっきり顔面に叩きつけた。
眼球に走る突然の激痛に男は悶絶する、視界を奪われ闇雲にナイフを振り回しているので、下手に近づくのは危険だ。
「走れっ! 姫宮!!」
振り返り叫ぶと同時、弥命はまるで跳躍するかのように健登の前に飛び出し男の後頭部めがけて回し飛び蹴りをお見舞いしていた。
決まった瞬間「めりっ」っと言う音が聞こえたような気がした。
正直、結構エグい攻撃にちょっと健登も引いたが、そのあまりにも見事な延髄斬りに思わず感嘆の声を漏らす。
「急いで守羽くん! 一旦山を降りましょう!!」
感心している場合ではない、それには同意なのでこの隙に自転車の所まで走り出す。
「あの人死んでないよね?」
結構やばい倒れ方をしていたので心配になり一応確認の為に聞いてみる。
「大丈夫です手加減したからあれくらいじゃ死にません、軽い脳震盪をおこした程度だと思います」
サムズアップしながら自信満々に弥命は答える。
それなら安心だ……って、いやいやいやいやいや!! このお嬢さんかわいい顔して結構恐ろしいこと言ってません? てか姫宮ってこんなキャラだったっけ?
自転車の所へ走る間、仮面の男はなにもせずにただこちらの方を見ているだけだった。
諦めたのか? それならそれでいい、とにかくこの場から離れるのが賢明だ、健登は自転車に弥命を乗せると一気に坂道を駆け下りた。
「くそったれが……」
男は毒づき、後頭部を擦りながらふらふらと起き上がる。
その様子を見ながら仮面の男は淡々と言った。
「随分と手痛い目に会いましたね」
「あぁっ!? ふざけやがって、ガキどもが絶対に許さねえぞ!!」
「そんなことより、早く追いかけないと逃げられちゃうんじゃないですか?なんの為にあなたを連れてきているのか忘れないでくださいね」
「ちっ、わかってるよ」
男は地面に唾を吐きながら落としたナイフを拾いあげると、それをそのまま自分の左腕に切りつける、傷口から流れ出る血が腕をつたい地面に滴り落ちた。
血を見ると男は異常な興奮状態に入りその身体に異変が起こる。
変身、変形、変異どの言葉が一番相応しいのか、男の姿形はみるみると変わってゆき、最早人とは呼べない異形の者へと成り変わっていた。
身の丈は三メートルを超える巨体に、目は血走り口は裂け牙が生えている、体中をこげ茶色の体毛で覆われ、まるで巨大な獣の様な姿だった。
つい先刻まで男であったその化物は、低いうなり声を上げると健登達の下っていった坂道の方向へ凄まじい速さで走り出した。
なんとか巻くことができたか、健登は無事に弥命を逃がすことができたことに安堵した。
「すまなかったな姫宮、俺が連れまわしたりしなけりゃこんなことには」
「そ、それは違います、守羽くんの所為じゃなくてあれはわたしが……」
言いかけて弥命はやめる、そうだった健登は知らないのだ、奴らが自分を狙って現れたということを、健登は自分が誘ったせいで帰るのが遅くなり、よからぬ輩に絡まれたのだと思いそれを気に病んでいる。
そう思っているのならそれで……ズルい女だと思った。
「姫宮、姫宮っ!!」
健登のしきりに呼びかけてくる声で気を持ち直す。
「は、はい」
「とにかく一度人の多い駅前まで行って、お巡りさんに相談しよう」
「そ、そうですね」
とかく冷静でいる健登に弥命はすこしホッとした。
そうだ、とりあえずそれで問題はない、奴らもこれ以上は事を大きくしたくはないだろう、だからこそあんな人気のない場所で襲ってきたのだ。
仮面の男の正体はわからないが、もう一人の方は顔も覚えたのですぐに見つけだすことはできるだろう、後で対処すれば問題ないと弥命は考えた。
が、そうはいかなかった。
なにか巨大な物が落下したような衝突音が正面で鳴った。
同時に自転車は急ブレーキで止まる、弥命は一瞬反応が遅れ健登の背中に思いっきり突っ伏してしまった。
「か、守羽くんどうしたの?」
「な、なんだありゃ!?」
まるで幽霊でも見たかのように、驚き力なくそう漏らした健登の見つめる先を見るとそこには巨大な化物が道を塞いでいた。
まるで獣の様に地面に両手を突き、鋭い牙を剥き出しにし威嚇するように唸り声をあげている。崖を飛び下りて追いついてきたのだろう、地面のアスファルトにはヒビが入り軽くクレーター状に陥没していた。
到底現実とは思えないような光景に、健登の頭はショート寸前だった。
理解の許容を超える出来事でパニックに陥りそうになっている。
「な、なんなんだよあれ? で、デカい犬だな、いぬ……だよな? どうする姫宮? あ、あれも警察に報告した方がいいかな?」
冗談にも聞こえるが現実離れした状況に思考がついていっていない。
普段そこそこに胆の据わっている健登もさすがに限界だった。
「ヤッテくれたナガキドも、てめエら覚悟ハデキてんだろうな?」
口の作りが違うからだろうか、少したどたどしい口調だが先程の男の声に似ている、弥命はこの化物もここ最近の失踪事件に関係のある者だと直感した。
ならば今、この化物を逃すわけにはいかない。
「しゃ、喋ったぞ!! 犬が喋ったぞ姫宮」
弥命はもう形振り構っていられないと思い、戦う覚悟を決める。
「守羽くんは下がっていてください、あいつの狙いは私です」
前に出て制止するように手を広げる弥命。
「な、なに言ってんだ姫宮、そんなこと」
「私なら大丈夫です。ああいう類のものとは少々縁があるほうなので」
そう言うと弥命は前へゆっくりと歩み出し、胸の前で印を組みながらなにやら呪文のようなものを唱え始める。
たかまのはらにかむづまります すめらがむつかむろぎ やおよろずのかみたち
あしたのみゆき ゆうべのみゆきを あさかぜのゆうかぜのふきはらうごとく
はらえたまへ きよめたまえへ まもりたまへ かしこみかしこみかしこみもうす
唱え終わるのと同時、弥命の左手首に巻かれていた数珠状の紐が輝きだす。
刹那、弥命は真っ白な巫女装束のような衣装を身に纏い一振りの刀を手にしていた。
剣を正眼に構えると真っ直ぐ相手を見据える、一点の淀みもない美しい構えであった。
「オンナ、オモシロイことがデキるじゃねえカっ!!」
叫びながら突進してくる獣人、その巨体には似つかわしくないスピードで弥命との間合いを一気に詰め右手から鋭い爪を繰り出してきた。
しかし弥命は難なくそれを躱すと相手の懐に入り一閃、左肩口から入る袈裟切りは獣人の右脇腹まで抜け見事にその肉を切り裂いた。
痛みに一瞬顔を歪ませながらも後方へ跳躍し離れる獣人、この一撃で弥命の力量を察したのか一旦間合いを取り仕切りなおす態勢だ。
「少し、浅かったか……」
冷たい表情で呟く弥命。
その手にしている刀は紛れもなく本物であった。
斬られた獣人の傷口からは赤い血がしたたり落ちている、普通の人間相手なら間違いなく殺傷力のある一撃を弥命は相手に加えたのだ
そう、相手が元人間であると知りながら何の躊躇いもなく。
目の前のそんな光景に健登は呆然と立ち尽くすしかなかった。
あの姫宮弥命が、学校では目立たずいつも一人で本を読んでいるおとなしい女の子が、今自分の目の前で化物を相手に刀を振り回しながら大立ち回りを繰り広げているのだから無理もない。
「クソがぁ!! あのヤロウっ!! オンナがこんなツエエなんてキイテねえぞ、チキショウ、イテえっ、ブッコロスブッコロスぶっ殺す!!」
悪態をつきながらも闘争心は萎えていないのか、後ろ足で何度も地面を蹴りながら獣人は弥命を睨みつける。
「現れた時から攻撃的な性格でしたけど、あなた、その姿になるのは何度目ですか?感情を抑えるのが大分難しくなっているように見えます」
「ああっ!? シルカヨ、もうナンカイモナンカイモナンカイモ、このチカラで、このスガタでキニイラネエヤツはブッコロシテきたぜっ!!」
“やはり”弥命は憶測だがそう思った。
ここ数日現れているこのような化物たちは、なんらかの術を使い人にこの邪悪な力の源を憑依させ、肉体を変化させているのだろうと弥命は考えていた。
姿を変える度その力は身体を蝕み、やがて心さえも変化させてしまうと……
「アイツが言ってたぜ、このチカラをツカエルやつはトクベツナンダとよっ!! オレがどんだけコロシをしてもよお、ナンデバレねえかわかるかっ!? ショウコはみんなオレが喰ッチマウカラよぉっ!!ヒャアアアハハハハハハっ!!」
狂っている、叫び狂うその姿を見て健登は戦慄した。
もうこんな所からはいち早く逃げ出したい気分だったが、弥命が戦っているのだ。
なにがなにやらわからないが自分一人だけ逃げ出すわけにはいかない、健登をこの場に踏みとどまらせているのは男としての意地だけだった。
そんなことも露知らず、いつまでもこの場から立ち去らない健登にやきもきしつつ弥命は剣を構える。
「残念ですがあなたはもう手遅れです。助けてあげたいのだけれど……ごめんなさい、これ以上犠牲者を出さない為にもあなたはここで滅しますっ!!」
「やってミロこのアマあああああああああああああっ!!」
また同じ攻撃、獣人は脚力に任せて飛び込んでくるだけ、今度は躱すのではなく相手の拳を剣でいなしつつ先程よりも一歩強く踏み込んで断つ、その一撃で片を付けようとするも弥命の剣の間合い一歩手前で獣人は地面を蹴り軌道を変えた。
「なっ!?」
もうとっくに人としての理性を失い、感情に任せて突進してくるだけの相手と高を括った分、弥命の反応は遅れてしまった。
獣人の軌道は健登の方へと向いていた。
「守羽くんっ!!」
焦る弥命、それが一瞬の隙を生む、獣人は一旦健登の方へと向けた軌道をまた弥命の方へと戻す。
あの巨体を支える強靭な脚力だからこそ成せる業、弥命はその高速移動に面を食らってしまった状態だ。
防御行動に出る間もなく獣人の爪が弥命を切り裂いた。
攻撃を食らい弥命の身体は後方に弾かれ勢いよく地面を転がる。
「姫宮ああああああああああっ!!」
まったく現実味を帯びない光景に思考の麻痺していた健登も、傷ついた弥命の姿に一気に現実に引き戻される。
「ハーーーーっハっハあああああああああっ! ザマアねえぜオンナぁっ!!」
左肩が熱い、どうやら相手の爪は左肩口に喰い込んだらしい、傷口から血が滲み出し白い巫女装束を紅に染める。
地面に落ちる時に背中を強く打った為か息ができない、早く呼吸を整えて立ち上がらないと、弥命はなんとかして体を起こそうとする。
相手の気配が近づいてくるのがわかる、止めを刺しにくるのだ。
嫌だ……こんな所で……
「てんめえええええええええええっ!!」
健登だった。
叫びながら自分の鞄を獣人目がけて投げつけている。
「おいっ犬っころ! おまえさっき俺のことを殺すって言ってたよな? 俺はまだ生きてるぜ!? 姫宮は殺すなってあの変態仮面に言われてんだろ? だったら俺を狙えよっ!!」
なんてことを……
「だめ……守羽くん……守羽くん、お願い逃げて……」
力なく健登に呼びかける弥命。
自分の所為で誰かが死ぬのなんて絶対に嫌だ、たとえ自分が死ぬとしてもそれだけは絶対にあってはならないこと、弥命が人生を投げ打って自らに課してきた命題なのだから。
だが、そんな弥命の願いに健登は聞く耳を持たなかった。
「嫌だね! 女の子が苛められているのに見て見ぬフリをするのも、ましてや血を流して倒れているのに逃げ出すなんて絶対にありえねえっ!!」
めいっぱい勇気を振り絞り健登は叫んだ、恐怖を抑え込むために握り拳を作るが身体が震えているのがわかる。
自分が今ここで虚勢を張りあの化物に立ち向かって行ったところで、事態は何も好転しないことは火を見るより明らか。
だが、だがしかし……
「そうだよ、かっこつけてるんだよ……正直怖くてしょうがねえし、震えも止まらねえ、俺なんかじゃなにもできねえってのもわかってる、ほんと情けねえったらないよな、でもよ、てめえの命惜しさに女の子を見捨てるなんて、そんなかっこ悪いことほどねえだろ?」
そう言って照れくさそうに弥命に笑いかける健登。
「だから、せめて逃げねえ! 逃げねえでかっこつけてやるっ! それが俺の意地だ!!」
こんな時にまで、自分を心配させまいと笑顔を見せる健登。
弥命に譲れない信念があるように、健登にも信念があるのだ。
「オイオイケッサクだな、そのままアイのコクハクでもしちまうかガキドモ? クッセーせいしゅんドラマだ、イイゼ……ダッタラふたりなかよく死ねや」
最早獣人は傷つけられた怒りで、弥命を捕えると言う目的すら忘れているようであった。
そして獣人は思い切り地面に拳を振り下ろす。
凄まじい衝撃が地面を伝い、アスファルトが裂けると下の土がむき出しになり坂道は一気に崩れ落ちると、二人を深い闇に飲み込んでいった。