eretico
〝梅木千歳〟
それが彼女の名前だった
「キアラ」
けれど今の彼女にとって、ソレが彼女を指し示す名詞
「キアラ」
「なぁに?おかあさん」
キアラは舌足らずな言葉で小首を傾けてみせた
そうして見上げた母と呼ばれたその人はキアラに向けて小さく笑う
「緊張してるの?」
我が子を気遣う様子の彼女は正に母親
しかし、キアラにとってそれは産毛を逆撫でされる様な違和感と不快感に満ちていた
「…」
「キアラ?」
「ん」
無言で返せば再度呼び掛けられ、キアラはすいっと顔を逸らし短い声で返す
徐に向けた視線の先、視界に映し出されたのは自身と同じ3才の子どもたち
その隣には、これまた同じ様に両親であろう大人が付き添っている
「…」
これから何が行われるか、幼子の中に理解している者はいるのだろうか
少なくともキアラは理解していた
「さ、こっちよ」
促されるままに歩いて目指す先は真っ白い城の様な建物の中
協会の様な部屋を抜け、更に奥に進めば一つの扉の前でその歩みは止まる
「皆様、本日は生誕の儀おめでとうございます」
不意に、聖職者が着る様な緩やかな衣装を身に纏った壮年の男性が丁寧な口調で言葉を発した
浮かぶ柔和な笑み、そして優しい声と口調はこの場にいる全ての人たちに安心感を抱かせる
「皆様には樹の間に入られる前に説明を受けていただきます。まず、中にはお子様のみ入室となります。儀を終えましたらお子様は自然に退室となります。儀は数秒で終わりますので安心してお待ちください。…それでは、何か質問は御座いますか?」
数秒の沈黙、男性はゆっくり頷いて扉に手をかけた
「それでは順番にお並び下さい。生誕の儀を執り行います」
ああ、いよいよ始まるのだとキアラは感慨もなく思った
「キアラ・レムードです」
ぺこりとお辞儀をして開かれた扉の中に踏み込む
パタンッと小さな音を背にキアラは目前に広がる光景に軽く目を見開いた
「すごい」
天を覆い隠す程、頭上に伸びた枝
青々と繁る葉に、まばらに垂れ下がるリンゴより少し大きい丸い実
「これがユグドの根」
〝ユグド〟とは世界樹の事
〝根〟と云うのは言葉通りユグドの根から生えた謂わば小さな分身の様な存在だった
「〝根〟だけでこれなんて、ユグドはどれほどの大きさなのかしら」
ユグドの根は同じ場所に二つと生えない
高さは約1~2m程
その高さまでなると縦には成長せず横に枝が伸び広がるのだ
今まで記録された中での最長は1㎞にまで及ぶ
それが一つの幹による物なのだから不思議でしかたない
「ふつう、枝が折れるよね」
しかも、ユグドの根には更なる特徴がある
花は咲かず実を一年中付けているのだ
たわわに実るソレは一定の感覚で枝から垂れる長い蔕に繋がり吊り下げられる形で存在する
大人にしてみれば低すぎる位置
けれど3歳児には丁度いい位置だった
「モモみたい」
歩きながら視界にチラチラ映るソレを見回る
形もだが色も薄い朱鷺色に近い白色
ただし甘い匂いなど一切しない
それもそうだろう
そもそも実は食用ではないのだから
この実はただ一つの目的だけに存在した
それは生誕の儀にのみ見られる役割
「…つかれた」
歩めども歩めども変わり映えしない景色
幹を見ようと歩いてみたが一向に姿を表す気配がない
「もう、いいかなぁ」
ハァと幼い容姿には似つかわしくない溜め息を吐き出してキアラはキョロリと目線だけで周囲を確かめた
だいたい儀式を終えなければ此処からは出られないのだ
此処にいる目的は一つ
キアラは知っていた
「どれがいいかなぁ」
目に映るのはは沢山実る果実
思案してみるものの結局は色も形も大きさも違いなんてわからなかった
〝ユグドの根〟故か不自然な程、全て作り物の様に同じなのだ
「ま、これでいっか」
結局、一番身近に垂れ下がっていた実に両手を伸ばしキアラはそっと掴んだ
プツン
「わっ!」
実は驚く程、簡単にキアラの手の中へと落ちて来た
力なんて本当に入れていないのに、まるで自ら飛び込む様に落ちて来たソレをまじまじと見詰める
「あたたかい…」
まるで人肌の様に温かな実
両手の上に乗る実をキアラはただ見詰める
〝生誕の儀〟とはユグドの根より果実を採る事から成される
目的の果実は手に入れた
けれど帰れないと云う事はまだ儀式は終わっていないと云う事だろうか
他の幼児よりも儀式について知識があるからといって詳細まではキアラにも不明なのだった
「…うーん?食べ…るわけないよね。えっと、」
まさか…と思いつつ、いやいやと直ぐに自身で否定してみる
けれど、にょっきり生えた疑問は突っかかってなかなか消えない
因みに再度説明するがユグドの果実は食用ではない
「……ちょっとだけ」
キュッキュッと手のひらで実の表面を撫で擦りキアラは恐る恐る口を近付けた
「ッ――!?」
小さな唇が実の表皮に触れた瞬間、実はホロホロと溶ける様に形を崩し零れ落ちていく
「え?やだっ…!?」
慌てて顔を離し実を覗き込むも、瞬く間に崩れる実を止める術はなかった
手のひらから溢れ出る実の欠片が地面に落ちる前で溶けて消えていたとしても今のキアラでは気付く事も出来ない
そしてキアラが混乱する内に果実は全ての動きを終えた
「……」
広い緑の中、呆然と手のひらを見詰める少女がそこにいた




