プロローグ
すでに雪解けはロザ王国に訪れている。王都ロザリタは春爛漫だ。うらうらとした陽光の下、巴旦杏、菫、桜桃、と街の至るところで花々が咲き乱れ、歴史ある建物たちを彩っては甘い匂いを微風にのせている。
華やかなメインストリートから二本離れ、少し落ち着いた三番通り。そのカフェの外装は、モス・グリーンの瓦屋根と陽光を跳ね返す白漆喰の壁とが、まるで魔法使いの隠れ家のようで愛らしい。
カフェ「ミルヒクローネ」は今年で創業二十五年。アンの自宅にほど近く、日当たりのいい窓際のボックス席がお気にいりの場所だ。
ランチタイムになる午前十一時。アンが早めの昼食を頼もうと席に着いた頃、入り口の木扉が開いて、真鍮のドアベルがカラン……と小気味よく鳴る。
「おはようございます」
入ってきたのは、やたら背の高い、若い男だった。身にまとうのはプルシアン・ブルーのジャケットにクリームのスマート・ズボン。
格好だけでなく、顔だけを見ても凛々しい男だった。陽に透けて琥珀に艶めく髪を耳の高さでさっぱり切りそろえている。それに、白磁の肌と形にのいい桜の唇。何より印象深いのは、なかなかに意志の強そうな碧の双眸。
美丈夫、という言葉がまさにふさわしい。
「あなたが、アン・ローゼンガルテン嬢?」
あまりにも当然のごとく向かいの席に座られアンは目をしばたたいた。「はい、そうですが」と、アンは呆気にとられて本人であることを衒いもなく返事してしまう。
「初めまして、ラウル・ドロッセルと申します。あなたの許婚です」
それは、王国中の老若男女が憧れる公爵令息にして近衛騎士団長の名だった。
「誰が決めたか存じ上げませんが、あなた、頭は大丈夫?」
アンは目上の高位貴族相手に、間違いなく失礼な質問をしていた。そして、アンはいちいち細かいことを後悔するような人間でもなかった。
「ええ、正常ですよ」
と、ラウルは気にすることもないように返す。
「なら、お断りです」
アンが相手の取りつく島もないような愛想ない返事をすると、何やら意味ありげに口元へと微笑をたたえた彼は、ふいにこんなことを放言する。
「あなたが見事、〝このカフェの正体〟を当てた暁には、婚約を解消してもよろしい」
「は?」
ことり、と店員がラウルに氷水の入ったグラスを置いた。このカフェでは水はサービスだ。
「これから、僕の提案する〝ゲーム〟の詳しい説明をいたします。アン嬢、メモはよろしいですか」
「あーあ。気になりすぎてお昼寝できそうですね」
アンはぼやくと、カバンの中からメモ帳とペンを取り出す。ペンの蓋を開け、メモ紙にやや右上がりの字で「ルール」と書きつけた。
「これは推理ゲームです。先ほど申し上げた通り、〝カフェの正体〟を当てていただきます」
「はあ、わかりました。ですが、何も手がかりなしにどうやって当てろと?」
ふっふっふー、とどこか得意げな表情をするラウル。
「それはですね……、質問をしていただこうと思います。──まず最初の一つ。アン嬢は一日に一回だけ僕に質問できます」
アンはさらさらと内容を記して、そしてラウルの腹立たしいほどの美貌を見上げた。顔はいいのだ、顔は。
「二つ。ヒント集めのため、あなたは僕が〝はい〟か〝いいえ〟で答えられる質問をできます。部分的に該当する場合は、〝部分的に、はい・いいえ〟となります」
アンはラウルのよく通った鼻筋あたりをじろりと見た。
「あら、なんてフェアなのでしょう。だってあなた、正直に答えてくださるのです? まさか真実に迫られたくないからと嘘をついて質問を誤魔化す……なんてズルをしないでしょうね?」
すると、ラウルは当たり前だとでも言うように真剣そうな顔でうなずいた。
「はい、もちろん。僕は質問に対して正直に答えることをお約束いたします。それが前提でないと〝ゲーム〟が成り立ちませんからね」
「でも、何か交換条件がある。違いますか」
アンは察しが悪い方ではない。こういうときは往々にして対価を要求されるものだ。そしてアンの予想通り、ええ──とラウルは妖しげな微笑みを薄い唇にのせる。
「タダで教える、というわけにはまいりません。きちんとそれ相応の対価は支払っていただきますよ。これはゲームですからね。余興……、楽しむ心が肝心というわけです」
「余興? いったいなんです?」
アンが怪訝の表情を惜しまず晒すと、ラウルはこう言った。
「さて、三つ。一日一回、質問権を獲得していただくのに、僕のささやかな〝お願い〟を聞いていただきます」
「はあ!?」
アンは眉尻を吊り上げた。これではこの男の言いなりになって踊るだけではないか。
「例えばこのあと、一緒にランチをいただく、というのはどうです」
「ふ、ふざけないで──」
危うくペンをへし折るところだった。アンが声を険しくさせると、しかしラウルは特段意に介した様子もなく、涼しい顔でそのまま続ける。
「これは当然の配慮ですが、あなたは僕の〝お願い〟を断ることができます。しかしその場合、その日の質問権を失うことになりますが……」
目の前が急にぐらついて、アンは思わず目頭を指で押さえた。眼前の男が言っていることの理解に苦しむ。
「こんな莫迦みたいなこと、よく思いつきますね。ここの店員さんに訊けばいいじゃないですか」
アンが目を閉じたまま感想をこぼすと、なぜかラウルが笑みを深めたのがわかった。
「そうおっしゃってくださるのを待っていましたよ」
「どういうこと?」
「あなたからの質問は受け付けないよう、店長殿から店員の皆さんに通達してもらっています。なにせ、フェアじゃないですからね」
「……ちっ」
アンは舌打ちをこらえようとして、盛大に失敗する。
「というわけですから、ご質問あれば僕にのみ可能となっております」
「……わかりましたよ」
アンは目を開けて、そしてうなだれた。少し水滴の浮いた自分のグラスを引っ掴んで、ごくんと一息に飲み干す。そうして、またラウルの顔に視線を戻す。ラウルが唇を動かした。
「四つ。これは余談ですが、僕に関するご質問も受け付けていますよ。その分、質問権を消費して、ですがね」
アンはほんのりせせら笑った。
「そんな不利になることいたしません。はなからあなたと破談になるつもりですもの。情報なんて要らないわ」
アンの半ば啖呵のような言葉を聞いてか、ラウルは気持ち悪いほどに満面の笑みを浮かべる。
「よろしい。……五つ。〝カフェの正体〟について、あなたの解答権は一回限りです。期限こそありませんが、答えを外したときには、僕の伴侶となっていただきます」
「一回限り……ね」
アンはペンの反対側でこつんとテーブルを小さく叩いた。
「ルール説明は以上。よろしいですか」
「いいですよ。こんなもの長引かせるだけ無駄なのですから。さっさと正解して終わらせて差し上げます」
「では──ゲーム開始です」
ちょうど、アンが最初に注文したティーラテが届き、氷が揺れて、わずかにガラスが触れ合うような音を立てた。




