06 コンサルタントの休日
休日を勝ち取った。
正確には、勝ち取ってもらった。
守備隊の訓練場に逃げ込んだ日のあとも、アルヴァスさんの質問は止まらなかった。
休むと言えば「休みながら答えればいい」と言われ、隠れれば見つかり、見つからなければ食堂で待ち伏せされた。三日目の夕食の席で、パンを片手に「ところで猫の話の続きだが」と隣に座られたとき、私はついに白旗を上げた。
アストリッドさんに相談した。
アストリッドさんは、私の話を最後まで聞いてから、少しだけ笑いを堪えるような顔をして、「分かりました」と言った。
その日のうちに、アルヴァスさんのところへ、殿下から一通の書き付けが届いたらしい。中身は知らない。ただ翌朝、廊下ですれ違ったアルヴァスさんは、ものすごく不満そうな顔で「休みの日は、休め」とだけ言って去っていった。
王女命令である。
というわけで、今日は正真正銘、私の休日だった。
「今日は、街を見に行きたいです」
朝食の席でそう言うと、シグネさんは「お供します」と頷いた。
エストホルムに着いてから、もうそれなりに日が経つ。なのに私は、まだこの街をちゃんと歩いていない。着いた日は馬車の窓から眺めただけで、そのあとはずっと、領主館とアルヴァスさんの部屋と、あとは守備隊の訓練場の往復だった。
見たいものは、いくらでもあった。
湖。市場。あの日、城門の外で見た大鍋のスープ。耳の長い人たちが籠に何を入れて売っているのか。あの大きな鳥は、近くで見るとどれくらい大きいのか。
仕事も、研究も、今日はなし。ただ歩いて、見て、何か食べる。
それだけの一日にするのだ。
領主館の裏手を抜けて、通用門から出ようとしたときだった。
門の手前は、ちょっとした広場になっている。荷車が何台か停まれるくらいの石畳で、脇には倉庫の大きな扉が口を開けている。食材や薪や、たぶんいろいろなものがここから館へ運び込まれるのだろう。
そこに、数人でなにやらもめていた。
真ん中には、二人。
一人は、仕立てのいい上着を着た痩せた男の人だった。髪をきれいに撫でつけていて、背筋がまっすぐで、手を後ろで組んでいる。
もう一人は、それより少し若い、恰幅のいい男の人だった。色白で人の好さそうな目。でっかい身体だが、今は所在なさそうに身を縮こまらせている。
恰幅のよい男の人のほうが、明らかに押されていた。
「では、改めて確認しましょうか、リンデン商会」
痩せた男の人が、静かに言った。
怒鳴っているわけではない。声も大きくない。むしろ、ゆっくりと、一つずつ言葉を置いていくような話し方だった。
「本日、こちらへ納められるはずの品は、何でしたかな」
「か、革の装具です。七十組……」
「七十組。それで、ここにあるのは」
「……ありません」
「ありませんな」
痩せた男の人は、倉庫の空いた一角に、ちらりと目をやった。
「なぜでしょうか?」
「あ……その……わたしどもは……」
「納期は本日です」
「え、ええ……そのとおりで……」
「なのに物は来ていない」
恰幅の良い男の人が言葉を探すたびに、痩せた男の人が静かに問い返す。問い返されるたびに、恰幅の良い男の人の声が小さくなっていく。
恰幅の良い男の人の後ろには、荷役らしい男の人が二人、居心地悪そうに立っている。倉庫の入り口では、帳面を抱えた初老の男の人が、関わりたくなさそうに目を逸らしていた。
シグネさんは、ちらりとそちらを見ただけで、足を止めなかった。
商人が役人に叱られている、といったところだろうか。
たぶん、この世界では、そう珍しい光景でもないのだろう。
でも、私は少しだけ足が遅くなった。
見覚えがありすぎた。
私の実家はいわゆる中小企業で、大手の取引先が相手となると、どうしても立場は弱かった。大口の取引先から電話がかかってきて、父が受話器を耳に当てたまま、見えない相手に何度も頭を下げていたりもした。
「うわぁ……こっちでもそうか……」
思わず、小さく、口から漏れ出てしまった。
本当に、小さな声だったはずだ。
「……何か?」
痩せた男の人が、こちらを振り向いた。
しまった。
「あ、いえ。何でもないです。すみません」
慌てて首を振る。
痩せた男の人は、私を上から下まで、ゆっくりと眺めた。それから、私の隣のシグネさんを見て、もう一度私を見て――表情が、変わった。
「む」
背筋が、さらに伸びた。
「これはこれは。御客人でしたか」
声の温度が、さっきとは別人のようだった。
「交易監督官を務めております、マティアスと申します。お見苦しいところをお見せいたしました」
丁寧に、胸に手を当てて一礼された。
ついさっきまで、目の前の人をじわじわ締め上げていたのと同じ人とは思えない。
「いえ、あの、こちらこそ……」
「なに、たいしたことではございません」
マティアスさんは、恰幅の良い男の人のほうを、顎で軽く示した。
「この商人が、少し約束事が違えておるようで。少々、事情を聞いていたところでした」
事情を聞く、というほど安穏な雰囲気には見えなかったけどね。
商人さんの肩が、目に見えて落ちている。
「外出でしたかな。この街は治安はよいほうですが、この時勢です。お気をつけて」
にこやかに、通用門のほうを手で示される。
つまり、行っていいということだ。
というか、行ってくれということだろう。
そうだよね、と思った。
今日は休日だ。これは商会と領主府の取引の話で、私には関係がない。部外者が首を突っ込む話でもない。シグネさんも、何も言わずに私の半歩後ろで待っている。
まあ、行くか。
そう思って、門のほうへ一歩踏み出した。
踏み出しながら、何となく、振り返った。
恰幅のよい……というか若干ふくよかな感じの商人が、「困った」を体現したような雰囲気で立っている。
分かりやすいくらい肩は下がり、両手は所在なさげに身体の前でモジモジしていた。どこを見ていいか分からないような目で、空いた倉庫の一角を見ていた。言い返す言葉も、謝る言葉も、どっちも見つからない、という顔。
叱られて、どうしていいか分からなくなった大きな犬みたいだった。
助けてくれと言われたわけではない。目が合ったわけでもない。
ただ、本当に、困り果てているのが分かった。
……あー。
もう一歩、門のほうへ足を出しかけて、止まった。
「……シグネさん」
「はい」
「ちょっとだけ、待ってもらっていいですか」
シグネさんは、ほんの少しだけ間を置いた。
「休日では?」
「ちょっとだけです」
シグネさんは何も言わなかった。止めもしなかった。
「あの、すみません」
戻ってきた私を見て、マティアスさんが少し意外そうに眉を上げた。
「何か、ございましたかな」
「いえ、あの。部外者が口を挟むことじゃないのは分かってるんですけど……」
言いながら、商人さんのほうを向いた。
「そもそも、何が届いてないんですか?」
彼は、目を瞬かせた。
「え……あ、はい。革の装具です。胴に巻く帯と、肩掛けと、剣帯の組で……七十組」
「今日が納期なんですよね」
「はい」
「で、今は、ここに何組あるんですか?」
「……今は、ありません。まだ、うちの倉庫に」
「物はあるんですか?」
「あります。七十組、全部できてます。職人のところからも、もう引き上げてあって」
「じゃあ、なんで今日ここにないんですか?」
商人さんが、言いにくそうに頭を掻いた。
「荷車が、確保できず……」
「荷車?」
「はい。うちは自前の荷車を二台しか持ってなくて、大きな納めのときは、いつも荷車屋から借りてるんです。それが、このところどうにも取れなくて。いつもの荷車屋に頼んでも、もう先まで埋まってるって。他を当たっても、似たような返事で」
「最近、ずっとそうなんですか?」
「ここ半月くらい、ですかね。前はこんなことなかったんですけど」
戦争中だからかな、と思った。
逃げてきた人もいるし、物も人も、たぶん普段とは違う動き方をしているのだろう。
「それで、届けなかった?何も連絡なしに?」
「いえ、事前に遅れることが分かった段階で連絡していて……。四日……いや、五日前です。荷車が揃わないって分かった時点で、すぐ領主府に人をやって」
「誰に伝えたんですか?」
「書記の方です。受付にいらした。遅れるかもしれないって伝えたら、『分かった、監督官に伝えておく』って」
「その後、返事は?」
「……特に確認は……」
商人さんの声が、少し小さくなった。
「でも、分かったって言ってもらえたので。てっきり、それで通ったものだと……」
マティアスさんが、静かに口を挟んだ。
「書記からは、確かに聞いております」
私と彼が、同時にマティアスさんを見た。
「リンデン商会から、納めが遅れるかもしれぬと言ってきた、と。それだけです」
マティアスさんは、淡々と続けた。
「いつまで遅れるのか。何を、何組なのか。全部か、一部か。何も聞いておりません。そして、私はそれを承認した覚えもない。かもしれぬ、という話を承認する理由もない」
言っていることは、正しかった。
これ以上ないほど、正しい。
商人さんが、ぐっと唇を噛む。
事実は、だいたい分かった。
この人は、連絡はしていた。嘘はついていない。遅れると分かった時点で、すぐに人を出した。そこまでは、ちゃんとしている。
でも、伝えただけだった。「遅れるかもしれない」と言って、「分かった」と言われて、そこで止まった。決める権限のある人から返事をもらっていない。
連絡はした。でも、約束を変えてもらってはいなかった。
「それは……ダメです、よね?」
彼は、一瞬きょとんとして、それから、肩を落とした。
「……ですね」
本人も、たぶん、薄々分かっていたのだ。
マティアスさんが、ほんのわずかに顎を上げた。何も言わなかったけれど、言わなくても伝わる顔だった。
そういうことだ、と言わんばかりである。
この人のほうに理がある。
起きてしまったことは、もうどうしようもない。承認を取らなかったという事実は、ここでいくら頭を下げても消えない。
「あの」
私は、マティアスさんのほうを向いた。
「その七十組って、今日、全部要るものなんですか?」
マティアスさんが、瞬きをした。
「……と、申されますと」
「今日届かないと、何が困るのかなって。七十組全部がないと、今日、何かが止まっちゃうんですか?」
マティアスさんは、少しの間黙った。
それから、倉庫の入り口にいる、帳面を抱えた初老の男の人のほうを振り向いた。
「ヨーラン。この装具、どこへ回す予定だった」
ヨーランと呼ばれた人は、急に話を振られて慌てたように帳面をめくった。
「は、はい。ええと……守備隊からの請求で、二十組は、すぐにでも回してほしいと言われております。訓練で傷んだものの入れ替えで、もう替えがないそうで。残りの五十組は、蔵の備えです。前の冬にだいぶ減らしたので、その補いに」
「その五十組は、今日なければ困るのか」
「いえ……すぐにというわけでは。数日なら、どうということは」
七十組全部が、今日ないと困るわけじゃなかった。
今日、本当に要るのは二十組だけだ。
商人さんのほうを向く。
「二十なら、今日持ってこられます?」
商人さんの顔が、ぱっと上がった。
「二十なら――できます。うちの荷車二台で、二往復すれば。昼過ぎ……いえ、夕方までには必ず」
さっきまでとは、声が違った。
「じゃあ、あとは――」
言いかけて、口を閉じた。
ここから先は、私には分からないし、決められない。
商人さんのほうを見る。
商人さんは、一瞬、私を見返した。それから、何かに気づいたように小さく頷いて、マティアスさんのほうへ向き直った。
「マティアス様」
さっきより、少しだけ背筋が伸びていた。
「今回は、こちらの不手際です。遅れることをお伝えしただけで、お許しをいただかないまま、話が済んだと思い込んでおりました。申し訳ありません」
深く、頭を下げる。
マティアスさんは、黙ってそれを見ていた。
「その上で、お願いがございます。守備隊の二十組は、本日の夕刻までに必ずお納めします。残りの五十組は――」
商人さんは、一瞬だけ言葉を探した。
「五日後に。荷車は、高くついてでも、こちらで別に手配します。運び賃が嵩んだ分は、うちで持ちます」
「五日」
マティアスさんが、繰り返した。
「先ほど、荷車はどこも先まで埋まっていると言っておりませんでしたかな。五日後に、本当に取れるのですか」
商人さんの喉が、小さく動いた。
「……取れなければ、うちの二台で何往復でもして運びます。間に合わせます」
「それと」
マティアスさんは、表情を変えずに続けた。
「納期を違えた分は、どうされるおつもりですかな。契約は契約です。こちらにも、守備隊にも、手間をかけさせた」
「……五十組の分のお代から、幾分か、差し引かせていただきます」
「幾分か、とは」
商人さんが、ぐっと詰まった。
それから、絞り出すように、具体的な額を口にした。
私にはそれがどれくらいの重さの数字なのか分からなかったけれど、後ろにいた荷役の人の片方が、小さく「若……」と呻いたのは聞こえた。
マティアスさんは、しばらく商人を見ていた。
それから、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「よろしいでしょう。ヨーラン、今の条件を書き付けておけ。二十組は本日夕刻まで。残り五十組は五日後。運び賃はリンデン持ち。差し引きの額も」
「は、はい」
「リンデン商会」
マティアスさんは、商人さんを見下ろすように言った。
「次に納めを変えたいときは、かもしれぬ、などと言いに来ぬことだ。いつまでに、何を、いくつ。それを持って、私のところへ直接来なさい」
「……はい。肝に銘じます」
商人さんは、もう一度、深く頭を下げた。
マティアスさんは、私のほうへ向き直ると、また別人のような丁寧さで一礼した。
「御客人のお手を煩わせてしまいましたな。重ねて、お見苦しいところを」
「いえ、こちらこそ、横から口を挟んですみませんでした」
「なに。領主様の御客人とあれば、いつでも」
そう言って、マティアスさんは倉庫の奥へ去っていった。ヨーランさんが、帳面を抱えて慌ててその後を追う。
残されたのは、私とシグネさんと、商人さんと、荷役の二人だった。
商人さんが、大きく、大きく息を吐いた。
それから、私のほうへ向き直って、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございました……!」
「え、いえ、私は別に……」
「別にじゃないです。あのまま行ってたら、僕はたぶん七十組の契約ごと飛ばされてました。うちみたいな小さいところが領主府の納めを落としたら、もう二度と声がかからない」
顔を上げた商人さんは、さっきまでの困り果てた大型犬ではなく、ちゃんと人懐こい若い商人の顔に戻っていた。
「ニルス・リンデンです。リンデン商会で、若頭をやってます。……やらせてもらってます、のほうが正しいかもしれませんけど」
「神林……トーコです」
「トーコさん!本当に、助かりました」
ニルスさんが私の手を握って、ブンブンっと握手する。
「あの……!ぜひなにか御礼させてください!」
「あはは……。いいですよこんなことくらい」
まあ首突っ込んだだけだからな。
「こういうのって、お互い熱くなってると、なかなか話が進まないんですよね。だから、関係ない人が一人入ったほうが、案外早く片付いたりしますよね」
「そんな!これで御礼しなかったら、僕が頭領にどやされます!」
そのとき、通用門の向こうから、昼の鐘が聞こえてきた。
昼。
……昼?
朝食のあとすぐに出てきたはずだった。それが、もう昼。
私の休日の、半分くらいが、倉庫の前の石畳の上で終わっていた。
「といってもうちは革の装具が主軸なので、あまり女性が好むような製品は……金銭のほうが……?」
「あの、ニルスさん」
「はい?」
「今日、私、街を見に行くつもりだったんです。湖とか、市場とか」
ニルスさんの顔から、さっと血の気が引いた。
「あっ……す、すみません! 僕のせいで、せっかくの――」
「なので」
私は、指を一本立てた。
「今度、街を案内してください。次のお休みのときに」
ニルスさんは、目を丸くした。
「それが御礼ってことでお願いします」
ニルスさんはくしゃっと笑った。なんていうか癒されるタイプの人だ……。
「そんなことでよければ、いくらでも。湖の船着き場も、市場も、うまい屋台も、全部知ってます。次のお休みはいつですか。迎えに行きます」
「じゃ期待してますね」
「任せてください!……あ、今日の二十組を夕方までに運ばないと」
ニルスさんは、はっとしたように後ろの荷役の二人を振り返った。
「戻るぞ。荷車出して、二往復だ」
「へいへい。若、さっきの差し引き、親方になんて説明するんです?」
「それは……帰りながら考える」
三人は、慌ただしく通用門を出ていった。ニルスさんは門を出る直前に一度だけ振り返って、大きく手を振った。
私も、小さく手を振り返した。
日程決めずに行ってしまったけど、どうするつもりだろうな。
「行きますか?」
シグネさんが言った。
「はい。……半日になっちゃいましたけど」
「半日あれば、市場は回れます」
通用門をくぐる。石畳の坂の向こうに、屋根の連なりと、その先で光る湖が見えた。
シグネさんは、門を出てしばらく歩いてから、ちらりと周りを見回した。近くに誰もいないことを確かめたらしい。
それから、いつも通りの、少し眠そうな目で私を見た。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんですか?」
「異世界の方というのは」
シグネさんは、淡々と言った。
「常に何かしら働いていないと、気が済まないような生態なのですか」
「違いますよ!?」
反射的に声が出た。生態て。
シグネさんは、表情一つ変えなかった。
「そうですか。休日に、自分から揉め事に戻っていかれたので」
「あれは、その、たまたまで……」
「アルヴァス様の部屋から逃げ出した日も、結局は訓練場で半日過ごされていました」
「それも、たまたまで……」
「そうですか」
シグネさんは、それ以上何も言わずに前を向いた。
その口元が、ほんのわずかに緩んでいたように見えたのは、たぶん気のせいではないと思う。




