第86話 覚えているか
一方――
加速するジョーカーのアイカメラの前で、無防備に体勢を崩したユグドラシルへ赤熱した触手が迫っていた。
このままでは間に合わない。ニックは瞬時に悟る。どれだけジョーカーの機動力をもってしても蜘蛛型サーヴィターの攻撃を止めることは不可能だった。
「ええい! これでどないや!!」
ジョーカーは短剣を持った右腕を大きく振りかぶり、そのまま力任せに放り投げた。
その瞬間――
ジョーカーのシステム内部で、長らく一度も使用されたことのないプログラムが起動した。
スサノヲ系列の兵装は近接戦闘に特化している。そのため、本来なら長射程武器の照準補正機能など必要ない。だが、開発者は将来的な兵装拡張を想定し、標準機能の一つとして補正プログラムをシステムへ組み込んでいた。
誰も使わなかった。必要になることもなかった。ゆえに、その存在を知る者すらほとんどいない。
今、そのプログラムが初めて起動した。
ニックのヘッドギア越しの視界の片隅へ、認識されることなく小さな『Trajectory Assist Program 起動』の表示が浮かぶ。
ジョーカーの演算装置が機体と対象の位置と速度、機体速度、短剣の質量や空気抵抗、目標の移動予測を瞬時に算出する。
そしてジョーカーの右腕へ、ごく僅かな制御介入を実施した。
それは、人間には知覚できないほど微細な補正だった。しかし、その数ミリの差が、既に結果を決定づけていた。
ジョーカーの手から放たれた短剣は白煙を切り裂きながら一直線に飛翔した。そして、蜘蛛型サーヴィターの首元に吸い込まれるように、まるで最初からそこへ向かうことが定められていたかのように、一瞬で到達した。
それは、高周波振動チップエッジの動力の供給源であるスサノヲの手を離れた後、振動が完全に終息する前に、その刃は蜘蛛型サーヴィターの甲殻の隙間へ深々と突き刺さった。
蜘蛛型サーヴィターの巨体が激しく痙攣する。五つの眼が一斉に明滅し、伸ばしかけていた触手の軌道が大きく逸れた。
その瞬間だった。
ガギィィィィィンッ!!
巨大な金属同士が正面から激突したかのような轟音がドーム内へ響き渡る。続いて、アメノウズメの車体全体が大きく震えた。
「なんや!?」
ニックが反射的にアイカメラをアメノウズメへ向ける。
白煙の向こう、そこには蜘蛛型サーヴィターとストライク・イーグルが、もつれ合うように地面へ倒れ込んでいる姿があった。
ストライク・イーグルの肩部装甲は大きくひしゃげ、蜘蛛型サーヴィターの脚部も何本かが不自然な方向へ折れ曲がっている。
そしてアメノウズメの後部装甲には、深々と抉り取られた巨大な傷痕が刻まれていた。
それは、蜘蛛型サーヴィターの赤熱した触手が掠めた跡だった。カルナイト装甲が紙のように削り取られ、白煙を上げている。
「加納ッ! 大丈夫なんか!?」
ニックが叫ぶ。
だが、その心配は杞憂だった。
蜘蛛型サーヴィターが起き上がるより早く、ストライク・イーグルが地面を蹴って立ち上がる。
加納は一切の迷いなくサーベルを振り抜いた。蜘蛛型サーヴィターの頭部が宙を舞い、巨体が痙攣し、そのまま崩れ落ちた。
「佐伯さん! 佐伯さん! 大丈夫か!? 応答してくれ! 佐伯さん!」
加納の切迫した声が聞こえる。
数秒の沈黙――
やがて通信が開いた。
『おう、加納か。ナイスだ。お前のお陰で命拾いした』
聞き慣れた声だった。
「良かった……」
加納が大きく息を吐く。
すると佐伯が続けた。
『加納、すまないが手伝ってほしいことがあるんだ』
「何をしたらいい? 何でも言ってくれ」
『蜘蛛型サーヴィターの数も随分減ったようだ。後の戦闘は他の機体に任せ、お前はアメノウズメのクローラーが動かせるかどうか試してほしい。クルーズモードに切り替えればお前のシートから操作できるはずだ』
「了解した」
加納は即答した。
ストライク・イーグルをアメノウズメの傍へ待機させると、ヘッドギアを外してシートへ深く座り直す。
『クルーズモードの操縦レバーの脇に、青いスイッチがあるはずだ』
言われて視線を向けた加納は眉をひそめた。
そのスイッチは確かにあった。見慣れない真新しい青色のスイッチが取り付けられている。
「こんなスイッチ……いつの間に……」
加納の記憶には存在しない装備だった。
『アメノウズメはチームの生命線だ。万が一ドライバーが操縦できなくなった時のことを考えて、副操縦士席を設けてみたんだ』
「副操縦士……」
『ああ。加納、他のシートにはない。お前だけにな』
「……」
加納は一瞬だけ言葉に詰まった。
『加納、操縦方法はスサノヲのクルーズモードと互換性を持たせてある。前進側に操作してくれ』
「了解した」
加納はレバーを押し込んだ。
ガコンッ――
機械音とともに、アメノウズメのクローラーがわずかに回転する。しかし、それは続かなかった。
数秒もしないうちに駆動音は途絶え、再び沈黙する。
『やっぱりだめか』
佐伯がため息混じりに呟いた。
『これは分解した方が早いなぁ』
ガチャガチャという金属音。通信の向こうから工具箱を漁る音が聞こえる。
『くそう……困ったな。やっぱり片手だと力がなかなか……』
その独り言に、加納が反応した。
「片手?」
眉が寄る。
「どうしたんだ? 佐伯さん。怪我でもしてるのか?」
ストライク・イーグルの体当たりは間に合っていたはずだ。蜘蛛型サーヴィターによりアメノウズメの装甲には傷が刻まれた。
だが、蜘蛛型サーヴィターの軌道自体は完全に逸れている。
佐伯へ被害は及んでなど、いるはずが無い。加納はそう確信していた。
『ん? あ、ああ。加納、一つ覚えておくといい。カルナイトの製法だ』
「佐伯さん、何の話なんだ……?」
嫌な予感が胸をよぎる。
だが佐伯は淡々と続けた。
『カルナイトの材料は、カルナの酸で溶け残ったカスだ。当然ながらカルナの酸で溶けることはない。そして、どれだけ高温で加熱しても、現状の設備では溶解できなかったらしい』
工具を回す音が聞こえる。
話しながらも作業を続けているのが分かった。
『だがな。触媒としてカルナの酸を少量加えた結果、通常の金属と同程度の温度で溶解できたそうだ』
加納が息を呑む。
「佐伯さん、それって……」
『蜘蛛型サーヴィターの触手のメカニズムさ』
佐伯が答える。
『ユグドラシルの盾やアメノウズメの装甲が容易に破壊されたのは、高温だけじゃない。あいつらはカルナの酸も同時に噴射していたんだ』
「佐伯さん、まさか……」
『ん、ああ。触手の方は運良く回避できたんだがな』
そして、いつも通りの口調で続けた。
『酸の方を……ちょっとな』
加納の背筋に冷たいものが走る。
通信の向こうからレンチを握り直す音が聞こえた。
『よし、加納。もう一回動かしてみてくれ』
加納は再びレバーを前方へ倒した。アメノウズメの車体がわずかに震える。
ギギギ……と苦しげな駆動音を響かせながらクローラーが数秒だけ回転した。
しかし、それも長くは続かない。再び動力が途絶え、巨大車両は沈黙した。
「佐伯さん、カルナの酸がって……大丈夫なんですか?」
加納が問い掛ける。
通信の向こうから返ってきたのは、ため息交じりの声だった。
『ったく、今度はあそこだな』
直後、ガチャガチャと工具を動かす音が響く。
金属を叩く音、何かを引き抜く音。作業は止まらない。
「佐伯さん、応えてください」
『ん?』
佐伯が作業を続ける音はなおも止まることは無い。
『ああ、大丈夫だ。必ずアメノウズメは動けるようにしてやる』
「佐伯さん!」
思わず声が強くなる。
だが佐伯の口調はどこまでも普段通りだった。
『加納。お前はヴァンガード隊に配属された時のことを覚えているか?』
通信に落ちた佐伯の声は、どこまでも穏やかだった。




