第5話 片目の戦神
ハンガーには、低く一定の振動が満ちていた。《暁》の鼓動が、鋼鉄の床を通して伝わってくる。
艦内の空気は乾いて冷たく、足元から忍び寄る冷えが、季節の深さを否応なく伝えてくる。
美桜は、キルシュの脚部装甲を開いたまま、調整端末を覗き込んでいた。関節駆動の反応遅延を、わずかに詰める。数字はすでに基準値の範囲内だったが、それでも指が止まらなかった。
――まだ、できることがある。
「……休まなくていいのか? 篠宮」
不意に、背後から声がした。振り返ると、藤堂が立っていた。
ハンガー照明の陰で、その表情ははっきりとは見えない。だが、いつもの無骨さよりも、どこか輪郭が削げて見えた。
「私は、集合前に休ませてもらいましたから……」
美桜は工具を置き、端末の表示を閉じる。
「それより、藤堂さんこそ……」
言いかけて、言葉を止める。
近くで見ると、やはりはっきり分かった。目の下の影。無精ひげ。そして、どこか焦点の合いきらない視線。冷えた空気に晒され続けたせいか、頬の血色も薄い。
――やつれている。
ブリーフィング直後の光景が、脳裏によみがえった。人の引いた後のハンガーで、ただ一人、サイクロプスの前に立っていた藤堂の背中。
「藤堂さん……もしかして、ブリーフィングからずっと寝てないんですか」
一瞬、間があった。
「あ、ああ……実はそうなんだ」
藤堂は、頭の後ろを軽く掻いた。誤魔化すような仕草だったが、声は正直だった。
「今回の任務は、カルナの落下地点のすぐそばだ」
その言葉だけで、空気が変わる。
「俺は……カルナの落下の衝撃で、家族を失ってる」
美桜は、息を呑んだ。
藤堂は続ける。淡々とした口調だったが、その一言一言が、鋼のように重かった。
「休まなくちゃいけないのは、分かってるんだがな。どうしても、寝られなくて……な」
ハンガーの奥で、整備用クレーンが静かに動く音がした。それが、妙に遠く感じられる。
藤堂は、サイクロプスの長刀の方へ視線を向ける。
「俺の長刀は、じゃじゃ馬だろ」
美桜は、黙って頷いた。
「あれはな、戦場で一瞬でも機嫌を損ねたら、平気で牙を剥く」
刀身に並ぶ刃の整備履歴、補助駆動源の癖、フレーム微細な歪み。美桜も、それを知っている。
「動かないじゃ、話にならない。予備も含めて、しっかり見ておいてやる必要がある」
藤堂は、苦笑にもならない笑みを浮かべた。
藤堂は一歩横に移動し、サイクロプスの足元に設えられた試験用台座の前で足を止めた。そこには、予備の長刀が静かに横たえられている。
片刃の端には、長方形の純白のプレート——スサノヲの装甲と同じ色を湛えた高周波振動チップエッジが、寸分の隙もなく整然と並んでいた。
美桜は、その整然とした配列に、思わず目を奪われた。
藤堂は無言のまま、台座脇の制御ユニットへと歩み寄った。そこには、整備時の確認用に設けられた赤いスイッチがあり、透明なプラスチック製の保護カバーが被せられている。
藤堂は一瞬だけ指を止め、刃の状態を目で確かめてから――カチリ、と軽い手応えとともに、そのカバーを跳ね上げ、スイッチを操作した。
次の瞬間――けたたましいベル音がハンガー中に鳴り響いた。同時に、制御ユニット上部の回転灯が赤い光を撒き散らしながら、クルクルと回り始める。
警告音と光が、重低音の鼓動に重なり、空気を切り裂く。
そして、数拍遅れて――
「キィィィィィィィン……」
甲高く、しかし抑え込まれたような振動音が、ハンガーの空気を震わせた。純白のプレート一枚一枚が、肉眼でも分かるほどの微細な振動を始める。止まっているはずの刃が、そこに在るだけで、切断の意志を宿したかのように。
振動は均一だ。ムラも、遅れもない。藤堂は、その様子をじっと見つめ――やがて、わずかに口元を緩めた。
満足げに、ひとつ頷く。
「……問題なし、か」
それは独り言に近い呟きだった。
スイッチを戻すと、振動音はすっと消え、刃は再び、沈黙した鋼へと戻った。
藤堂は、長刀から視線を外し、軽く息を吐いた。
「生憎と、やらなきゃいけないことには事欠かなくてな」
その言葉の裏にあるものを、美桜は感じ取っていた。
整備という名の作業。
確認という名の逃げ場。
止まった瞬間に、思い出してしまうから。
美桜は、一度、キルシュの装甲に手を置いた。
ひんやりとした感触が、掌から指先へと広がる。金属が外気の冷えを抱え込んだまま、まだ温まりきっていない。
美桜は、藤堂の顔から視線を外しかけ――ふと、引っかかるものを覚えた。
左目は、確かに疲労の色が濃い。充血し、瞬きの間隔もわずかに不規則だ。
だが――右目は、違った。赤みがない。乾きもない。何より、そこに宿る光が揺れていない。
――……?
意識して見なければ、気づかないほどの差異。だが、一度気づいてしまうと、違和感ははっきりと形を持った。
左の瞳が、疲労と感情を湛えた生の光なら、右は――どこか、均質すぎる。
「藤堂さん……」
思わず、声が低くなる。
「右目は……もしかして……」
言い切る前に、藤堂は軽く息を吐いた。
「ああ、これか? 本物の目じゃないんだ」
あっさりと、そう言う。
「別に、隠してるつもりもない」
彼は、指先で自分の右目の下を軽く叩いた。
「義眼だ」
美桜の胸が、きゅっと締まる。藤堂は、少しだけ視線を落とし、続けた。
「カルナが落ちた時にな……ちょっと、な」
それ以上は語らない。
だが、そのちょっとの中に、どれほどの惨事が含まれているかは、想像に難くなかった。
沈黙が、短く落ちる。その間に、美桜の視線は、無意識のうちにハンガー奥に佇む機体へと向かっていた。
薄く光を放つような白い装甲の巨体。一本の長刀を携えた、一つ目の巨人、サイクロプスの名を冠した戦神。
そこで、点と点が、静かにつながる。
「……そういう、ことか。隻眼の、戦神……」
ほとんど独り言のような呟きだった。隻眼の機体名。奪われた右目。
点が、静かにつながっていく。
藤堂は、一瞬だけ足を止め、わずかに肩をすくめる。
「まあな」
肯定も否定もせず、それだけ言った。
「皮肉が利いてるだろ」
軽い口調だったが、そこに笑いはなかった。藤堂は、再びサイクロプスの方へ視線を向ける。
「俺はな」
藤堂は、わずかに息を吐いた。
「カルナに、家族と右目を奪われたようなもんだ」
美桜は、何も言えなかった。
「だから、命を懸けて奴らを許すことはできない」
その言葉には、怒号も激情もなかった。ただ、決して揺るがない硬さがあった。
だが、藤堂はそこで言葉を切らず、続ける。
「……だがな」
わずかに、声の調子が変わる。
「それは、俺が復讐に取り憑かれて、周りがどうなっても構わないって意味じゃない」
藤堂は、美桜を見た。義眼ではない、左の目で。
「ただ……、俺の家族と同じような犠牲者が、これ以上増えるのは我慢ならない」
拳が、わずかに握られる。
「それに――」
一瞬、ためらうような間。
「お前みたいなヒヨッコが、戦場で命を落とすのもな」
藤堂は、短く息を吸い直してから、低く続けた。
「……死ぬのはな、本当は――歳の順でいいはずなんだ」
ぽつりと落とされた言葉は、独り言のようでいて、はっきりと美桜に向けられていた。
「だから、本当はこの任務に、お前の名前が呼ばれてほしくなかった」
美桜の指先が、わずかに震える。藤堂は構わず言葉を継ぐ。
「だが……こうやって、お前が認められて、ここまで来てしまった以上」
視線が、一瞬だけ逸れる。
「今さら俺が『一人で帰れ』なんて言ってもな。お前の性格じゃ、絶対に帰らないだろ」
それは叱責でも嘲りでもなく、妙に的確な評価だった。
藤堂は、ふうっと長く息を吐く。胸の奥に溜め込んでいた何かを、少しだけ外に逃がすように。
「能書きはいい。お前は後ろで目を皿にしてろ」
義眼のない左目が、まっすぐに美桜を捉える。
「俺は、俺のできることをやる。前に立つ。斬る。守る」
そして、静かに言葉を置く。
「お前は、お前の役目を果たせ」
その声には、命令の色はなかった。あるのは、同じ戦場に立つ者としての、対等な覚悟だけだった。
藤堂は踵を返し――そのまま振り返らず、背中越しに、ぶっきらぼうに片手を振った。
「……俺の背中は、お前に任せる」
ハンガーに、低い振動が満ち続けている。《暁》の鼓動は、変わらない。
冷えた鋼鉄の匂いと、乾いた空気が肺の奥に残る。それは、春を待つにはまだ遠い季節の匂いだった。
だが、美桜の胸の内では、確かに何かが重く、そして静かに沈んでいった。
「……はい」
短く、しかし確かに、そう答える。藤堂は、それで十分だとでも言うように、軽く頷いた。そして何事もなかったかのように、サイクロプスの方へ歩いていく。
残された美桜は、しばらくその背中を見つめてから、再びキルシュの脚部装甲へと視線を戻した。
調整端末を起動する。数字は、相変わらず基準値の範囲内。
怖い。今でも、逃げ出したくなるほどに。
それでも――行くしかない。
美咲を目覚めさせるために、美桜はここに立っている。その理由だけが、怖さごと手を引いている。
「私が……みんなを、守るから」
それは決意というより、逃げ場のない自分を繋ぎ止めるための言葉だった。
藤堂の言葉を、重さごと受け取ったまま、美桜は、もう一度、指を動かした。




