第35話 境界
太陽が天頂へと近づき、屋島との距離が縮まるにつれ、周囲の景色は、ゆっくりと、しかし確実に変化し始めていた。
「……緑が……増えてきている」
不意に、大樹が口を開いた。
ヘッドギア越しの視界に映るのは、白化した地表の裂け目から顔を出す、か細い草木だった。
これまでは、稀に混じる異物のようにしか見えなかったそれが、いつの間にか、“点”ではなく“帯”として連なり始めている。
ひび割れたアスファルトの隙間に根を張る雑草。
倒壊した建屋の影に残る、色の濃い低木。
風に揺れる葉の色はまだくすんでいるが、確かに――生きている。
白一色だった世界に、緑が滲み始めていた。
「ほんまやな……」
ニックが、半ば独り言のように呟く。
「さっきまでとは、空気が違うわ」
緑の増加に伴い、人の営みの痕跡も、よりはっきりと姿を現し始める。
路肩に転がる標識の残骸。
半壊したまま放置された小型車両。
文字の剥げた看板が、かつてそこに店があったことを無言で訴えていた。
「白化が……薄れてきているのか」
佐伯が、慎重に言葉を選ぶ。
「あるいは、回復が始まっているか、だな」
藤堂が静かに補足した。
最初の接敵以降、ヴァンガード隊は何度かサーヴィターの群れに遭遇していた。
だが、緑が視界に占める割合が増すにつれ、その頻度は目に見えて減少していく。
索敵に引っかかる反応は散発的で、いずれも小規模。
包囲や待ち伏せの兆候は見られなかった。
「……妙に静かだな」
加納が、警戒を崩さぬまま呟く。
「静かすぎるのも、気持ち悪いが……少なくとも、今のところは追い風だ」
佐伯は言葉を切り、地形データを再確認する。
大樹は無意識のうちに息を整えていた。
先ほどまで、装甲越しにも感じていた張り詰めた感覚が、わずかに緩んでいる。
ところどころではあるが緑がある。
そして、人が、ここで生きていた痕跡がある。
それだけで、世界が完全に終わってはいないのだと、思えてしまう。
そして、その向こう側――
白く霞んだ地平線の先に、ひとつ、異質な輪郭が浮かび上がっていた。
横に長く、頂が不自然なほど平たい山影。
尾根の起伏はほとんど感じられず、まるで大地を水平に切り取ったかのようなシルエットが、空との境界に滲んでいる。
「……屋島やな」
ニックの低い声が、確信を帯びて響いた。
地形データと視界情報が一致するにつれ、その山容はゆっくりと存在感を増していく。
まだ距離はあるが、平坦な山頂は確実に大きくなり、彼らの進行方向が間違っていないことを無言で示していた。
ヴァンガード隊は、陣形を崩すことなく、一定の速度を保ったまま前進を続ける。
慎重さを失わず、それでいて迷いもない。
白化した大地は、依然としてその支配力を失ってはいなかった。
点在するカルナ・フロラの大木が、乾いた地表に影を落とし、無機質な景観を形作っている。
だが、その中に――
まるで縫い込まれた布の帯のように、緑が連なっていた。
雑草や低木。
かつて人の手で植えられたであろう庭木の名残。
そして、その合間に垣間見える生活の痕跡。
崩れかけたブロック塀。
傾いた郵便受け。
色あせた表札が、風に揺れながら、かろうじてかつての名前を留めている。
進むにつれて、その割合は確実に増していった。
屋島のふもとへと差し掛かる頃には、視界に広がる光景は、もはや白化地帯とは呼び難いものになっていた。
そこにあったのは――
人だけが忽然と姿を消してしまったかのような、無人の住宅街だった。
家屋は立ち並び、塀も門扉も、そのままの形で残されている。
窓ガラスの多くは割れているが、倒壊した建物は少なく、街並みの輪郭は、かつての姿を明確に保っていた。
ヴァンガード隊の足元を走る道路も同様だった。
アスファルトはひび割れこそあれ、白化に侵されることなく、黒い路面をそのまま露出させている。
屋島の玄関口へと続く道路もまた、車が往来していた頃の景色を、時間ごと封じ込めたかのように残していた。
この周辺だけが――
明らかに、異質だった。
それは敵性存在についても同じだった。
白化した大地と緑の帯との境界で、カルナ・サーヴィターの反応は、まるで糸を断たれたかのように途絶えている。
蟻型サーヴィターの群れは、その境界を越えようとせず、認識そのものを拒むかのように、縁をなぞって後退していた。
「……避けてる、いうより」
ニックが視線を巡らせながら、低く呟く。
「“見えてへん”みたいやな」
上空もまた、同様だった。
これまで群れをなして空を覆っていた、カゲロウ型をはじめとする飛行型サーヴィターの影は、屋島周辺の上空には存在しない。
直射日光が遮られ、薄暗く感じられていた空は、この一帯だけを円形に切り取ったかのように、澄んだ青を取り戻していた。
境界の外では、異形が空を埋め尽くしているにもかかわらず――
屋島の上空だけが、静かで、穏やかで、あまりにも普通だった。
「……まるで……別の世界みたいだ……」
誰に向けたわけでもなく、大樹の言葉が漏れる。
その言葉に、誰も否定しなかった。
ヴァンガード隊は、速度を落とさず、警戒を強めながら住宅街へと足を踏み入れていく。
人の気配はない。
だが、ここには確かに――
“人が生きていた世界”が、そのまま残されていた。
静けさは、これまでとは質が違っていた。
敵影のない安堵ではない。
むしろ、何かに見守られているかのような、不自然な沈黙。
「よし……もう少しで到着だ」
アメノウズメの操縦席で、佐伯が口を開いた。
正面モニターには、屋島の住宅街へと続く道路と、その奥に横たわる平坦な山影が映し出されている。
「それにしても……ここは、何回来ても不気味だな」
独り言に近い呟きだった。
「佐伯さん、ここに来たことがあるんですか?」
視線を正面に向けたまま、大樹が問う。
「ん?ああ、実はそうなんだ」
佐伯は前方から目を離さず、淡々と続けた。
「前に来たのが……三か月ほど前になるか。
今回で五度目……くらいかな。藤堂と一緒に来たこともある」
「五回も……」
驚きを隠せない大樹に、佐伯は小さく肩をすくめる。
「アメノウズメのパイロットはな……」
自嘲気味に言葉を選びながら、
「スサノヲのパイロットみたいに、前に出てカルナ・サーヴィターを片っ端から叩けるわけでもない。
やることは地味だ」
車内には、エンジン音と微かな振動だけが満ちていた。
「そのくせ、同じ車両に乗ってる全員の命を預かる立場だ。
責任ばっかりが重くなりやがる」
吐き捨てるようでいて、その声には職務への覚悟が滲んでいる。
「だから、望んでなりたがるやつも少ない。
……で、こういう面倒な役回りばっかり、何度も回ってくるってわけだ」
一拍置いて、佐伯は軽く息を吐いた。
「ヴァンガード隊。ここから先はクルーズモードでいい」
各員が操作が切り替え、戦闘用ヘッドギアを収納スペースに戻していく。
視界は正面モニターへと戻った。
「おやつを持ってきたやつは、食べながらでも構わん。
ただし――」
ちらりと後部を一瞥する。
「車内を汚したら、きっちり掃除してもらうがな」
「……あああ!しもた!」
即座に声を上げたのは、ニックだった。
「どうした、ニック」
「やっぱりお菓子持ってくるんやった……。
バナナしか持って来てへんわ」
そう言いながら、ニックは荷物を探り、慣れた手つきでバナナの皮を剥き始める。
その、あまりにも緊張感のない光景に――
「……っ」
大樹は、思わず噴き出してしまった。
車内に、短い笑いが広がる。
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
そして――
モニターの向こうに広がる無人の住宅街と、その背後に控える屋島は、
黙して語らぬまま、彼らを迎え入れていた。




