執事親子と伯爵の悪あがき
パギンス領の端の町、更に外れの小さな集落で暮らす老人は、今日届けられた手紙を前に沈黙していた。
一人暮らしの粗末な小屋の中。テーブルを前に暗い顔で佇み、手紙を開封するのを躊躇っている。
差出人は離れて暮らす息子だ。もう何年も会っていない。息子はこの領を出て行ったと、人伝てに聞いた。
疎遠になるには理由がある。ずっとどうしようもなかったと思っていたが、時間が経つにつれて、この年齢になってようやく客観視できるようになった。
「恨まれてもしょうがない」
独り言を呟き、老人は深く溜息を吐いた。呼吸を整えてから手紙を手に取る。ゆっくりと封を開け、畳まれた紙片を開いた。
老人は隠居する前、パギンス伯爵家で執事をしていた。領地館に勤め、尊敬する当主の為に身を粉にして働いた。
その主が病気で亡くなり、一人息子が当主になってからおかしくなった。
先代は優秀な方だった。伯爵として上手く高位貴族と社交をしながら、領地経営も順調にこなした。領民を大切にする方だったので民からも人気があった。
しかし仕事熱心だからこその弊害もあった。息子の教育が後回しになったのだ。
奥様は侯爵家の令嬢で気位が高く、一人息子を甘やかした。貴族として生きていく為のマナーや礼儀作法は教えたが、領民を思いやる心は皆無だった。
息子は母親の気質をそのまま受け継いだ。成長するにつれて傲慢さが目立つようになり、それを父親に咎められても母親が庇った。結局、大人になっても改善されなかった。
そして当主夫妻が亡くなり、一人息子が繰り上がる。
領地経営を執事に丸投げしても、何とかなった。先代が繋いでくれた辺境伯との縁のお陰だ。国内最大の商会から取引を優遇されていたのが大きい。
老人は尊敬した主の息子だからと、懸命に仕えようとした。心の中はどうでも数年間は頑張ったのだ。
しかしある日、ポキリと折れてしまった。何かと苦言を呈する老人が煩わしかったのだろう。突然、当主に馘首を言い渡された。
老人は長年、伯爵家の為に働いてきた。息子もこの家の執事になるよう厳しく教育した。それなのに捨てられる時はあっさりだった。
「紹介状なんか書かないからな!」
捨て台詞まで吐かれた。
別に次の勤め先を探すつもりはなかったから構わなかったが、その醜い心根に辟易した。
だから後を息子に託し、領地の端まで来て隠居した。小さな集落で他の老人達に囲まれながら、細々と畑を耕す毎日を送った。
息子に恨まれている自覚はある。あんな不出来な当主を押しつけてしまった。息子が苦労するのは目に見えていたのに、自分だけとっとと逃げ出してしまったのだ。馘首されたからしょうがないとはいえ、息子からすれば裏切りのようなものだ。
妻は他界したから、家族は息子だけだ。結婚したという話は聞かなかった。おそらくあの我が儘当主に振り回されて、それどころじゃなかったのだろう。本当に申し訳ない事をした。
お互いに連絡を取り合う事もなく何年も過ぎた。このままひっそりと人生を終えていくのかと思っていたのに、今回、唐突に手紙が届いた。
息子が理由もなく手紙を送ってくる訳がない。用件は何だろう。
老人はドキドキしながら手紙を読む。思いがけない内容に、我が目を疑った。
老人は旅に出た。
行き先は中部地区の北の町。ここからそう遠くない。ついこの間、名前が変わったという、新しい領主が赴任したばかりの町だ。
乗り合い馬車を降りて、門番の検閲を受ける。手紙に同封されていた紹介状を見せただけで、すんなり通してくれた。
目抜き通りを真っ直ぐ進むと領主館がある。老人は迷う事なく辿り着いた。
領主館の門番にも紹介状を見せて、中へ通して貰う。来訪の知らせを受けた息子が、すぐに玄関先に現れた。
息子は執事服を着ていた。
老人は軽く目を瞠る。
「……久しぶり。元気そうだな」
「ああ……」
老人は困惑する。言葉が出ない。
しかしこの様子なら、手紙に書かれていた内容は事実のようだ。嘘とは思えなかったが、俄には信じがたかった。
「どうぞ中へ」
「ああ……」
応接間に通されて、ソファに座った。慣れた手つきでお茶を淹れる息子の所作を、じっと見詰めてしまう。
「どうぞ」
「頂こう」
老人は遠慮なくお茶を啜った。
息子の所作は完璧だった。昔、教え込んだ通りで全く衰えていない。自分の教えがきちんと身についているのを確認して、老人の胸は熱くなる。
「要件はきちんと伝わったと思うが、引き受けてくれるのか?」
「聖人様、だったか? 今の主は」
「ケビン様とカイト様だ。ケビン様はあれの息子だと思えないくらい優秀で素晴らしい方だ」
「ケビン様……王都屋敷で冷遇されていると聞いた事はあったが……」
「やはり知っていたのか?」
息子の目が剣呑に尖った時、部屋の扉がノックされた。
息子がすぐに扉を開くと、小柄な少年が入って来た。
「聞いたよ? お父さん、到着したって?」
元気な少年が息子に喋りかけている。
老人はさっと立ち上がって礼をした。
「あ、初めまして! カイトです!」
「カイト様……」
するとこの少年が聖人様なのか?
こんなに若いのか……。
驚愕した老人が目を見開くと、もう一人部屋に入って来た。輝くような金髪の若者だった。緑色の瞳が印象的な、美しい容貌をしている。
「こちらはケビンだよ? もしかして知ってるのかな?」
「い、いえ……お初にお目にかかります」
老人が深く礼をしたままでいると「顔を上げてくれ」と言う声が聞こえた。
しかし老人は上げられなかった。
「ケビン様、申し訳ございません。王都屋敷での様子を聞き及んでいながら何も出来ず……」
「ラデルにも散々、謝られたよ。もう良いから」
頭を下げた視界の中に骨張った手が入ってきて、老人の手を掬い取った。そのままぎゅっと握り込まれたので、思わず目線を上げた。
「執事が当主に逆らえないのはよく分かっている。だからもう謝罪はいいよ」
「ケビン様……」
鮮やかな緑色の瞳が緩やかに微笑んでいる。宝石のようだ。
顔は似てないのに、その表情に先代伯爵の面影を見て、老人の目頭が熱くなる。泣きそうになるのを、ぐっと堪えた。
「そうだよ! 過去はもういいから、これからの話をしよう!」
カイトが元気に言う。
息子はさっとお茶を淹れると、ソファに座ったカイトとケビンの前に置いた。そのまま部屋の隅で待機する。執事の見本のような滑らかな動きだ。
老人は改めて二人の領主に向き合った。
「息子から手紙で依頼されたのですが、執事をしていた経験を活かして教師をして欲しいとか?」
「うん、そうだよ。子供達に礼儀作法を教えて貰いたいんだ。それと余裕があれば執事としての仕事もね? 書類の振り分けだけでもお願いしたいな?」
「とてもお忙しいとか?」
「うん。目のつく所に思うまま手を入れていたら、書類が山のようになっちゃって! ラデルさんやトーワさんも忙しくなっちゃって! 内容が把握できて処理もできる人は大歓迎なんだ! お父さんは即戦力だって聞いたよ?」
「即戦力……それはそうですが……」
「手伝ってくれる? メインは子供達の教育ね? 空いた時間に書類仕事や執事の仕事って感じ。詳細は後で書面で渡すけど、引っ越してくれるなら部屋を用意するよ」
「この館にですか?」
「うん。別の場所が良い?」
「あの、いえ、友人達の事が気になったもので……」
老人は気がかりを打ち明けた。
パギンス領はどんどん寂れていっている。年々物価が上昇し、ここでは生活できないと住民は余所へ引っ越していく。
老人は数年前からこまめに木炭の備蓄をしてきたので、これまで何とか冬を越せた。しかし昨年、近所の老人に配って在庫が底をついてしまった。
「今年の冬は越せないでしょう。小さな集落で老人達ばかり、協力しながら生きているので……」
「じゃあ皆でここに越してくれば良いよ」
「え? 皆ですか?」
「何人くらい? 十人? 二十人?」
「いえ、そこまでは。全部で八人です」
「八人なら余裕だよ! 何が出来る人たち? 農家さん?」
「はい。皆で畑を耕して……自分達が食べる野菜など育てて暮らしております」
「じゃあ大丈夫! 任せたい仕事あるから!」
「老人にですか? 大きな農地で働くのは体力的に無理ですが……?」
「うん。大丈夫! 野菜の品種改良して貰いたいだけだから! 長時間労働はさせないよ」
「品種改良とは?」
「えっとね~、同じ種類の野菜でも、寒くても実をつける物と、寒さに負けて枯れちゃう物があるでしょう? その丈夫なもの同士を掛け合わせて、次世代の野菜を作るの! それを繰り返していったら、雪にも負けない丈夫な野菜が出来るんだ!」
「なんと……」
「もちろん長期計画になるから、結果がすぐに出なくても問題ないよ。資料を残して、次に引き継いでくれたら良いから」
初めて聞く『品種改良』に老人は目を剥いた。
「カイト様は物凄い事を考えられますね……」
「ううん、これは僕の発想じゃないよ? 元の世界の農家さんがやってた事なんだよ」
「そうなのですか……」
「皆で引っ越して来たら良いよ。館の近くに寮を作っておくから大丈夫! 任せて!」
明るく勧誘してくるカイトの勢いに圧されて、老人はこくこくと頷いた。
老人は一旦自宅に帰る事にした。
それに先駆けて友人達に手紙を送っておいた。
カイトからの移住の誘いはとんでもなく好条件だが、いきなりでは判断しにくいし、困るだろう。老人が帰るまでの僅かな時間でも、考える時間があった方が良い。
前にカイトが建てたという寮も見学させて貰った。初期の移住者の為に建設したそうで、もう満室になっている。
建物自体は小ぶりだが、一人暮らしなら充分だ。いま住んでいる小屋よりも頑丈で新しい。友人達も満足する筈だ。
これからの事を色々考えながら乗り合い馬車に揺られて、自宅に帰った。 さっそく友人達に会いに行こうと外に出ると、思いがけない訪問者がいて、老人は絶句した。
家の前に貴族の馬車が停まっていた。そこから降りてきたのはパギンス伯爵だ。記憶の姿よりも老けていて、頬が瘦けていた。何だか窶れている。
「久しぶりだな」
「伯爵……」
「こんな鄙びた場所で隠居暮らしか? たいそう困っているだろう。またうちの屋敷で雇ってやっても良いぞ」
「………は?」
老人は思わず半眼になった。
「そもそもお前の息子が仕事を放棄しせいだ! 無責任にもほどがある! 息子は一緒に住んでるのか? 二人まとめて雇ってやるぞ? 寛大な主人に感謝しろよ」
突然現れて何を言い出すのか。しかも偉そうに上から目線で。
ついこの間、会ったばかりのカイトが脳裏に浮かんだ。あの方はこんな言い方しなかった。同じような勧誘でも全然違う。
「こんな辺鄙な所まで伯爵自らわざわざお出ましとは。よほどお困りのようですね」
「なに?」
老人が腹を決めて言い返すと、馬車の後ろから友人達が顔を覗かせた。場違いな馬車を見付けて、何事かと様子を見に来たようだ。
老人は声を張った。
「聞きましたよ。息子を馘首してからというもの、次々と執事が入れ替わっているとか? 領地経営を執事に丸投げしていたツケが回ってきたようですね? 優秀な次期当主様はどうなさったのですかね? こんな老体まで担ぎ出そうとなさるとは……。そもそもよく居場所が分かりましたね? 探し回ったのですか? わざわざ?」
「なっ……!」
「廃嫡なさったケビン様は自力で伯爵位を賜り、小さな田舎町を急速に発展させておられるとか。ご存知ですか? ヒガシフウジョウ領の事ですよ」
「くっ……う、うるさい!」
伯爵の後ろで馭者がおろおろしているのが見えたが、老人は続けた。
「まさか厚顔無恥にも、廃嫡して捨てた息子にお金の無心などしませんよね? とんでもなく恥ずかしい惨めな行為ですよ?」
「うるさい! うるさい! そんな事
する訳ないだろう!!」
「良かった! ケビン様はS級ランクの冒険者ですからね! のこのこ顔を出しても叩き出されるだけですよ!!」
「なっ……S級……S級だと? 馬鹿な……そんな筈は……!」
「本当ですよ。辺境で鍛えられたとか? 調べたらすぐに分かる事です」
もっと言ってやろうかと思ったが、蒼白になった伯爵は顔色が悪く、口をぱくぱくさせていた。今にも泡を吹いて倒れそうだ。
老人が雇われる気はないとキッパリ断ると、伯爵はよろよろしながら馬車に乗り込み、去って行った。
老人はふんと鼻息を吐き、二度と来るなとボソリと呟いた。
馬車が去ったのを確認して、友人達が押し寄せてくる。
「今の領主様だろう? 大丈夫か?」
「大丈夫だ。もう引っ越すつもりだから」
「あ、手紙に書いてあった件か? 詳しく聞かせてくれ」
「ワシも聞きたい」
「ああ。みんな集まってくれ。説明するよ」
老人がヒガシフウジョウ領について詳しく語り、引っ越しを提案すると、一人残らず同行する事が決まった。
今年の冬を乗り越えるのに、口に出さないまでもほとんどの者は死を覚悟していたので、その話はありがたかった。
そして移住した先で仕事を割り当てられた老人達は、いきいきと生活するようになった。領主館に近い畑で品種改良に勤しんでいる。
暇な時は子供の相手をしてくれと頼まれる事があった。老人だから何も出来ないと見下される事もない。必要とされる。それが何より嬉しかった。
老人は息子と一緒に執事として働きながら、まさかこんな日が来るとは……と胸を熱くした。
孤児の子供たちは一生懸命、礼儀作法を学ぼうと頑張っている。
その手助けをしながら、たくさんの子供たちに囲まれながら、老人は優しく微笑んだ。