流雲は大学に挫折し、新たな世界を求めて大阪万博に........
[4] 巡り合い JAMCO へ
1969年。東京の街は、年明けと共に不穏な気配に包まれた。1月18日早朝から19日に掛けて、東大本郷の安田講堂のバリケード撤去に機動隊8,500人、1万発以上の催涙彈とガス液を放射し攻撃を開始した。
これに対し全共闘の学生達が、投石・火炎瓶などで抵抗する攻防戦がテレビ中継された。約72時間の攻防が繰り広げられ学生374名全員が逮捕された。これにより昨年7月2日にバリケード封鎖された安田講堂の占拠が終了した。
2月には日大全共闘の秋田議長が逮捕された。この事件以後、学生運動は更に先鋭化し過激になり、暴力闘争は激化し終息する気配を見せなかった。
この東大闘争以後、全共闘運動は全国に燎原の火の如く燃え広がった。京都大学に飛び火した炎は、北は北海道大学から九州大学まで、日本全国の主要な国公立大学や私立大学の165校に燃え広がった。流雲の美大も未だにロックアウトされたままだ。
3月に入ると、東京の街は少し落ち着きを取り戻し始めた。流雲は春になり、大山を下り東京に戻ってきた。
流雲は陽射しの差し込む山の手線に揺られ、銀座に向かっている。
有楽町駅を降り、朝日新聞社ビルの脇を抜け日劇前に出る。数寄屋橋交差点を渡る。右手のソニービルを見ながら、並木通りを松坂屋方面に歩く。小松ストアーを過ぎた辺りから、ブラブラと並木通りの商店を眺めながら坂本ビルを探す。銀座通りから一本裏に入ったみゆき通りの少し先に、7階建ての坂本ビルはあった。
ビルの地下に降りる。『JAMCO』のサインがあり、恐る恐るノックする。
オフィスに入ると、正面の大きなテーブルに2人の男性が腰掛けていた。部屋は「L字型」をしており、右手奥に工房のような部屋が見えた。
挨拶すませると、向かいの椅子を指して座るように促してきた。正面に座った細身の人が坂本正治氏。大きな身体の人が遠藤万里氏だった。
早速、面接が始まり、アルバイトの経験を聞かれる。
流雲は「テレビの背景画描きとショーウインドウのディスプレイの経験があります」と答える。
すると「美大で制作した作品を持ってきた?」と尋ねられた。
流雲は写真集「陰翳と息吹」と「針金細工アクセサリー」をテーブルの上に広げた。
「これ君が撮影したの?紙焼きはどうしたの?」と遠藤氏が尋ねてくる。
「学校がロックアウトされて、現像設備が使用できなかったので現像は写真屋に頼みました」
「でも、紙焼きは出来るの?」
「はい。白黒なら紙焼きできます。カラーは経験ありません」
「坂本さん。いいんじゃないの。コンテンツの資料作りには使えそうだよ。この彫金も自作?」
「はい。針金細工とハンダ付けはできます」
坂本さんが「君、何時から来れるの?来週から始められる?」
流雲は、あっけなくJAMCOで働くことが決まった。
この時の出会いが流雲の将来を大きく左右するとは、想像できなかった。
流雲は単純にアルバイトが決まり、浮き浮きした気分で銀座を歩いている。銀座は新宿のような剣呑な空気は無く、明るく華やかさな装いを纏っていた。
月曜日の朝。
流雲はJAMCOに出勤するため麻布山を下り、麻布十番からバスに乗り新橋に向かっている。先月まで麻布十番から銀座5丁目まで、都電一本で行けた。ところが、今月から都電が廃止になった。朝、職場に向かう人波が、新橋から銀座に流れている。流雲も人波に押されるように流れる。
15分程歩いて『JAMCO に到着する。
オフィスに出勤すると、髭面のエンジニア福島氏に紹介される。
直ぐに、簡単な打ち合わせ会議が行われ、仕事の概要が説明された。当分、流雲は福島氏のアシストを指示される。
JAMCO のオフィスは工房であり、部屋の奥は作業場になっていた。作業場に大きな作業台が置かれ、アンプや映写機、基板や真空管が作業台の上に散乱している。
作業台の前に福島氏は座り、口笛を吹きながら、数百本の真空管と基板と格闘している。基板を半田付けしながら何かをどんどん組み立てている。
流雲は福島氏の横に坐り、指示されるままに半田付けを行っていく。真空管とワイヤーを基盤の上に、指示されるままに黙々と半田付け作業をこなしていく。
「福島さん、何を組み立てているのでしょうか?」
「う~ん。上手く説明できないけど……。音響と特殊照明装置を組み込んだ巨大画面投影制御システム『ルル』のプロトタイプを制作している」
「プロジェクターですか?」
「まぁあ。音楽が流れストロボなどの照明が発光するプロジェクターをコントロールする装置なんだけど、説明するのが難しい。まぁ。コンピューターの一種だね」
「コンピューターですか?」
(コンピューター、確か電算機だよな。電算機が制御装置なのか?良く分からないけど、何か新しい物を造っているのだろう)
『ルル』は映像と音を立体的に演出する装置であり、光学と音響技術を組み込んだ巨大プロジェクターをコントロールする最新のコンピューター機器らしい。
この『ルル』を三井パピリオン内部に設置し、宇宙への旅を疑似体験させるのだそうだ。
三井パピリオンの構想は、スペース・レビュ『宇宙と創造の旅』。
パピリオンに入った観客は、内部に設置される3台の80人乗りの宇宙船(空中観覧席)に乗り、現代から未来への幻想的な空間を旅する。
『ルル』はこの宇宙の旅を疑似体験させる装置になる。
パピリオン内部に720平方メートルの巨大なスクリーンを設け18台の映写機、9台のプロジェクターに1,726個のスピーカーを設置する。この音響と特殊照明と映像をコントロールするのが『ルル』になる。
流雲の理解を越えていたが、何か面白そうな未知への憧れがあった。
流雲が初めて携わる仕事は全てが新鮮だった。コンピューターの知識も無く、光学や音響工学の知識も無く、全てが初めての経験の連続だった。
半田付けの単純作業をひと月程続けると、冷蔵庫サイズの真空管ボックスが完成した。
坂本さんと福島さんは、真空管ボックスとアンプやらストロボと機械と複雑に絡み合った配線で繋ぎ始めた。
真空管ボックスの配線とキィーボードを繋ぐ複雑な配線作業が完了する。
福島さんが、ピアノを弾くようにキーボードを叩き始めた。すると、4台のプロジェクターから連続して、画像が映し出された。音楽とストロボ、ヒカリがシンクロナイズされた画像が壁面に踊り映し出される。すると、複数の画像が回転したり、伸縮したり、複雑に交差しながらアニメーション化し、動画として映し出された。
流雲はこれまでに見たこともない映像世界に身体が痺れる感動を覚えた。 そして始めて自分が制作している真空管と基板のボックスがコンピューターであり、画像と映像と音楽とヒカリを制御する途轍もない箱であることを知った。
『ルル』のプロトタイプが完成した。
この箱をデザインした坂本氏と福島氏の頭の中に何が起こっているのか、不思議でならなかった。
これから『ルル』本体の製造が始まる。その規模はプロトタイプの3倍の性能を有する機械になる。
『ルル』本体の製造は、より高度な電子工学の知識が必要とされる為、富士通研究室に製造拠点が移動する。福島さんは富士通研究室で陣頭指揮を執るために移動することになった。
流雲は銀座の工房に残り、画像コンテンツの制作アシスタントして働くことになった。
研究室に坂本氏を初めに、大阪万博制作メンバーのエンジニアの福島氏、自然写真家遠藤万里氏、インテリア・デザイナー倉又史郎氏らが参加し、コンテンツの最終案の選定会議が行われた。
コンテンツの最終案が決定した。
宇宙船から地球の景観を眺めた後に『宇宙』に旅立つ物語が決定した。
大阪万博制作メンバーは物語のイメージ画を次々と創作すると、直ぐに流雲に手渡してくる。制作メンバーの溢れ出るアイデアに流雲は圧倒された。
流雲は国立図書館や大学図書館を巡り、イメージ画に基づいた画像資料の調査を行う。画像資料をベースに最終イメージの絵コンテが完成する。
コンテンツが協議され、新たなコンテンツ制作に海上住宅『Aqua City』の建設が持ち上がった。
1970年の100年後の世界を想定した時、未来都市をイメージするコンテンツが不足している。『宇宙の旅』に出発する前に、人々が暮らす都市の提案が必要だろう。
こうした指摘から、近未来の都市が建設されるのは何処だろうか。地球上の何処に造られるという視点が欠けていると定義された。
未来都市の場所は、日本の位置を考慮し海上都市が提案された。潤沢な領土として海洋があり、海上都市の可能性はあるだろう。こうした想定に基づき未来都市がイメージされ、海上都市『Aqua City』の建設計画が立案された。
この『Aqua City』の設計デザインを遠藤師匠が担当した。師匠は元々は建築家だった。遠藤氏はアメリカで建築の教育を受けたのだそうだ。
(遠藤師匠が建築家とは知らなかった。アメリカに留学していたのか。だから英語がペラペラなのか。色んな顔を持っている人だな)
7月初旬。熱海の伊豆山海岸沖に未来海上都市住宅『Aqua City』を建設することになった。直径30メートルほどの巨大な二重エアドームの海上住宅を設置する。エアードーム内部の住空間は未来住宅を彷彿とさせる仕上がりになった。
遠藤師匠は水中撮影の経験も豊富にあり、スキューバのライセンスを所有していた。流雲は撮影助手として初めてスキューバダイビングに挑戦しトレーニングを受ける。
未来ファションに身を包んだモデルが海上住宅で生活する。その日常生活の様子をカメラで撮影する。撮影は、海上だけで無く、 ボンベを背負って水面下に潜り、水中から『Aqua City』の様子も撮影する。
海上に浮かぶ透明住宅の様子は、近未来を彷彿とさせた。
JAMCOのメンバーがコンテンツの制作に邁進している頃、大阪の大阪万博会場では三井建設を中心にパピリオンの建設が急ピッチで進められていた。
パピリオン内部には、宇宙船を模倣したジェットコースターの起動レールや動く歩道が建造されていた。
8月末に宇宙船と動く歩道の試運転が行われることになった。流雲も立ち会いに大阪万博会場の建築現場に出掛けた。
建設中の三井パピリオンは、体育館のような大きなドーム建築だ。完成すると、宇宙船が地上10メートルから20メートルの暗闇空間を上下運動と円運動を繰り返し移動する。
そして光りのサインと音響に誘導された動く歩道『モビスコープ』に乗り、互いに反射し合う巨大な鏡面の無限鏡空間を旅し、泡のトンネルに導かれる。7色の泡が壁面から吹き出しては消える。泡に包まれた夢幻の世界を体験する空間になる。
宇宙船ジェットコースターの試乗はかなり高さがあり迫力があった。これが暗闇の中を映像と画像に包まれながら走ったら、相当に面白いイベントになるのが想像できた。
『Aqua City』の撮影が完了し現像作業がひと段落した頃、撮影旅行が計画された。撮影旅行は北海道で行われることに決まった。遠藤万里氏のアシストに流雲は抜擢された。
先陣として流雲は北海道に飛んだ。千歳空港に到着する。
9月末の北海道の空気は冷んやりと涼しく秋の気配を感じさせた。
遠藤師匠の指示により、北海道の悪路に耐えるトヨタのランドクルーザー・FJ56Vをレンタルする。今年の夏からニッポンレンタカーが開業したばかりだった。
遠藤師匠と2人だけの旅になる。キャンプ泊も含め10日間を予定している。空港近くに宿を確保し、キャンプ用品や備品手配に駆けずり回った。何とか、遠藤師匠の到着前に準備が完了する。
流雲はランドクルーザーを運転し大雪山高原に向かっている。目の前には、手付かずの荒れ果てた殺風景な風景が広がっている。
千歳空港を出発し国道5号(現337号)を北上する。国道とは名ばかりの道路の上下2車線のデコボコ道。道路脇にやたらに電信柱が立っている。
草原を突っ切って真っ直ぐ伸びる国道に揺られながら走る。
流雲は運転しながら、遠藤隊長に質問する。
「今回の撮影の目的は、三井パビリオン内部に構築する無限鏡空間に投影するコンテンツの制作ですよね。無限鏡空間とは、どんな空間になるのですか?」
「無限鏡空間の構造は、鏡とハーフ・ミラーを組み合わせた空間になる。この空間に画像を映写すると、無限大に見える効果が得られる」
「そうなんですか。その壁面をどのような形で使用するのですか?」
「壁面を左右両サイドに設けて、トンネル状に構築する。このトンネルの中を動く歩道『モビスコープ』に乗って移動させる。空間に入ると、画像が反射し合う空間となり無限鏡空間が構築される。この無限鏡空間に静止画を投射するのが構想だ」
「どんな効果が得られるのですか?」
「この方法により、風景写真の無限大効果が得られ、人が風景の中に入った錯覚を起こさせる効果が期待できる。『Aqua City』の画像では、その中で生活しているような錯覚を与えられば成功だ。そして動画とは異なる映像アートを創り出そうとしている」と、遠藤師匠は説明してくれた。
国道5号(現国道337号)が樹海ロード(現国道274号)に交差する。
樹海ロードに乗り換え、進路を帯広に取る。樹海ロードが山間部に入ると夕張川沿いを蛇行しながら、緑豊かな山間部を抜けて行く。樹海ロードを北上し大雪山に向かって登って行く。約6時間走り続けて大雪山国立公園に到着した。
9月末の北海道の山々は、秋色に染まっていた。殺伐とした景色は、美しい大自然の輝く風景に変わった。
ランドクルーザーを国立公園の駐車場に停車する。2人でカメラ機材を背負い森の中に歩みを進める。針葉樹と紅葉樹の森を抜けた時、息をのむような紅葉と水景色があらわれた。
「ここが滝見沼だ。この周りに幾つもの沼がある。沼を巡りながら写真撮影をするから、撮影の準備をしてくれるかな」
「はい。35㎜で良いのですか?」
「シノゴでも撮影するから、両方セットしてくれるかな」
沼の水面に紅葉景色が写り込む位置にカメラをセットする。
「ここは沼ですか?沼と湖の違いはなんですか?」
「特に定義が確定している訳では無ない。スイスの著名な湖沼学者フォーレルは、水深が深く深い所に沈水植物を見ないものを『湖』。湖より浅く、最深部まで沈水植物が繁茂するものを『沼』。湖や沼より小さく人工的に作ったものを『池』と定義している」
「そうなんですか。この辺りには沼が多いのですか?」
「この周りに10数個の沼が点在している。これから、緑沼、式部沼まで足を延ばす。今の時期は式部沼が一番美しくなっているだろうから、重点的に撮影する」
「この辺りの自然は本当に美しいですね。国道沿いの殺伐とした景色とは大違いですね。北海道の自然の美しさは、歩かないと見ることができないのですね」
1時間程、撮影を続けて更に森の奥を目指して歩き始める。
撮影機材を背負いながら、流雲は遠藤師匠の後を追うように黄金色に輝く林道の中を歩き続ける。林道に「ヒグマ注意」の看板が立っている。
「この辺りにヒグマが出るのですか?」
「出るよ。今の時期は冬眠前だから、活動が活発になるから注意が必要だよ」
開けた平原にきた。紅葉の林を背にした碧に輝く式部沼に辿り着いた。
遠藤師匠は、沼の湖岸にカメラをセットすると、湖岸の周りを歩き周り、何かを確認始めた。ポケットからコンパスを出して、方位を調べ始めた。
「遠藤さん、何を調べてるのですか?」
「方位磁針計で、太陽角度を計測している。湖岸の反対側の山肌の陽の当たる時間を予測している。もう1時間ほどすると、陽射しがあの斜面に注ぐから、黄金色の葉が輝きを増すだろう。周りの景観を撮影しながら、暫らく待とう」
「何時も、太陽光の位置を計測するのですか?」
「何時もではないけど、今回のように撮影旅行に来る時は、事前に現地の情報を収集し、撮影時に確認している」
(そうなのか。やはり、プロは違うなぁ)
少し陽が傾くと、反対斜面に陽光が降り注ぐ。黄金色や紅い木の葉がキラキラと輝く。水面に秋色が映り、山斜面全体が華やかな景観に変化した。
(陽光の加減が、重要なのは分かっていたがこれ程の変化をするとは……)
式部沼の優しい秋景色の景観は、貴婦人のような優雅さを写していた。陽の傾き始めた陽光のオレンジ色が、秋色を一層引き立てる。
秋景色の撮影を終えると大雪山高原ロッジに向かった。すっかり陽の暮れた頃、ロッジに到着する。
ロッジ前の紅葉林は、幻想的な月明かりに照らされている。大雪山は、陽の落ちた冷気に包まれ暗闇に沈んでいた。
翌朝。大雪山の旭岳は透き通る青空に白冠雪の雄姿を輝かせていた。
昨夜、山頂付近には初雪が降ったらしい。例年より、少し遅い初冠雪だった。
凍れる朝。紅葉の森は秋風に揺れ、ゆらゆらと靡いている。
流雲はランドローバーを北東に進路を取っている。石狩川上流に向かって樹海ロードを走る。
深い谷底の眼下に、大きな湖のような水溜まりが臨める。ダム工事が進められている。ダム湖を右折し南下し、三国峠を目指す峠道に入る。
舗装路が途切れ、赤土が剥き出しの泥道になる。
4輪駆動の威力が発揮され、ランドローバーは土ぼこりを上げながら、泥道を快調に飛ばす。
「三国峠から糠平湖を抜ける峠道は、北海道有数の景勝地を走る道路だから、撮影ポイントに着いたら指示するから停車してもらうよ」
「了解です。この峠道、4輪駆動のランドローバーでなければ走れませんね」
(この赤土の泥道は、雨の日に走るのは大変だろうな)
「この三国峠は、石狩国と北見国と十勝国に跨る裏大雪を通る峠道なんだよ。この三国山の峠道は、北海道で最も標高の高い峠道になる」
「標高はどれ位になりますか?」
「確か、標高は1,100mを超えると思った。峠道の道幅が狭くなるから、スピードを出さないように安全運転で走ってよ」
「大丈夫です。この泥道ではスピードはだせません」
山間部を抜ける峠道を走ると、雄大な山並みが見える開けたエリアに到着する。峠の頂に到着した。
撮影をする為、路肩にランドローバーランドを停車する。
エゾマツやトドマツの針葉樹の原生森林の緑濃い山並みが辺り一面を覆っている。森林の濃さはむせ返るような香りを発している。
ナナカマドやカエデの樹々が、絵筆で描かれたように、鮮やかに紅く萌えている。
流雲は、これほどまでに色鮮やかな絵画的な紅葉を見たのは初めてだった。
(本当に、息をのむ美しさって、あるんだ。驚いたなぁ)
この後、阿寒湖を巡り、北上しサロマ湖の紅葉景色を撮影し、紋別の野鳥の楽園コムケ湖を巡り、オオハクチョウ、コハクチョウ、オジロワシなど野鳥を撮影する。ホーツク海の夜明けを撮影し、旭川を経由し、約10日間の北海道撮影旅行を終了した。
遠藤氏のアシスタントとして働く内に、流雲はカメラマンの仕事に魅了された。 遠藤氏の写真世界に触れた時、写真をもっと深く学びたい。何を基準にシャッターを押しているのか。知りたくなった。
遠藤氏の名刺に「自然景観写真家」と明記されている。
「遠藤さん。自然景観写真家とは、風景写真家なのですか?」と聞きなれない言葉の意味を尋ねる。
「自然は解るよね。景観の定義は、個人的な解釈だけど、景色や風景の中に芸術的な美を求める様子と捉えている。つまり自然の景色を見た時に自分の心に感じる美的感覚を景観と読んでいる」
「自分が感じる美的感覚の表現と言うことですか?」
「そうだよ。君の写真集『陰翳と息吹き』は、君が表現したかった心の景観だろう」
(そうか。そう言われれば、確かにあれは、俺が感じた大山の景観だ)
撮影旅行で遠藤氏と寝食を共にしながら、写真撮影に向き合ってきた。
過酷な自然環境下の撮影は、一瞬のチャンスを捕らえる決断力と研ぎ澄まされたテクニックが要求された。
完璧に撮影準備を整えても、撮影時の自然をコントロ―ル出来ないことも学んだ。
遠藤氏の撮影する姿に自然を慈しみ愛するひた向きな心情を見た。自然と対峙する時、貴重な自然に如何に人間が関わるべきか。その大切さを教えられた。
自然界を愛する写真家の撮影する姿は流雲の美意識に激震を起こした。絵を描いてた時に感じた快感とは異なる感覚に目覚めた。
ファインダーを通して自然と対話する喜びを与えてくれた。
(流雲は心の中で、師匠として慕っていた)
流雲は、「遠藤さん。僕は写真家になりたいと思ってます。弟子にして頂けませんか?」と、尋ねてみた。
「流雲君。私は弟子は取らない。写真家になるのに師弟関係は成立しないと考えている」
「写真のこと。写真家になる方法などを学びたいのですが、駄目ですか?」
「教えるのは構わないよ。何時でも来れば良い。知っていることは教えるよ」
「一緒に、仕事をしながら教わりたいのですが。無理ですか?」
「私のアシスタントになりたいの?このプロジェクトが完了した時点で相談しよう」
(結局、弟子入りは断られてしまった。プロジェクトが終わったら頼むことにしよう)
秋も深まった頃、1969年10月21日の国際反戦デーを迎えた。
当日、流雲は美大の友人やアクセサリー仲間に呼び出され新宿に居た。久し振りの新宿の街は殺伐としていた。
午後3時頃には、西口地下広場は異様な雰囲気に包まれ始めていた。
西口広場に集まった人達は完全に殺気立っていた。昨年の国際反戦デーの再現だった。
JAMCOの仕事に戻った流雲は、コンテンツ制作に暴騰し連日深夜まで作業続けた。
撮影旅行で撮り貯めた膨大な写真を東京現像所に持ち込むと、順次現像されたメディアがオフィスに送られてくる。
本格的にメディアを編集し、コンテンツを制作する作業が始まった。
流雲は最終編集作業を遠藤師匠の指示の元、黙々とこなして行く。コンテンツの最終制作は戦場の様な騒々しさの中で作業が進行した。
開催日前夜、流雲は大阪大阪万博会場にいた。流雲達は徹夜で作業を続けている。
結局、コンテンツ制作は大阪万博開催のギリギリまで続いた。
3月15日の開催日当日まで調整が続いた。
大阪万博開催日の当日の朝、何万人もの人達が雪崩のように三井パピリオンに押し寄せる光景を目にした。
三井パビリオンが無事に完成したことに感動を覚えた。喜びが湧き上がり、何故か涙が頬を流れていた。
約1年間掛けて、無我夢中で走り抜けてきた。右も左も分からず我武者羅に働いてきたことが、走馬灯のように思い出された。流雲は、初めて何かを完成させる喜びを実感した。




