音楽祭 本番<後編>
「音楽祭 本番<中編>」の続きです。3話にわたり掲載しています。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校1年生。
・高瀬 也梛…同上1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上2年生。ギターを弾く。
【その他】
・イツキ…白い鳩。諷杝に懐いている。
・並早…彩楸学園の英語教諭。音楽祭の担当にされる。
・相田 将…雲ノ峰高校2年。音楽祭実行委員長。
・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上2年。将の幼馴染みで音楽仲間。
六.
グループによってはお揃いのTシャツを用意したり、バッチリ衣装を決めこんでいるところもあるが、矢㮈たちは何のこともない、いつもの彩楸学園の夏仕様の制服である。
音楽祭の準備中は学校指定のジャージだったのでそれを着替え、まるで今から登校しますといった出で立ちになったのを確認する。
出番を待つ控えスペースにいる諷杝と高瀬もいつも通り制服姿だ。諷杝は白い半袖のカッターシャツのボタンを上から二つ外し、首元にうちわで生温い風を送っている。対して高瀬は、さすがにボタンは外しているものの、臙脂に幅の広いストライプの入った学校指定のタイは律儀に付けている。彼曰く、制服の場合、タイまでつけないと落ち着かないらしい。
矢㮈も夏は着用自由なリボンタイを取っ払い、少しでも付属する布を減らして涼しくなりたい方だった。
すでにステージでは午前の第二グループの演奏が始まっている。耳に届くのは、この春に何かのCMで起用されていた曲である。サビの盛り上がる部分で思わず鼻歌を歌ったら、諷杝のそれも重なって思わず顔を見合わせて笑った。
「お前ら、準備しろよ」
高瀬の言葉に、矢㮈は小さく頷いてバイオリンケースを手元に引き寄せた。この四月から再び触れるようになった相棒の楽器は、きちんと調律されてただ静かに出番を待っている。
譜面をさらって、頭の中でイメージを膨らませる。
(大丈夫)
バイオリンのコンクールや発表会とは違った緊張感と高揚感があった。失敗を恐れる気持ちが不思議とないのは、ステージに立つのが矢㮈一人だけではないからだろうか。
第二グループの最後の一音が刻まれる。その余韻にかぶさるように観客たちの拍手が溢れる。何かマイクで挨拶している声が聞こえてきた。
「さあ、行こうか」
諷杝が自分のギターを持って立ち上がる。高瀬がお気に入りのキーボードを持って彼の後に続き、矢㮈もバイオリンを手にその後を追った。
準備を入れて持ち時間は十五分。用意された曲は二曲。
前のグループの熱気が残るステージと会場は、矢㮈たちが一曲目を奏で始めた瞬間、一気に静かになった。
観客たちはバイオリンの生音に耳を傾け、小川が流れていくような繊細なメロディに身を委ねる。
その川はやがて勢いを増し、大きな海へ合流し、ゆったりと大海を漂うのかと思いきや、いきなり嵐が襲ってきて荒れ狂う波に揉まれる。
クラシックのようで、全然クラシックじゃない。高瀬の軽妙なタッチと、諷杝の奏でる弾むようなギターの音色がジャズやポップスの色を伴う。人の声は全然入らないのに、誰かが鼻歌を歌っているようにも聞こえる。バイオリンを弾いている矢㮈自身も、何とも不思議な感じのする曲だ。
そしてこの不思議な曲は、ここにいる三人の誰かが欠けると途端に成り立たなくなるのだ。
(次は独奏)
ふいに、並走していたギターのメロディラインが消える。キーボードの音が音量を絞り、バイオリンの音が一際高く鳴り響いた。
この曲最大の見せ場だ。
『ねえ矢㮈ちゃん、気付いてる?』
諷杝が昨夜教えてくれた。
なぜ、高瀬がこの曲にバイオリンの独奏を入れたのか。
『君の独奏を曲に織り込んだこと自体が、すでにもう也梛の信頼を得てるんだよ』
高瀬が矢㮈のバイオリンを認めていなかったら、独奏なんて有り得ない。インパクトを狙ったとしても、矢㮈に最大の見せ場を任せたりしない。そもそも、こんな曲の構成にしなかったはずだ。
(あの天邪鬼)
矢㮈は独奏の最後の一音を弾き終えると、高瀬の方にチラリと視線を遣った。
高瀬の口端に微かに笑みが浮かぶのを見た。
再び、キーボードの音とギターの音が流れ始め、バイオリンの音がそこに馴染んでいく。
気付くと諷杝がこちらを見ていて、軽く微笑んだ。
矢㮈も軽く微笑み返し、終わりの一音まで丁寧に音を紡いだ。
***
「何か歌ってたんだか、何なんだか……」
矢㮈は手を洗いながらため息を吐いた。顔を上げた先の鏡には、何ともいえない苦笑いをした自分が映っていた。
正直なところ、二曲目はあまり記憶に残っていない。ただ懸命に口を開いて歌っていた。
耳の奥の方で高瀬の軽快なキーボードの音を捉えながら、隣で楽しそうに歌う諷杝を見ながら歌っていた。とりあえず、最後まで歌い切ってそれなりの拍手をもらえたから良しとしたい。
化粧室の扉を押し開けて廊下に出ると、開いた窓から吹く生温い風が矢㮈を包む。ステージでは今も本日の交流演奏の発表が行われており、廊下に出ている人はまばらだ。
「お疲れ様」
ふとかけられた声に振り向くと、そこには見知らぬ女性が立っていた。大学生くらいだろうか、ポニーテールにした黒髪が頭の後ろで風に揺れ、全体的に知的で落ち着いた雰囲気がある。
矢㮈の方を真っ直ぐに見ているから、先程の言葉は間違いなく自分にあてられたものだろう。
「えっと……?」
念のために記憶を掘り起こしてみるが、やっぱり記憶にない顔だ。
女性はふっと表情を解し、口を開いた。
「さっきの演奏、聴かせてもらったの。綺麗な独奏だった」
「あ、ありがとうございます」
矢㮈は頭を下げつつ、ふいに「あれ?」と小首を傾げた。目の前にいる女性に、どこか見覚えがあるような気がする――初対面なはずなのに、初対面ではないような気がするのだ。以前、どこかですれ違ったりしただろうか。
「キーボードにギターにバイオリン。少し不思議な組み合わせだなって思ってたのだけど、聴いてみたらピッタリはまってて」
女性の言葉に矢㮈は思わず頷いた。演奏を聴いてくれた人に何かが伝わったようで嬉しかったのだ。
「はい、そうなんです。弾いてるあたしも不思議な感じで……作曲してくれたヤツは普段すごいひねくれてるんですけど、やっぱりすごいなって思って」
女性が目を細め、「そうなんだ」と一つ頷く。その声音には何かに納得したような響きがあった。
「また、機会があれば聴かせてね」
「あ、はい。もちろん――」
「笠木」
固く冷たい声が矢㮈の言葉を遮った。
「え、高――」
高瀬、と呼ぶ間もなく、彼は矢㮈の肩を掴んで少し後ろに下がらせ、女性との間に割り込んだ。
女性は淡々とした表情で高瀬を一瞥し、「あんたもお疲れ様」と言った。高瀬は怖いくらいの能面で、黙って女性を見下ろしている。
(ああ、そうか)
二人を見比べていた矢㮈は気付いた。女性を見てどこかで見た覚えがあるような、という感じを拭えなかった理由が分かった。
「……高瀬のお姉さん?」
矢㮈の問いに高瀬は無言だったが、女性の方が反応した。
「遅ればせながら、也梛の姉の高瀬葵です」
彼に妹がいることは聞いていたが、姉がいることは知らなかった。
「早く行け。向こうで先生が待ってる」
高瀬が片手で後方を差しながら低い声で言った。葵は困ったように小さくため息を吐き、「分かったわよ」と歩き出した。
矢㮈の横を通り過ぎる際に会釈され、矢㮈も慌てて頭を下げ返した。途端、大きな手にぐわしと頭を鷲掴みにされ、無理やり顔を上げさせられる。
「あんなヤツに頭なんか下げなくていい」
不機嫌な声と同時に手が離れる。高瀬は葵の消えた廊下の先を睨みつけていた。
「……仲悪いの?」
「お前が今見た通りだ」
つまり、悪いのだろう。――だが、高瀬はともかく葵の方は弟のことを悪く思ってはいないような気がした。今の、ほんの一時を見た限りでは。
高瀬がさっさと歩きだしたのを見て、矢㮈も慌ててその後を追う。
(確かお父さんともこじれてたよね、こいつ……)
少し前を行く高瀬の背中を見ながらぼんやりと思い出す。
高瀬家にどんな事情があるのかなど矢㮈には皆目見当がつかなかったが、それでも少し心配にはなる。本人に言えばお節介だと言われるに決まっているだろうから口には出さないが。
「……笠木」
「ん?」
突然呼ばれて驚く。
高瀬は前を向いたまま、歩みを止めずに言った。
「独奏、見事だったな」
「!」
矢㮈の足が思わず止まる。少しずつ開いて行く背中を数秒眺めていたら、彼が今度は振り返った。
その口端には、軽く笑みが浮かんでいる。
矢㮈は震える声を誤魔化すように少し大きな声を出して言った。
「一番の見せ場をありがとうございました!」
高瀬が一瞬目を見開き、小さく吹き出した。
***
並早は学園のフェンス沿いに伸びる歩道横に止まっている車を見つけ、やれやれと近付いて行った。
もうすぐ正午を迎える時間帯、特設ステージでは二日目午前の交流演奏会のプログラムが行われているはずだ。並早は午前発表三番目の諷杝たちの出番を見届けると、第二体育館から離れ、外の見回りに出ていた。
音楽祭には公共交通機関を使ってやって来る人よりも、自転車や自家用車でやって来る人の方が多い。駐輪場は普段生徒が使用している場所があるので不足しないが、駐車場には限りがある。
先程目を付けた車は停車禁止地区に停車しており、もし音楽祭に来たのであればきちんと決まった駐車場を案内する必要がある。
並早はさりげなく運転席の窓を覗き込むと、そこにスーツ姿の男性を確認した。男性の方も並早に気付いて運転席の窓を開けた。
「音楽祭を見にこられたのでしたら、専用の駐車場へお願いします」
「……そうか。前はここも停めたい放題だったのにな」
男は小さく呟きながら腕時計を確認した。
「俺は迎えに来ただけなんだ。もう来ると思うから少し見逃してくれ」
並早は仕方ないというように軽く微笑み、そして男に会釈した。
「お久しぶりです」
並早は、その男を知っていた。会うのは十年振りくらいだろうか。
(ああ、今日は古い知り合いによく会うな。……音楽祭だからか)
運転席に座る男の方もとっくに並早に気付いていたらしく、昔のようにはっと鼻で笑った。
「ここの教師をしているそうじゃないか」
とりあえず、覚えてもらっていたことに驚きつつも感謝する。
「はい。英語を受け持っています」
「お前は兄貴に比べると頭が良かったか」
一瞬だけ、男の目がどこか遠くを見るように細められたような気がした。この男もまた、並早自身というより並早の兄と交流があったのだ。
「……音楽祭、見て行かれないのですか」
「あんなもん見ても仕方ないだろう。俺は興味が無い」
男の顔から一切の表情が消え、冷たい声が答える。並早は困ったように眉を下げた。
「それは残念です。皆頑張って輝いてますよ。――昔の誰かさんたちのように」
「所詮その時だけだ。一時の夢で将来まで棒に振るなど理解できん」
男が厳しい声音で言い放った時、後ろから小さな足音が聞こえてきた。
振り返ると、そこには長い黒髪を首の後ろで一つに結って大きなバレッタで留めた、上品な佇まいの女性がいた。
「あら、先生?」
すでに会場で顔を合わせ挨拶をしている、生徒の母親だった。
並早は女性に微笑んで会釈し、車から離れた。女性の方も会釈を返しながら、後部座席の扉を開けて車に乗り込んだ。
扉がしまったのを確認して、ウインカーを出し、ゆっくりと発進する。どんどん離れていく車を、並早はぼーっと見送っていた。
「……変な意地を張らないで息子の音楽を聴いていけば良いのになあ」
並早はポツンと独りごち、風に乗って聞こえてくる音楽に耳を傾むけながら校門を潜り抜けた。
七.
「あー、終わっちゃったねえ……」
簡単な閉会の挨拶が終わったら、あっという間だった。準備の時程片付けの時間はかからなかったような気がする。まだ興奮冷めやらぬ状態から実行委員を中心に片付けに取り掛かり、予定していた時間よりだいぶ早くに終了した。泊まり込みの合宿も終わるので、全員荷物をまとめ、残すところは打上げの晩餐だけであった。
「お疲れ様、矢㮈ちゃん」
体育館の外、植え込みの淵に腰掛けて「ほへえ~」と疲れたように空を仰いだ矢㮈に諷杝が労いの言葉をかける。
「諷杝もね~」
矢㮈が返し、諷杝も一息つく。
也梛たち三人は、準備の手伝いができなかったこともあり、片付けではその分を取り返すべく率先して働いた。委員長の相田が目を瞠って「やればできるじゃねえか」と主に諷杝を見て言っていた。
「そういえば也梛、先生来てたんでしょ?」
諷杝が也梛に尋ねる。彼の言う「先生」は、也梛のピアノの先生を指している。
近々海外に行くという先生は、わざわざ今日の演奏を見に来てくれていた。也梛たちがステージを下りてから、也梛の母親と共に挨拶に来てくれた。
「也梛君、私、見たわよ」
開口一番、先生はそんなことを言ってのけた。
「也梛君たちが奏でる音楽の中に、也梛君が楽しんでる姿、しっかり見たよ」
『心から楽しんでいる人の演奏には、その人が楽しんでる姿が音の中に見える気がするのよ――私にはね』
つい先日、先生が言っていた言葉を思い出す。
そして、「これなら私も安心」と先生はどこか満足そうな笑顔を見せると、也梛の肩をポンと叩いて、
「あなたはあなたが思うように音楽を続けて」
とエールを送ってくれた。先生の後ろにいる母親の前では恥ずかしかったが、也梛は心の中が温まるのを感じて素直に「ありがとうございます」と頭を下げた。
(それにしても姉さんまで来てたとは……)
話を聞くと、先生と母親を彩楸学園に連れて来たのは姉の葵だったらしい。先生はその後挨拶も程々に、葵の運転する車で帰って行った。母親は父親が別途迎えに来ると言っていた。
「おーいそこで燃え尽きている諸君。そろそろ食堂に集合だぞ」
明るく元気な声に也梛たちが揃って顔を上げると、淡海あやめが腰に手をあてて立っていた。
淡海は昨日に全部の出番を終えており、今日は裏方に徹していた。なお、他のグループの演奏にノリノリで声を飛ばしたり一緒に歌ったりしていたので、そういった面では純粋に音楽祭を楽しむ観客の一人と化していたとも言える。
「海中、あんたすごい秘蔵っ子たちを手に入れたわねえ」
淡海が也梛と矢㮈を順に見ながら諷杝に言う。
「えへへ、そうでしょー」
諷杝も素直に頷き、「あげないよ」と不敵に笑う。
淡海は軽く肩を竦め、
「いいもん。うちには将ちゃんがいるし、他のメンバーも楽しいやつらだから」
わざと「べー」と舌を出して応戦した。
「あやめ! ちょっと来い!」
遠くで相田が淡海を呼ぶ声が聞こえ、淡海が「はいはーい」と小走りで去って行く。
諷杝がよいこらせと腰を上げ、也梛の左手と矢㮈の右手にそれぞれ片手を伸ばした。
「「諷杝?」」
きょとんとする也梛たちの手をぐいと引っ張った諷杝は、なぜか眉を下げ、少し泣きそうな表情をしていた。
「お前……」
「ホントにすごい秘蔵っ子を手に入れちゃったなあ、僕」
彼の呟きは、まだ生温い風に紛れて消えていく。
也梛が握られた手を強く握り返すと、諷杝がさらに力をこめたのが分かった。
「お腹すいたね」
「ああ」
「うん。どんなご馳走があるのかなあ」
矢㮈が空いている方の手を腹にあてて晩餐の料理に思いを馳せる。
「委員長と春日井さん辺りが腕を振るってくれそうだけど」
あとオードブルも頼んでるみたいだよ、と言う諷杝はもういつも通りで、先程の泣きそうな表情は嘘のように消えていた。
(どっちが秘蔵っ子なんだか)
也梛にすれば諷杝こそ、やっと見つけた秘蔵っ子のような存在だ。――同い年でこんなことを言うのもおかしい気がするが。
「あ、イツキさんだ!」
矢㮈が声を上げた先に、ひょこひょこと飛び跳ねるように近付いてくる物体がある。夕陽に照らされて、白い体はオレンジ色に染まっていた。
この白い鳩も、晩餐に参加するつもりでやってきたのだろうか。
也梛はすっかり馴染んでいる鳩に苦笑しつつ、ゆっくりと食堂に向かって歩き出した。
さて、長い音楽編の夏が終わりました。夏が終わった次は秋ですかね……。




