五十話
あれから二年、いやもうすぐ三年か。短いようで、長い月日だったの。
「それで、どうしたんだ。デミオ老」
わしの目の前におられる若君。わしらの大恩人にして、若き領主。アイン・アルデバランさま。
本来、とてもお忙しい方だというのは微力を尽くしておるわしも分かっておる。じゃが、どうしても話したいこと。お聞きしたいことがあった。
「ほっ、ほっ。申し訳ありません、アインさま。お忙しいなか、時間を取っていただいた」
「いや、構わないよ。他ならぬデミオ老の頼みだ」
そうして人好きする笑みを浮かべられた。このような老骨にも配慮していただける。ありがたいことだ。こういうご領主さまだからこそ、わしらも着いていきたい。そう思える。
それはそれとして、本題に入らなければ。
「実は、領民たちのなかで少し、問題が立ち上がっているのです」
「問題? ……それはなんだ」
身を乗り出して確認されるアインさま。それだけわしらを、領地を心配してくださる。じゃが、今回は問題と言ってもそこまで危急のものではない。ただ……。
「実は、領民の一部で――いや、わしも含めて、ですな。いまの領地の名前を使いたくない。口にもしたくない、というのが一定数おるのです」
前代官の搾取、食い扶持すら稼げず離別した親子。
この名前は、それを想起させてしまう。あまりに辛い時期を、否応にもなく。
マーネン商会に連れてこられた者たちも、わしらの雰囲気でそれを察しておる。それで、表だって領地の名前は口に出さぬ。
正直、わしらだけの問題であれば口に出さなかったかもしれぬ。しかし、もう、わしらだけの問題ではない。
名前を呼ぶだけなら口をつぐむだけでよい。じゃが、いまでは商人との取引も盛んじゃ。それに領地の名前が使われる。
しかし、領地の名前を言いたくない、書きたくない。そんな空気が蔓延しておる。いまは商人が書いてくれておるからそれでいい。しかし、いつまでもそんな不自然、続けるわけにもいくまいて。
「……そう、か」
それだけ告げると、口に手を当て思案されるアインさま。さすがに、難しいのであろうか?
「デミオ老、よく知らせてくれた。感謝する」
「……いえ、そのようなこと」
こちらに深々と頭を下げ陳謝される。そのようなこと、他の代官ならするはずもなかろう。しかし、アインさまは間違いなく、そういうことをされる。だからこそ、わしらは安心してかの御方へ仕えられるのだ。
「だが、すまん。流石に国が絡むことゆえ、すぐには返事が出来ん」
「……左様で、ございますか」
やはり、無理か。とはいえ、分かりきっておったこと。本来、アインさまには土地の名を変える。そんな権限は持ち合わせておられぬ。あるいは、公爵家の方々なれば……。
「これが我がアルデバラン伯爵家。またはイオス公爵家であれば話が早かった。そうすれば、おそらく俺の一存が通っていただろう」
どこか苦々しげなアインさま。この方にも、なにか考えがあったのかもしれぬ。しかし――。
「だが、ここは名目上、俺に下賜されたとはいえ王国直轄領。流石にお伺いを立てないわけにも……」
ふむ……?
アインさまがそこで止まられ、なにか思案されている様子。もしや、なにか思い付かれたか。
「もしかしたら、なんとか出来るかもしれない。その願い、こちらで預からせてもらってもいいか?」
「……え、えぇ。それはもちろん構いませぬ」
……本当にこの御方は。じわり、と胸が暖かくなるのとともに、視界が滲む。情けなし、己が半分どころか、それ以上の歳の差がある若者に頼り、受け入れられるのが、これほど嬉しいとは。
わしは、目の前の若者。我らが主たるアイン・アルデバランさまへ深々と頭を下げた。願うように、祈るように。
「あぁ、それで。デミオ老。物は相談なんだが……」
なんであろうか?
わしは、泣いていたことをアインさまへ悟られぬよう顔を上げ、若き主君を見る。
「もし、もしだが。この領地の名を変える許可を得られたら、その時は、ひとつ名前の候補があるんだ」
「候補、でございますか?」
そんなこと、それこそ領主の権限で良かろう。それなのに、アインさまは相談、というかたちで領民たちへ寄り添ってくださる。わしらのことを考えてくださる。ほんに、嬉しいことよ。
「その時は、この土地の名をフェネクス、と改めようと思う。かつて謳われた怪鳥、不老不死にして再誕の象徴の名を」
「……はい」
そう、か。そうまでわしらのことを……。
アインさまは、ご領主さまはこれまでとは違う。新たな領地、新たな我ら、新たな思い出として歩んでいけ、とおっしゃる。
なにもなかっはずのこの地に。搾取されるだけだったこの地に。また、未来を。希望を与えてくださった。
それを理解して、わしは……。
「う、ぐぅ……」
もはや、涙を止めることはかなわなんだ。アインさまが泣くわしを心配しておる。
だが、それでもわしは。この、あふれる想いを止められなかった。
アイン・アルデバランさま、という希望。光に照らされて。わしは、確かに救われたのだ。




