握る掌
まだ日も昇らぬ明け方に、カタナとコーザはその手に剣をぶら下げて向かい合っていた。
「剣、変わったか?」
「この間の剣闘で折れた。これは依頼した剣が出来上がるまでの借り物だ」
場所は、ヒューバード剣闘士商会の中庭訓練場。名残りの月明かりに照らされた空は、夜ほどは暗くない、濃い蒼色に染まっていた。
「にしては、よさそうな逸品だけど」
「当たり前だ。使う剣に間に合わせで妥協する気はない」
周囲に人影はない。両者の間で殷々と張り詰めた空気を察してか、夜鳴き鳥の泣き声すらもどこか遠い。
「でもそうか、この間剣闘で負けたんだったな。相手は確か……」
「『炎』のギジオン。――相棒を奪われた借りは、必ず返す」
じゃり、と両者の足元が地を僅かに擦った。互いの間合いを計っているように。
「お前の方も、『闘技王』に叩き潰されたそうだな」
「耳が早いな、どこから聞いたよ?」
二振りの剣が、切っ先をもたげて大地を刺す。それぞれの持ち主の視線は、まだ互いに向けられてはいない。
「だが、負けっぱなしでいる気はないだろう」
「言われるまでもないさ」
だから今回の負けも、そのまま済ませてやる気はさらさらない。
どちらが口に出し、どちらが頷いたのか。仮にこの場に第三者がいたとしても、暗がりの中でその答えは得られなかっただろう。
「剣闘士になる前にした約束、まだ果たせてないんだよな」
「ああ。だから、正直に言おう。この展開は不本意極まりない」
闘技場で、真剣を持って、どちらが強いかはっきりさせる。
言葉にすればそれだけの、だが剣士として、決してないがしろにすることはできない決闘の約定。
「でも、しょーがない……で済ますには、おれもお前も虚仮にされ過ぎた」
「やられた時と同じ形で、倍にして返してやらねばおれたちは腑抜けにしかならん」
だからと言って、この二人が馴れ合いで手を組むこともやはり決してあり得ぬことで。
「戦ったこともない奴に、背中を預けるなんて考えられない」
「だがここで雌雄を決することは、あまりにも筋が通っていない」
故に、これがぎりぎりの妥協点。
地に刺した剣の柄から、カタナとコーザの手が離れる。
そして、空いたその手を拳に握り――。
「さて、と」
「やるか」
互いの武器だけを立会いとして、二人の『喧嘩』が始まった。
●
「吹き飛べ――!」
先手を取ったのはコーザ。カタナよりも一回り大きな身体ごと、目の前の敵を打ち砕くために突出する。
「単調!」
だが、先制の一撃を与えたのは、迎え撃つ形になったカタナだ。顔面に突き出される拳を右腕の捌きでいなしつつ、左の掌底をコーザの顎に叩き付ける。
――が。
「は、軽いな」
首周りの筋肉を膨張させて、コーザはカタナの一撃を仰け反ることすらなく受け止めた。そして、外された拳を裏拳気味に振り抜いてカタナの肩口辺りに放り込む。
「ぐあっ」
「どうした、剣が無くては戦えないか」
健気に急所など狙う必要などないとばかりに大雑把な狙いで叩き込まれるコーザの強打は、体格に劣るカタナにとっては脅威でしかない。
「ぬかせよ!」
しかし、カタナの足元はそれでも一歩も崩れない。衝撃を全身の間接に分散させてやり過ごすと、今度は右の拳を再びコーザの顎へとかち上げる。
「ぐ、が!」
「なん、だ。軽いとか言ったのはやせ我慢――ぐ!」
と、言う間もなく今度はコーザの前蹴りがカタナの胴を蹴り飛ばす。さすがにこれは堪えきれずにたたらを踏んだカタナだが、意地でも倒れず両の足は大地を踏みしめる。
「何か言ったか?」
「なんだよ、痛くて聞いてなかったのか?」
傲然とコーザがカタナを見下ろせば、カタナもコーザの眼前に拳を突きつけて言い返す。
そこからは、お互いに順序も組み立ても放り出しての打ち合いだった。
言うまでもなく、素手の戦いならば体格に優るコーザの優位は揺るがない。武器という、ある意味卑怯なまでの攻撃力を持つ存在が介在しない以上は、カタナの拳はコーザのそれに及ばない。
加えて、対人格闘の経験で言ってもコーザの方が上だろう。このシュームザオンで荒れた少年時代を過ごしていた彼にとって、殴り合いなど日常茶飯事だった。
しかし。
「――ヒュッ!」
「ちぃ!」
乱打を掻い潜ったカタナの貫手が、コーザの眉間を射抜くように突き込まれる。一手受け違えれば目が潰れる攻めに、コーザは真横に跳ねるようなステップで回り込む。
「うぐ……!」
だがそこに待っていたのはカタナ全身のバネを使って振り抜いた後ろ回し蹴り。体格で優るコーザの身体が浮き上がった。
こと単純な反射神経においては、カタナと同等以上の人間などシュームザオンの剣闘士でもエインとアダムくらいのものだろう。
それほどに、原初の森で野生の獣たちと鬩ぎ合って生き抜いて来たカタナのそれは凄まじい。
さらにどうしても埋められない膂力の差を徹底的な急所狙いで帳消しにして、カタナはコーザに痛打をねじ込む。
「お、おおぉ!」
だが、コーザの身体はそれでも揺らがない。打ち下ろしの拳が防御の上からカタナを押し潰すように叩き込まれる。
カタナの一撃をコーザが平然と耐えてみせれば、カタナはわざわざ同じところに重ねて打ち込む。
カタナがあくまで急所を容赦なく狙えば、コーザは問答無用に腕力任せの攻撃に徹する。
双方、格闘スタイルとしては正反対もいいところだが、その思考形態は全く同じだ。
――小細工無用。こいつは正面から殴り倒す。
それは、ある意味ではとても彼ららしくない考えだ。
戦士としてまず目指すべき勝利ではなく。どう戦ってみせるかという過程をこそ、今のカタナとコーザは見据えている。
「大振りすぎるな、欠伸が出るぜ!」
「子ネズミが、効くわけがあるか!」
その証拠に、この応酬。
カタナもコーザも普段剣闘の場で舌を回す趣味など持ち合わせてはいない。剣のやり取りこそ、言葉のそれよりも遥かに雄弁と確信しているのが剣闘士だ。
「つっ、鬱陶しいぞ!」
「この、馬鹿力め!」
それが、今の二人は全く違う。コーザなど、日常生活よりも今の方が口数は多いだろう。彼は拳を喰らいながらも吼えるのを止めず、剛腕の攻めを敢行している。
だから、これは勝負ではない。意地になった馬鹿な男二人が、あまりにも馬鹿だからしでかしているだけのただの『喧嘩』だ。
剣闘士の剣には、多くのものが乗っている。
それは例えば、己の強さへの自負、命をやり取りする覚悟、目指す未来。
カタナもコーザもそれは同じ。だから彼らは軽々と闘技場の外で真剣を振るうことはしない。
翻って、今の彼らの拳はどうか。
そこには自負も覚悟も未来もない。
何かを得るためのものでも、どちらが正しいかを決めるものでも、相手を否定するためのものでさえもない。
ただただ牙を剥いて吼えあう犬のような――言ってしまえば無益な暴力だ。
しかし、敢えて彼らの拳に篭っているものを挙げるとするならば。
「効くかぁ、こんなもんが!」
カタナが額からおびただしい血を噴き出しつつも殴り返させているものは。
「まだまだぁ!」
コーザが外れた肩を自分で嵌め直してまで前に進ませているものは。
おそらくそれは、彼らの「男」そのものだ。
●
「つうぅ!」
腹を突き抜ける拳の熱さを噛み殺して、カタナは返礼の一発をコーザの胸部に打ち込んだ。
「ぐふっ!」
「いい、加減に……!」
全身まんべんなく豪打を浴びたカタナの肌は痣だらけで、感じるのは痛みというよりも火に炙られたようなひりついた感覚だ。
「決めてやる!」
それでも、肚の底から湧き上がってくる活力は、いささかもその勢いを減じていない。
負けん気と意地を存分に押し込めた右の上段蹴りが、硬直したコーザの頭部を捉えた。
男が男に殴り合いで倒される――。
およそどんな時代、どんな場所のどんな男にとっても、これ以上『恥』と思わされるものもそうはない。
「ぐ、まだだ!」
「!」
引いた蹴り足を片手で払われ僅かに体勢が乱れたカタナ。即座に立て直すが、その一瞬の間を見逃してくれるほど、この男は甘くも鈍くもない。
「潰れろ!」
全身の力を思うさま注ぎ込んで放たれるのは、打ち下ろすような右拳。
先刻から多用してくるこの一撃が、素手のコーザの十八番に違いない。
「ぐ、ぁ!」
故にその威力は乾坤一擲。まともに喰らったカタナの膝がくずおれる。
だが。
「……はぁっ!」
カタナの意地はあくまでも倒れることを拒んで、地面を踏みしめて敵を迎え撃つ。
一度でも『喧嘩』に負けて地面に這ったことのあるものなら、その時感じた脳が腐り落ちるような感覚と魂が汚されたような涙の味を生涯忘れることはできないだろう。
たとえ公衆の面前で地に頭を擦りつけるような屈辱であっても、正面からの殴り合いで叩きのめされるそれには及ばない。
そんな話を聞けば、殴り合いになど興味は無いと答える男もいるだろう。自分はそんな意味の無いことはどうとも思わないと。
それは完全に正しい考えではあるのだが、だからといって、そいつが殴り倒されてもへらへらと本気で笑っていられるかと言えば話は別だ。
「お返し、だ!」
「喰らうか!」
カタナは、そしておそらくコーザも、既にこの『喧嘩』の意義や理由など頭から消し飛んでいた。
男は男と殴り合っている時、多分人生で一番馬鹿になる。
理屈も損得も体面もどこかに吹き飛び、握った拳が黄金よりも重くなるのだ。
しかしだからこそ、そうなれない男は心底からの軽蔑に値すると、きっと他のすべての男は思っている。
下らないと言えばこれ以上なく下らない、この世で最も野卑な真理と言っても過言ではないだろう。
そしてそうしたことを良く分かっているからこそ、彼らの拳は軽くない。
単純で馬鹿馬鹿しく、傍から見れば滑稽ですらある意地の張り合い――。
だが、己が男であることだけにすべてを賭けた拳の応酬は、断じて無価値では有り得ないのだ。
●
「はは」
割れた額をカタナが撫でる。熱に乾いた血はすでに流れるのを止めていたが、その手の汗に融かされて、どろりと少年の顔を彩った。
「ふん」
コーザが半分以上血の混じった唾を吐き捨てる。朱に染まった口元を不敵に釣り上げるその容貌は、血気盛んな戦鬼の若者のようだ。
お互い、体力的には限界だ。
しかし拳で相手を削り落とすようにして互いに研ぎ澄まされていった意地だけが、もはや戦意の恍惚にまで昇華されている。痛みも疲れも忘却の彼方、愚かなる多幸感にその身を包まれている。
だから両者の笑みは狂相でありながらも、根底がどこか無垢だった。
「おい、そろそろ夜明けだぞ」
コーザが、挑発するように声を上げる。
「だからどうした」
カタナはぶっきらぼうに、徐々に白んで行く空から目を背けた。
「いつまでもだらだらと。小技で体力の削り合いもないだろうと言っている」
がつん、と。コーザが右の拳を左の掌に打ちつける。
「萎えるだろうが? この熱を! 全部燃やし尽くして行こうじゃないか!」
白ける決着なぞ御免こうむる。この夜が明けぬうちに、貴様を叩きのめして終わらせると、コーザ=トートスは宣言した。
「そうかよ。だったら――」
そしてカタナもその意気に乗った。腰を落として、だらりと腕に遊びを持たせる。
これまでと異なる構えにコーザの眼が細められるが、カタナの表情もどこか忌々しげだ。
「見よう見まねだけど――おれが受けた『無刃』の技を見せてやるよ」
カタナの脳裏あるのは、自分に迫る『無刃』のアダムの最後の一撃。
極限状況の中で、自分が何をどうしていたかも曖昧なのに、何故か今、それを再現してやろうという気になっていた。
それは、考えるまでもなく無駄な挑戦だ。そう簡単にあの『無刃』の技が模倣できるようなら、そもそもアダムは『闘技王』に君臨してなどいないだろう。
理外の双拳――。
それがアダムの拳に付けられた畏怖の名称。たとえ同じ師に教えを受けたとしても、カタナがアダムに成れるわけでは当然ない。
「さあ、来いよコーザ」
だがそれを十分承知の上で、なおカタナは打って出た。
「面白い!」
そしてコーザも破顔一笑。無理だ無駄だなどとはまったく思わず、むしろよくぞやったと言いたげに、大きく一歩を踏み出した。
「行くぞ!」
「応!」
コーザが放つのは、己が最も得意とする右の打ち下ろし。何の工夫もない一撃だが、それだけにコーザには何よりも馴染んだ一撃だ。
迎えて飛び出すカタナの『無刃』もどきは、この場以外のどこに出しても恥ずかしいほどの付け焼刃。カタナ自身使用するのは生涯初めて、そして二度と使う気にもならないだろう借り物の技だ。
ただし、その格だけは最上級だ。たとえアダムという竜の鱗一枚であってもカタナが再現できたなら、勝負の結果は分からない。
「刃滅双掌――我流!」
「う、おおおぉ――!」
そして、二人の激突の瞬間を待っていたかのように――。新たな一日を運ぶ太陽が、最初の輝きを地上に投げかけた。
●
「何と言うか、男ってホントにバカだねー」
シュームザオンに降り注ぐ朝の光を一身に浴びて、リウはくすくすと含み笑う。
彼女がいる場所はヒューバード剣闘士商会の屋根の上だ。眼下には、今の今まで馬鹿な『喧嘩』に興じていた男二人が大の字になって伸びている。
「『一緒に組んであいつら見返してやろうぜ!』『おう!』で済むだけの話をまとめるために、どれだけ意地張り合ってんだか」
『喧嘩』が男の醍醐味というなら、その『喧嘩』を馬鹿げていると斬り捨てるのは女の妙味というものだ。リウの笑みは、実に自然にそれを地で行っている。
そして女が見ていない男の『喧嘩』など、まったく無味乾燥なものだろう。
「わたしにもよくわからないけど、本人たちが満足してるならいいんじゃないかな。イサギナくんは楽しそうだったし」
と、リウの言葉に返事をしたのは、ロロナ=アンゼナッハだ。傍らには相変わらず、彼女の愛剣『車輪剣』がこんなところまでどうやって持ち込んだのかと聞きたくなるような巨体を鎮座させている。
「でも、わざわざこんな早朝に呼び出して何かと思えば……」
「まあその辺は言いっこなし。別に用事もあったしさ」
「用事ってまさか……あなたもわたしと殴り合いでもしたいの?」
「冗談」
きょとんと、とぼけた顔で拳を持ち上げるロロナに、リウは心底遠慮したいという顔で首を振る。
「でもまあ、用件の結果だけは同じかな」
「……『双剣祭』のこと? あなたまさか」
何かに気付いたような顔で自分を見る『車輪剣』の剣闘士に、リウは大仰に口を吊り上げて悪戯っ気に満ちた笑みを見せた。
「そのまさかさ。……ねえロロナ、ボクと組まないか?」




