武神の兄弟
それは、いかなる人間とも比肩することのできない暴威であった。
「ぐ、あぁっ!」
カタナは、胸の中心を貫いた衝撃に為す術もなく吹き飛ばされ地を転がった。
速い――。彼に感じられるのはただそれだけ。殴られたのか、蹴られたのか。それさえも見えなかった。ただ、心臓の鼓動を押し潰される激痛に悶えて地を這うのみ。
「まだだ、立て」
声と同時、カタナの頭蓋に落ちて来るアダムの殺気。反射的に身を転がして躱しつつ、萎えかけた両足に気血を送って地を踏み立ち上がる。
「な!」
その眼前に、両目を掻き潰す手刀。折角立ち直った体勢を再び崩して逃れるが、右目の下が爪に裂かれて血がしぶく。
「無刃、双影脚」
「――う、おぉ!」
間髪入れず放たれたの一蹴りは、確かに一撃であったにも拘らず、カタナの右肩と左肘を同時に撃ち抜いていた。
海獣の鎧が弾け飛び肘関節が悲鳴を上げるが、カタナはそれにも構ってはいられなかった。
「いつまで縮こまっている? 戦え、カタナ=イサギナ」
脚が、肘が、膝が、そして拳が――。
いかなる名剣をも上回る、『アダム=サーヴァ』という最強の武器がカタナの全身を蹂躙しつくさんと迫っていたからだ。
(速過ぎる!)
剣という重荷を捨てたから、というだけでは説明のつかないアダムの速度。
否、これは単純な速さの問題ではない。剣を手放したアダムの肉体、そのキレ、そのバランスが、理想的なまでに完成しているのだ。
それは、高速飛行する精密機械がへばりついていた異物を取り除いたような本領発揮。
まるで、剣がアダムという存在を縛る鎖であったと言わんばかりに――。
「う、おおぉぉ――!」
我知らず、カタナは叫んでいた。
それは、拳打の怒涛に押し流される自らを鼓舞するためのものだろうか。
しかしその咆哮には隠しきれない苦悶と悲痛――そして、手負いの獣のごとき凶暴性が確かに宿っていたのだった。
●
「――前言撤回。死ぬかもしれないな、あの少年」
ミスマ=ベイフは、傍らで顔色をなくしている「同業」の少女にそう言った。口調は軽いが、彼の表情はこれ以上なく真剣そのものだ。
「アダムのやつ、攻撃に遠慮がない」
正直言って、アダムがこれほど本気になって戦うとはミスマの想定の外だ。
カタナ=イサギナは強い。剣の技術といい身体能力といい、闘技場でロロナと引き分けるまで連勝を続けていたのも頷ける。
しかし、それはあくまで「新人としては」でしかない。彼より速く、彼より巧い剣闘士は二つ名持ちには何人でもいるはずだ。
だからこそ、アダムはカタナの可能性を引き出すための戦いに徹するはずだと思っていた。いずれ自分にところまで上がってくる逸材だと認めていれば、アダムは必ずそうしたはずだ。
それが、この有様はどうだ。もはやカタナは手にした剣を振るうことすらできず剣闘場を転がって吹き飛ばされている。控えめに言ってもこれは嬲り殺しだ。
「いや、だからこそ、か? アダム、お前が引き出したい彼の可能性は……」
死の淵に立ったその時にようやく引き出されるものだと――。
そう思い至った瞬間、カタナが攻撃に打って出た。
「なに?」
虚を突かれて、ミスマは間の抜けた声を漏らす。
「ちょっと待て、何だそれは? あいつ――」
眼下で、カタナ=イサギナが片手を着いた奇妙に低い体勢で剣を振るっていた。
●
今のは――。アダムは、目線を下にやりつつ小さく呟いた。
地を這ったまま横薙ぎにアダムの脛を斬り払ったそれは、寸前で後方に跳び退いて回避した。
だが、カタナが『無刃』に対して初めて放った反撃の刃は、これまでになくアダムに近づいた。
「……しゃあぁ!」
カタナの喉が鳴くように威嚇の声を迸らせ。そして低い体勢を保ったまま、カタナがアダムに向かって駆け出した。
「ふっ!」
迫る影にアダムは打ち下ろしの拳を放つが、当たらない。
低く、より低く。
素手であることの絶対的な不利。それはリーチの短さだ。なるほど、いかな無双の『無刃』であっても、その事実だけは否定できない。
カタナはその僅かな、しかし確実に存在する弱点を、「遠さ」ではなく「低さ」で突いたのだ。
立ったまま足元に迫る敵を殴る。
それは人体の構造上、かなりの無理がある体勢であることは言うまでもない。
「ならば――」
呟いて放たれるのは、アダムの足刀。拳の射程外である足元は蹴りの射程。これもまた当然のことだ。
「く、はは!」
だが、カタナは嗤った。牙を剥くように、顔面からアダムの蹴りに喰らいつくように突っ込んで行く。
「ぐぅあぁ!」
球を蹴り飛ばすように頭を弾かれつつも、カタナが振り抜いた剣は、アダムの軸足へ。
「!」
初めて、アダムの顔色が変わった。
地に伏せれば蹴りが来ることなど承知の上。カタナはその蹴りを敢えて喰らうことでアダムの脚を止めたのだ。蹴りを放った瞬間は、全体重が軸足にかかって身動きを取ることはできない。二足の人間である以上、それはアダムでも同じことだ。
もらった――。アダムには、カタナがそう確信したことが表情でわかる。
しかし。
「無刃、独楽転!」
飛び込むように両手をカタナの背に着いたアダムの身体が大きく回転。まるで逆立ちするように、両足が高く跳ね上がる。カタナの剣を掠めるように回避した足が、カタナの直上から墜落。
「ご、は……」
絶息。
全体重を叩きつけられたカタナ。彼が咄嗟に身を転がして距離を取ったのはほとんど本能だろう。
「……今のは中々だった。多少だが、冷や汗をかいた」
「ぐううぅ……」
片手を着いたカタナの姿は、アダムの眼にはもう人間には見えない。
これは獣。三足で駆け、鋼を爪牙とする奇形獣だ。
「分かってきたようだな。私は『剣』を捨てて己の色を手に入れた」
ならば、貴様の場合は――。
アダムは、場に似合わぬ慈眼で弟弟子を眺め、そっと囁いた。
「『己』を捨てて、異形の剣を色とするしか道は無い」
●
「違ウ……!」
カタナは、アダムの言葉を否定する。
「オレハ、もう、獣にはならない!」
真っ赤に染まった視界と思考。その中でカタナは辛うじて理性を保っていた。
それは、決して彼が狙った事態ではない。
カタナの獣を封じたカーン=ハイドと同質のアダムの剣。そして、圧倒的ということすら生温いアダムの武威。
その衝撃はカタナの奥底に在る狂気と悪食の化身を呼び覚ますには十分すぎるものだった。
だがしかし、今のカタナは、理性が蒸発する寸前のところで本能に頚木をかけていた。
半獣半人へ落ちる一歩手前の半暴走。言わば、獣と人のクォーターだ。
戦闘スタイルこそ獣のそれだが、主導権を握るのはあくまで人の理性だ。
「アダムぅ!」
カタナは叫び、駆ける。迎撃されたが、この戦法がアダムにとって不得意なものであることは間違いのない事実だ。
低く、より低く。土を噛むような、まさしく獣の様相でカタナは駆ける。
そしてアダムは滑るような歩法でカタナの剣をいなす。その彼の眼には、眼前の獣混じりを観察する冷静さが戻っている。
「確かに先刻までとはかなりマシになった」
「言ってろ!」
転瞬。
カタナの身体が跳ね上がる。全身のバネを使った跳躍で、長身のアダムの眼前に『姫斬丸』が煌めいた。
超下段から大上段への急変。
地を這うカタナに目を馴らした虚を突く一手にアダムの反応が半瞬遅れる。
「らあぁ!」
そして撃ち落とされる唐竹割り。手足も意識も足元に向いていたアダムにこれを凌ぐ手はない。
「……」
そして事実、アダムは何もしなかった――立つことすらも。
「な!」
脱力。
膝から崩れ落ちるようにアダムの身体が地面に向かって落下する。頭蓋を断ち割ろうと迫る、カタナの剣を置き去りに。
重力という万物を縛る力。
それは虚を突かれていようと反応が遅れていようと、何の関わりもなくアダムの身体を下へと逃がした。
戦闘中の全身脱力。それは並の神経でできることではない。ほとんど戦場のど真ん中で眠るに等しい暴挙だ。
だが、必要とあらば「それ」を当たり前にやってのけるのが『闘技王』。剣闘の頂点だ。
「狙いはいい。が、足元だろうと頭上だろうと、無刃の技に死角はない」
静かな言葉と共に、崩れたアダムが身を翻して両手を地に着く。
そして、再びその身体が跳ね上がる。
「無刃、独楽転――二式!」
打ち上げられる両足の蹴りは、宙に取り残されたカタナを微塵の容赦もなく貫いた。
文字通りに撃墜されたカタナは、受け身も取れずに地に墜ちる。
「半端だな、カタナ=イサギナ。重荷を捨てずに、空は飛べない。それほどに、人は強くない」
アダムが、カタナの傍らに立ち、彼を見下ろす。
「捨てろ、立ち返れ。カーン=ハイドに出会うよりも前の、己の本質へと回帰しろ!」
それは、いざない。かつてその道を辿ったものからの、後進を呼ぶ招きの声だ。
その道を往けば、カタナは確かに強くなれるだろう。
アダムのように立ち塞がるものを蹂躙し、たった一人の極致に至る『闘技王』への道なのだろう。
何より、このままではここでカタナは死ぬ。アダムの気配がそう言っている。半端者には用はないと。
異端の拳に勝つには、こちらもまた暴食の獣へと至るしかない。
だが。
「イヤ、だね」
その声と共に、カタナが立ち上がる。額から、頬から流血した傷だらけの顔を笑みに変えて。
「……おれは、あんなザマは、二度と……御免だ」
「……貴様」
初めて、アダムの声に険が篭った。明らかな苛立ちが、『闘技王』の顔に刻まれている。
「貴様の、上を目指す思いはそんなものか。自己満足したまま凡百の剣闘士で終わって満足か?」
「ふざける、な。おれは、『闘技王』に、なる。『おれ』の、ままでな!」
そう。もう二度と、彼は獣に戻るつもりはない。
ロロナ=アンゼナッハとの剣闘で彼は知った。己の歩んだ剣の道を、後に続いて追いつこうと駆けている人がいることを。
「だから、ここで闇に戻ってなんかやるものか!」
宣言し、剣を振るう。獣ではない、カタナの剣を。
「違う。何度も言わせるな、貴様の剣などどこにもない!」
苛立ち任せのアダムの大振り。しかしそんな攻撃でもカタナは抗することもできずに打ち倒される。
「過去へと還れ、闇を認めろ! 貴様の真実はソコにある!」
頭が痛い。獣が暴れる。アダムの呼び声に賛同し、腹を鳴らして滾っている。
「……おれの、真実? そんなものは決まってる」
込み上げる胃液を飲み下し、カタナは告げる。目の前の男に対するための名を。
「ヒューバード商会所属剣闘士、カタナ=イサギナだ! それがおれだ。……文句あるかよ、『闘技王』!」
レレット=ヒューバードが彼を見ている。この身を剣闘士と信じる人が居るならば、きっとそう在り続けることができる。
「兄弟子だか何だか知らないけどな、人の決意にしゃしゃり出てくるんじゃねえぇ!」
剣だ。もうカタナにはアダムの姿も朧に霞んでいる。ただ右手の剣の感触だけを確かに感じて、前進するのだ。
「……愚かだ。愚鈍にも程があるぞカタナ=イサギナ!」
衝撃。
殴られたのだろうか。さっきまであんなに響いた痛みさえ、どこか遠い残響だ。
「それで、見栄を切った上でこの様だ。茶番だ、敗者の戯言になど、一片の価値もない。貴様は己で勝利を手放した」
「……それ、でも」
「――まだ立つか!」
ルミル=トートスへの誓いを彼は覚えている。誰にも恥じない戦士として、己の闇にだけは負けることを許されないのだ。
「だから……おれ、は。アレに負ける方が、よっぽど怖い……!」
脚を引き摺ってなお剣闘場を駆ける。否、それは既に這いずるような無様さだった。
今の自分は、戦士という素描に、絵の具の代わりに血を使って絵画らしく仕立てているようなものだとカタナには分かっていた。
もしも獣の本能を解放していれば、より速く、より鋭く動くことはできたはずだった。
「それが、中途半端に理性を残しているから、この愚鈍さだ。理解しろ、己の過ちを!」
今のカタナはあらゆる意味で半端者。人として完敗することも獣として勝利をもぎ取ることもせず、どっちつかずの無様さで戦っている。
「愚鈍で、結構! 二度同じ失敗する下種にならなくて済むならなぁ!」
リーリウム=シノバの顔を彼は思い出す。またあの獣を解き放ち、大事に思う誰かを傷つけてはならないと強く決意する。
「おおぉあぁ――!」
震える腕で放った剣が、『何か』に触れた。
●
それは、当のカタナにとっても確証が持てないほど曖昧な感覚だった。
「――あ」
だが、『姫斬丸』は掠めるように、確かに何かを斬り裂いた。
「……」
静寂。カタナもアダムも、ありえない事態が起こったことに自失していた。
「……カタナ=イサギナが、アダム=サーヴァを斬った?」
その声は、一体誰の声だったか。
ミスマか、レレットか。それとも異変を聞きつけて戦闘を中断して、連れだって闘技場へと姿を現したばかりのリウとロロナのどちらかか。
あるいは、それは幻聴だったのかもしれない。
だが、その言葉が示す事実だけは、紛れもない現実だった。
そして直後。
アダム=サーヴァの気配が。
『闘技王』の戦意が。
『無刃』の殺意が。
「斬ったな?」
この世に非ざる域の暗黒として、この闘技場を覆い尽くした。
「闇から目を背けた敗残者が……闇を踏破した私を斬ったなあぁ――!」
右頬から一筋の血を流したアダム=サーヴァが、魂さえも掻き消すような絶叫でカタナを打った。
それは、怒りか。己を否定するものが己に傷を付けたことへの嚇怒の念か。
「……もう、いい。もう貴様に何の期待もしない」
あるいは、哀しみか。己の過去を共有できるかもしれないものと別たれたことへの悲哀か。
「最高の無刃。その一撃で終わらせる。貴様の無軌道、生きる道などないと知れ」
そして。
「無刃――刃滅双掌!」
あらゆる鋼を擂り潰す拳神の両手が、カタナという存在を消滅させる。
●
その時。
カタナは不思議と冷静だった。
アダムの絶掌。ただの腕の筈なのに、闘技場さえ握り潰すほどに巨大な存在感を持って放たれる秘技に対して、対抗手段などありはしない。
だから、かえって気持ちがはっきりした。
『どう足掻いても無意味なら、したいようにすればいい』
「そうだろ? ……ラファエラ」
カタナ=イサギナ。かつての、ヴィーエン大山脈の獣人。
今は、ヒューバード商会の剣闘士、カタナ=イサギナだ。
ラファエラ=イヴに救われた彼はかつての獣とは別の存在だ。幾多の戦い、幾多の出会いが、彼を人間として新生させた。
だからカタナは、あくまでも一人の人間。一個の剣闘士として『闘技王』に立ち向かうことを選ぶのだ。
「……斬鉄剣」
放ったのは、記憶に最も残る師の技。己が獣から人に戻った日に、その眼に焼き付いた至高の剣だった。
猿真似?
借り物の剣?
好きに呼べばいい。この剣は己を剣の道へと導いた光だ。それだけは、誰にも覆せない事実なのだから。
人生で初めて。かつてない完成度で放ったその技に全てを注ぎ。迫る『無刃』との激突を見る前に、カタナの意識は途切れていた。
●
「アダム!」
決着と同時、ミスマ=ベイフは、驚愕の叫びと共に剣闘場へと飛び下りていた。
着地の衝撃で足を傷めたが、そんなことは構っていられない。
その場に立ち尽くすアダムと、倒れたカタナの下へと駆け出した。
「カタナ!」
レレット=ヒューバードと、剣闘士リウ=シノバ、それにロロナも次々と降りて来るが、ミスマはそれを意識の外に追いやった。
「アダム、お前今本気で……!」
言いかけて、止まる。視線は、アダムの姿で固定されている。
「……おいアダム、その傷は!」
アダムの両腕、そして喉元から、さっきまで存在しなかったはずの傷が生まれ、それぞれ真っ赤な血が流れ出していた。紛れもなく斬撃によるものだ。
「く、あはははは……!」
そして、アダムは笑っていた。先程までの狂気じみた気配は跡形もなく消えて、子供のように軽快な笑い声を響かせて。
「は、はは。何だそれは? あの状況で、私の両腕と、さらに首まで取りに来た! おかげでまんまと生き残って見せたか!」
「――は?」
呆気に取られるミスマをいつものように置き去りに、アダムは地に伏せたカタナを見遣る。
「なるほど、流石は我らが師。確かにこの弟分には剣の才があるらしい。まったく仰る通りでした。もしやこの結果も予想通りなので?」
「アダムさん」
「『闘技王』! 何を……」
カタナに駆け寄る少女たちを押し退けて、アダムは少年の身体を軽く担ぎ上げる。
「最後の一撃は『闘技王』たる私の全力。どんな形であれそれを凌いだ以上、もう私から言えることなどない」
そしてそのまま、アダムは歩き出す。カタナを背負い、闘技場の外へと。
「私と違う道を行く。ならば貴様を、友ではなく敵手として認めよう。今日の敗北を糧に、私の元へと上がって来い。……何をしているミスマ、医者の手配だ。このままだと死ぬかもしれん」
兄が弟を背負うように。
『闘技王』は未来の挑戦者を連れて夜の剣闘都市へと歩いて行った。
第二章これにて完結。
次回より過去編。
カタナの過去の全てと『五人目』の少女の物語。
外伝『獣の章』開始。




