アダムの剣
『彼』が、一体どこからやって来たのか、知る者はいない。
何処で産まれ、どんな人生を経て、何を思って流浪していたのか、『彼』は誰にも明かしはしないから。
『彼』は十年ほど前のある日、シュームザオンに現れた。ロクな荷物も持たず、みすぼらしい旅装に古びた青銅製の剣一本を背負った『彼』に眼を止めるものはいなかった。
『彼』が訪れたシュームザオンは、帝国全土から剣闘士を目指す若者が多く訪れる剣闘都市。『彼』の姿は、そうした者たちに紛れて誰の注目も浴びることなく、見過ごされていた。
いや、正確には一人だけ。街を悠然と歩くその『彼』をふと目を止めて、能天気な声を掛けた少年が居た。
「よお、お前強そうだな! あっちで剣闘士志望者たちが賭け試合してるんだ、懐が寂しいならいっちょ挑戦してみろよ!」
その時少年は、本当に『彼』が強そうだと思ってそう言ったわけではない。
家の用事を済ませた帰り道。何の気なしに剣を背負ったその『彼』の姿を見て、ああ剣闘士志望の「おのぼりさん」か、と勝手に得心して声を掛けただけだったのだ。別段、変わった予感や気配を感じた訳でもなんでもない、ただの日常の一言として。
「……私に言ったのか?」
少年に声を掛けられた『彼』は、茫洋とした表情で、そう返事をした。
後に分かったことだが、『彼』がそうして素直に反応することは滅多にないことだった。さらに珍しいことに、その眼がきょとんと丸くなっていたようにも少年には見えた。
だが、その時の少年にそんなことは分かるはずもなく。
「ああ。お前も、剣闘士になりにシュームザオンに来たんだろ? 何だったら、安い宿でも紹介してやるよ……ってもウチの親父がやってるとこだけどな」
そんな風に、いつものように適当な笑顔で話を進めていたのだった。
それが彼らの出会い。
後の『闘技王』アダム=サーヴァと、彼の剣闘に魅せられたミスマ=ベイフの初めての出会いだったのだ。
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「……で、あれからもう十年以上か。思えば遠くに来たもんだ……街からは動いてないんだけどな」
シュームザオンの中央闘技場。その観客席の一角に腰掛けて、ミスマ=ベイフは大きく伸びをして深呼吸した。
周囲の観客席に、人影は全くない。時刻は既に宵の口。本日の剣闘はとうに終わり、陽も落ちたこの場所は、まるで陥落した要塞跡のように戚として沈んでいる。
背筋に染み込むようなその静けさの中、ミスマは追想を続ける。
アダムとの出会いの日を境に、ミスマの日常はがらりと変わった――わけではない。
その日、賭け試合に飛び入りしたアダムは、中々の活躍を見せた。剣闘士を目指す大の男を立て続けに三人倒し、周囲を大いに驚かせたのだ。意外な実力に、義理で小遣いをアダムに賭けていたミスマも驚いたが、それ以上に穴を当てて得た臨時収入に小躍りしたものだ。
そう、この時のアダムは確かに強かったが、決して今のように隔絶した強さを持っていた訳ではなかった。
強いことは強い、年齢を考えれば破格なほどに。
だが、だからと言って『闘技王』になれる逸材だとは、その場の誰も思わなかった。
そしてアダムは、四人目の対戦相手が進み出る前にその場を辞した。用事のことをすっかり忘れていたと、慌てて家に帰るミスマの後を付いて行って、本当にそのままミスマの実家の宿に住み着いたのだ。
それからは、アダムに付き合って街を巡るのがミスマの日常になった。
アダムは都市での暮らし方というものを全く知らず、金もほとんど無一文に近かったのだ。
朝からアダムに街を案内し、人出が増えて来たらあちこちでやっている剣闘士志望者の野良試合にアダムを連れて行く。
ミスマはアダムの戦いで賭けをやって、その上がりがそのままアダムの宿代になった。
そして陽が暮れる頃には、二人して家路につく。
ミスマとアダムは、そんな風にして、真っ赤に染まったシュームザオンの街を幾度も並んで歩いた。
「あー、腹減ったな。何か買っていくか、アダム?」
「……いい」
「でもお前の方が腹減ってるだろ? 今日だって何回も戦ったんだから」
「……」
「何だよその顔」
「ミスマ」
「?」
「今日の夕食は……、猪鍋だ」
「……、好きなのか? イノシシ」
「ものすごく」
そんな、他愛もない会話をしながら、夕日の中を風に吹かれてそぞろ歩く。
多分それが、ミスマにとってアダムとの原風景だ。
ミスマはまだ幼く、アダムも恐らくそうだったのだろう。無条件に未来を信じ、今を謳歌していた日々は、変わることなく進んで行くのだと思っていた。
それが変わったのは、ミスマとアダムの出会いからおよそ一年後。
アダムがエイデン剣闘士商会という、十数人の剣闘士を抱える中規模の商会に剣闘士契約を持ちかけられた頃で――。
アダムが、シュームザオンに来てからずっと封じ続けていた、『無刃』が解き放たれた日のことだった。
●
ひゅお、と風を切る音がする。
ミスマの眼下。剣闘場で、一本の剣が空を斬っていた。
静寂に沈んだ闘技場の中、その微かな音はミスマの元に掠れて届く。
「――アダム」
そこで、一人剣を振るっているのは、アダム=サーヴァだ。円い剣闘場を四角く区切るように、松明が四本、明々と燃えている。
その明かりの中、アダムは黙々と剣を振るう。夏とは言え、石造りの壁に囲まれた野外はいささか涼しさが強い。アダムの身体からは、熱気が湯気となってぼんやりと立ち昇っているようだった。
アダムは時折、このように夜の剣闘場で剣を振るうことがある。
それは大体、あまりに剣闘の間隔が開いた時であったり、他人の戦いを眼にしてひどく触発されたときだったりする。今回は、両方だろう。
アダムに対する剣闘の申し込み自体はひっきりなしにあるのだから、そんなに欲求不満になるなら何でも受ければいいではないかとミスマは思うのだが、アダムの中には譲れない基準があるらしく、ほとんどの挑戦は一顧だにされない。そして、その対処はミスマに丸投げである。
とは言え、ミスマには不満はない。そもそもそのために、ミスマはこの商会の長になったのだから。
アダムは、実戦以外では絶対に『無刃』の技は使わない。頑なに、剣の技だけを修練し続ける。
今も、延々と飽くことなく剣を握るその姿はごく尋常の剣闘士の姿だ。
異端の剣闘士。
今ではもう聞かれることもないが、『闘技王』の座を得る以前の『無刃』のアダムは、よくそう呼ばれていた。
無理もない。武器を持って戦う場において、素手で戦い、しかもそれが途方もなく強いのだから――剣を持って戦うよりも。
素手の相手に打ち倒される他の剣闘士たちにとっては屈辱であっただろうし、また単純に異常でもある。武器を持つよりも持たない方が強い人間など、普通に考えればいるわけがない。
だが、アダムの肉体にとって剣は武器ではなく、手を無粋に塞ぐ邪魔なものでしかない。枷であり、重荷であり、異物なのだ。
アダムは、その身体だけで完成された戦闘存在。だからこそ、武器など始めから不要。
竜がその爪を斬り落としてナマクラなナイフを掴んで戦おうとしたら、誰もが笑うだろう。滑稽であり、無駄であり、不合理であると。
だがアダムは、決して剣を捨てない。どんな戦いであっても、最初から『無刃』で戦おうとしたことは一度も無い。先の『人斬り剣獄』掃討においても、いよいよ瓦礫の雨に突入する時までは剣を手放すことはしなかったらしい。
アダム=サーヴァは強い。名実ともに帝国最強の戦士だ。それは事実だが、同時にミスマは知っている。
アダムは剣に愛されてはいない。しかし、彼は誰よりも剣を愛しているのだ。
無機物相手への片思い。この上なく不毛なそれを笑う気にはミスマにはなれない。いっそ笑ってやれれば良かったのかもしれないが、今さらだ。
だからこそ、彼は待っている。剣を愛し、剣に愛された剣闘士が彼の前に現れることを。その果てに訪れる戦いを。
「――来たか」
アダムが、動きを止めて振り向いた。
ミスマも気付く。松明の光の届く末端から、人影が踏み出して来るのを。
それは、海獣の革鎧に赤獅子の鬣の襟飾り、黒金のグローブとブーツに身を固めた一人の少年。右手には彼の姿にしっくりと馴染んだ片刃の直剣、『姫斬丸』。
ミスマは、剣闘場に姿を現したカタナ=イサギナを見て心の内で呟いた。
――アダムはずっと待っている。そう、この少年のような存在を。
●
ロロナとの激闘で気を失ったカタナが目を覚ましたのは、それから丸一日が経ってから。
「あ。カタナ、起きた!」
ヒューバード商会の自室で目を覚ましたカタナを待っていたのは、いつもとは少し違う光景だった。
「起きたね? 身体動く? じャあ早く着替えて、訓練しよう訓練。訓練戦闘決闘!」
「だめだよリウくん。カタナはまだ安静にしてないと。うん、安静に。……あの人のこと忘れるまで、ずっとわたしが安静に……」
いきなり飛び込んで来た声と、がくがく揺さぶられる己の身体に、意識を取り戻した直後のカタナの認識が追いつかない。
「え? は? な、何? なにこれ?」
目を回すようにしながらも、何とか状況を把握しようとするカタナにまず見えたものは。
「ほらほら、一日寝てたから身体鈍ってるでしョ? 早く戦ろうヨ!」
なにやら興奮したようにカタナの腕を引っ張っているリウと。
「さあカタナ、まだ傷が塞がりきってないんだから、安静に、ね?」
がっしりと、妙に強い腕力と迫力でカタナの肩を抑えているレレット。
そして。
「……カタナくん、寝てる間の貞操だけは守ったよ……あとは、自分で何とかしてくれたまえ……」
半死半生と言った体でがっくりと床にへたり込んでいるオーブの姿だった。
「え? 何、この状況? オーブさん、なんでそんな燃え尽き……って待てリウ、レレット! 痛い、これ痛い! 何か連携で関節極めみたいになってるから! 肩が外れる、ってか腕もげる! もげるから! 誰かー!」
二人の少女に寄ってたかられたカタナは、身も世もない悲鳴を上げて助けを呼んだのだった。
●
「……カタナが起きたか」
ジーク=キアンは、階上から響いて来た叫びを耳にして一人頷いた。
どんな状況かは予想がついている。カタナが寝ている間、リウはずっと血が騒いだように興奮していたし、レレットは仕事以外でほとんどカタナの傍を離れようとしていなかった。
ジークを始めとした他の面々はまあいつもの延長だろうと考えてそのままにしておいたが、オーブだけは何やら危機感を感じたようでカタナの護衛よろしく付いていた。
闘技場からカタナを背負って来たのも彼だったし、面倒見のいいことだとジークは一つ年上の剣闘士に感心したような心持になったものだ。
「さて」
その間にも、いよいよカタナの叫びが哀れっぽくなってきた。そろそろ様子を見に行った方がいいかと考えるが。
「失礼! 誰かいないかな?」
玄関から響いた来客の声に、あっさりと諦める。仕事優先、カタナには潔く成仏して貰うことにする。
「お待たせしました、ヒューバード商会にようこそ。当商会に何の御用でしょうか」
静かな早足で玄関に向かう。まだまだ「先生」の謹直柔和な佇まいには及ばないが、ここ暫くで大分こなれて来た礼をして出迎える。
来客は、一目で戦士と分かる身体つきをした、少し小柄な男だった。
「やあどうも。エイデン商会のディムというものだ。カタナ=イサギナはいるかな? そろそろ目を覚ます頃かと思って来たんだが」
強い。直感したジークは伏せた眼を細める。
戦意はなくとも、この研ぎ澄まされた気配に反応して身体が身構えそうになる。未だ彼の中から抜けきっていない、『傭兵』としての習性だ。馴染みのない戦士の気配に、過敏に呼応してしまう。
「……今は、少し取り込み中なのですが、少々お待ちいただけますか」
何とか警戒を面に見せないようにしながら返答するも、ディムは気楽そうな顔で、両手を軽く開いて見せる。まるで武装していないことを示すように。
「ああ、じゃあいいよ。君が伝言しておいてくれ、こっちもちょっと忙しい」
「……かしこまりました」
内心を見抜かれたことを察しつつも、ジークはあくまでも一使用人の態度を崩さない。過去がどうであれ、今の在り方を遵守することが、現在のジークの矜持だ。
ディムは、それに労わるように軽く頷いてから、口上を述べる。
「では、こう伝えてくれ。――『二日後の日暮れ後、シュームザオン中央闘技場で待つ。武装の上、来られたし。彼女に勝利した場合の約束、その半分を果たす』……と」
その内容に、ジークは思わず目を見開く。カタナの前回の剣闘に付けられていた条件。それは、勝者となれば、『あの』剣闘士への挑戦が許されるというもの。
そしてそう、エイデン商会と言えば、『彼』の所属する商会で――。
「じゃ、頼んだよ。しっかり伝えてくれよ、良い気配の執事さん。あんたとも闘技場でやり合えたら楽しかったかもな?」
悪戯っぽくそう言って、驚きを露わにしたジークに手を振り、『旗使い』のディムは軽やかに去って行った。
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そして、今。
「――来たか」
カタナは、夜に沈んだ闘技場で、『彼』と向かい合っている。
ジークの伝言は、皆が寝静まった深夜に、カタナだけに密かに伝えられた。リウにも、レレットにも知られてはいない。知られて困るものではなかったが、それでも、カタナは誰にも教えることはせず、この場にやって来た。
「ロロナとの戦い。君は勝者にはなれなかったが、敗者でも断じてない。そして、あの戦いは実に見事だった。双方勝者、そう言っても構わないと思う」
夜の人気の無い闘技場は、普段とは全く違う陰鬱な気配すら感じさせるもので、カタナを少し戸惑わせる。
しかし、今から起こることを思えば、そんな躊躇は感じている暇もない。
そう、カタナの目の前には、剣を携えた『彼』が居るのだ。
『彼』――『闘技王』アダムは、カタナに茫洋とした視線を向けて告げた。
「故に、私も約束を果たそう」
ざっ、と足元の砂利を蹴るようにして、アダムが構える。
右手に持った長剣を前に、半身に構えた身体をその陰に置く。
「――」
その構え、とてもよく知っているそれを一瞬だけ目に焼き付けて、カタナも構える。
剣を持った右手は前に、身体は――半身に。
そっくり、否、全く同じ構えを見せた二人。それに、どこかで誰かが息を呑むような気配がした。
同じ――、そう二人の構えは全く同じ。見かけだけの問題ではない。両者が身に付けた剣の振るい方や、その裏打ちされた訓練までも全く同一のものであるからこそ、それは鏡写しのものとして感じられるのだ。
そして。その意味が今、アダムの言葉としてはっきりと告げられる。
●
「来い……、『闘王殺し』の二番弟子!」
●
「――っ行くぞ!」
闇夜を引き裂く『兄弟子』の声に呼応して、カタナ=イサギナは駆け出した。
アダムとカタナ。
彼らは、共に『闘王殺し』カーン=ハイドの薫陶を受けたもの。剣闘の頂に立った男に見出された二人が、互いにぶつかり合う。
つまり今起こっていることは、一言で言えば、こういうことだ。
――同門対決、ここに開幕。




